5.25.2015

[film] The Last Five Years (2014)

一本飛ばしていた。 15日の金曜日の晩、有楽町で見たやつ。

Cathy (Anna Kendrick)とJamie (Jeremy Jordan)の出会って付きあってプロポーズして結婚して別れるまでの5年間、最後の5年間のあれこれをほぼ二人の歌と歌唱だけで綴る。

Cathyの歌は別れることが決定的になったところから始まって時間を遡っていって、Jamieの歌は出会ったころから時間の流れに沿って進んで、まんなかあたりでぶつかって終る。その終りは、先が見えているぶんちょっと苦い。

Cathyは大学の頃から舞台俳優志望で、でもあんまぱっとしなくて、他方Jamieは新人作家として脚光を浴びてNYに渡ってそこからも前に進んでいく。 このふたりの位置の違いや距離感がふたりの恋の行方やその後になにか影響を与えたとは思えない。 そんなにわかりやすいものではないのだ、と誰もが思う。それにふたりは歌を通じてしかなにかを言わない。

歌が明らかにするのは彼らのエモだと思うのだが、それが歌われる断面で、彼らのエモが乱れることはない。ふたりのハーモニーも含めてぶれたり揺れたりすることは殆どなくて、つまり、歌と歌の間に、つまり映画で描かれた外側でなにかが起こったのだなと、見ている我々は思う。

歌として表現される彼らのその時々の想い。その歌はふたりの見事な歌唱と共に見事な美しさと調和をみせる。 3分間のポップソングの中で完結する完璧な愛の世界。その歌は94分間続いて、その歌が描きだそうとした理想の世界は5年間でぷつんと途絶えた。 終った理由はわからない。 わかるわけないし、わからなくていいじゃん、ということをこの映画の歌のありようは伝える。だからひとは歌を求めるのだし、愛に向かうのではないか、と。 それでじゅうぶんじゃん。

て言ってしまったら終りであることも確かで、あとはもう歌をふんふん聴いていれば済んでしまう。
これは歌を土台にしたひとつの世界、またいつか歌い出すことで再生可能となる世界。
でも例えば、歌が歌えなくなって世界の終りがすぐそこに見える、そういう世界 - 例えばジャック・ドゥミの - 身を切るような世界 −  例えば「最後の5年間」ではなくBowieの”Five Years” - 「あと5年しかない」 - ていう刹那があったらなあ、ていうのは高望みかしら。

Anna Kendrickさんはうまいねえ。
しかし、”2”が話題になったからって今頃”1”を上映してんじゃねえよ! - “Pitch Perfect” 


昼間の地震、本の山が崩れていなかったのはすごい、えらい。
まあ床の上だからなー。これで崩れたらまた引っ越しになるとこだわよ。

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