4.20.2013

[film] Berlin Alexanderplatz (1980– )

3月24日の日曜日から28日の木曜日に1~9話までを、4月3日の水曜日から5日の金曜日に10~14話までを見た。 ぜんぶ21:10開始の回。

とにかく長年ずーっと見たいと思っていたやつで、でもそう簡単に見れるもんでもないことは十分わかっていて、でも途中で頓挫しても、1話だけでも見ておきたい、見ておくべきだ、と通いだしたら止まらなくなった。

原作は「2666」の読了後の2月初から取りかかって、ハンス・ライターがなんで「ベルリン…」に
夢中になったのかはすぐわかるものの、まずあの文体の渦巻く世界に入っていくのに難儀して、映画を見出した時点では全体の三分の二くらいしか読めていなかった。でも映画を見始めたらものすごく取り組みやすくなった。原作も一緒に読んだほうがいい。

お話はどういうのかというと。
1話で妻イーダを殴り殺して刑務所に4年間いたフランツ・ビーバーコップが出所して、まっとうに生きようとするが大変で、2話でネクタイ留めとか新聞売りとかいろいろやろうとするがみんなにいじめられてうまくいかず、リューダースのところで靴ひも売りの仕事を貰って、3話でリューダースにはめられて転落して、4話で穴蔵で酒浸りになって自分と神とをさんざん呪って、5話ではいあがってプムスのとこでやばい仕事をやるようになって、そこのラインホルトから女を譲ってもらったりして、6話で仕事にいく途中でラインハルトの裏切りで車から落とされて片腕を失って、でも絶望することないんだとか言われて、7話でエヴァのところで世話になりつつ這いあがろうとするがまだぼーっとしてて、8話でやくざのヴィリーとやくざを始めて、エヴァからミーツェを紹介されて、9話でミーツェのヒモとして暮らしはじめ、ラインホルトと会ったりして、10話でやっぱしおれだめかも、と再び酒に溺れて、11話でラインホルトと再び仕事を始めて、ミーツェとの間で修羅場があって、12話でフランツの知らないところでラインホルトがミーツェを森に誘って… 13話でフランツはミーツェを待ち続けるが、新聞でラインホルトと共にミーツェ殺害犯にされていることを知ってフランツの精神の箍が外れる。 14話は彼岸に行ってしまったフランツの凄惨な夢の世界を現代のファスビンダーが解釈し、再構築してみる、というエピローグ。

更にうーんと簡単にいうと、混沌の時代にまっとうに生きようとしたフランツが3回叩き落され - 「ついには圧倒的な暴力でかれはぺしゃんこにされ」、そうして彼は滅ぶのか生きるのか、それは彼の周囲の人々との世界にとってどういうことであるのか。

ていうか15時間ある化け物みたいな作品なので粗筋なんて知ったところでどうなるもんでもない。
むしろ他のファスビンダー作品と比べても豊潤なイメージに溢れかえっていて、その中に、つまりは『ベルリン・アレクサンダー広場』に入っていけばそこには本当にいろんなものがある。

全体にオレンジ・茶系のトーンの画面、ネオンの光が常に点滅しているフランツの部屋の他、いくつかの部屋、いきつけの酒場、バビロン、フライエンヴァルデの森、それぞれの闇(光はあんまない)の狭間にファスビンダーの俳優達、としか言いようのない特徴的な容貌の人達が、その闇のなかでそれぞれの生を隠れるように、埋もれるように、逃げ去るように、要は後ろ向きに生きている。

明るく楽しい話では、全然ないの。どこまでも暗くて陰惨でどんづまりで、それでも6話の終りには「絶望することはない」とかしれっと言う。 でも、当然のように希望だってないわけだ。そんなのわかりきっているから誰も言わない。 絶望も希望もない、その両端の切れた中間地帯でフランツ・ビーバーコップとそのまわりの人々はどんなふうに泣いて笑って叫んで、どっちの方に向かって走るのか、あるいは踞るのか。

でもそれなのに映し出されるイメージはどれも荘厳でストレートに美しい。これがファスビンダーのいつもの詐術、なのであるが。

原作は、都市の物語でもあった。「まず第一はアレックス。これはあいかわらずある」と書かれるアレクサンダー広場を中心とした俗界曼荼羅で、作者デーブリンは広場 - 都市 - 国家を貫いて拡がったワイマール文化のあらゆる様相をぶちこもうとしている。主人公とその周りの人々はあくまで曼荼羅・絵巻物のいち構成要素でしかなくて、それはそういう明確な意図の元に描かれたものだ。

映画は、妻を殺したやくざ者がどうやって生きるのか、しかも「まっとうに」生きる/生きられるのか、そこに焦点が当てられていて、そこから当時の世界をあぶりだそうとする。
ネオンがいつも点滅している(つまり夜の)部屋、小鳥がいて、ブリギッテ・ミラが家政婦をしていて、イーダが殺されて(このシーンは全話を通して反復される)、リーナ、フィレンツェ、チリィ、エヴァ、ミーツェ、次々にいろんな女がやってきていろんな修羅場があって、でもフランツは常に孤独で、最後に正気を失う、そういう部屋から見渡してみると世界は例えばこんなふうになる、と。

13話までだと、原作と映画の関係は、そういうことねー、で済んでしまうと思う(いや、実際にはファスビンダーは相当こまこま忠実に原作のいろんな要素を組み入れていて、そんな単純ではないのよ)のだが、14話のエピローグで、ファスビンダーは原作のヴィジョンを一挙に現代に敷衍しようとするの。
オープニングタイトルから違っていて、フランツの彷徨いは、あの部屋から一気に飛んで、あの世、天使、死神、精神病院、監獄、屠殺場、性転換、審判、十字架を通って原爆にまで至る。
更には「うわさの人類」的にちゃっかり再生/更生したフランツの姿まで描かれる。
ベルリンは今の社会に繋がっている、フランツの精神は現代の我々にも、とかそういう安易なオチよりもヒトとヒトが、この世とあの世が時間を超えて互いを喰いあいながら転がっていくウロボロスのイメージが現れてくるように思えた。
或いは、ファスビンダー的なテーマからすると、「あやつり糸の世界 」、「シナのルーレット」、「デスペア」あたりにあった分身、鏡像、別世界というテーマにも繋がってくるのかもしれない。

ちなみに、14話で繰り返し流れる音楽はKraftwerkの"Radioaktivität"とThe Velvet Undergroundの"Candy Says"。 他にはDonovanの"Atlantis"とかLeonard Cohenとか。

ていう難しそうな話もあるけど、四畳半ポルノみたいなとこもあるの。
出所していきなりイーダの妹のところに行ってやっちゃうとか、とにかくいろんな女がずーっとやってきてフランツにあれこれ尽くしてくれる、なんであんなデブのハゲが、て思うのだがやくざのフランツはもてて女に不自由しなくて、で、最後には破滅してざまーみろ、みたいな。 日本だと神代辰巳ふう、だったりするかも。

俳優陣はもう泣きたくなるくらい豪華なファスビンダーのオールスターズで、フランツを演じたギュンター・ランプレヒトは勿論だけど、でも女優さん - ハンナ・シグラ(脇毛じょりじょり)とバーバラ・スコヴァ(よだれー)の凄まじいこと。 

書いていくときりがないのでもうやめますけど、とにかく見れてよかった。
(熱がひいてから書き直すかも)

あとは、Criterionの箱買うんだ。今なら$100切ってるし。

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