5.15.2012

[film] Lola (1981)

土曜日、ほんとは2~3本見たかったのだが、アテネのファスビンダー1本で終わってしまった。
この日からユーロスペースでポルノ特集も始まってて、でもなんか大がかりで人いっぱい来そうだし、なんか恥ずかしいかも、とか思ってやめてしまった。 そのうち行けはいいか、と。

今年、没後30年でいろんな特集とかお祭りが組まれる(んだよね?)ファスビンダーは、今いちばん見たがられている作家かもしれない。 暗いし、かっこよくないし、わかりやすくないし、1本1本ばらばらだけど。 
でもなんだろう、時代が求めているかんじがするの。 
だから今回のようなレクチャーがついてると、みんな行くよね。 

81年、ドイツ3部作のまんなか。
戦後の高度成長期のドイツ、土建屋と市長以下の官僚が癒着しまくりながらも発展しようとがんばる地方都市に新しい建設局長(フォン・ボーン)が赴任してくる。
清廉潔癖で紳士で汚職なんて関係なさそうな彼は、東プロイセン出の家政婦おばさんの娘のローラにぽーっとなるのだが、ローラは土建屋のシュッカートの妾で彼の子までいて、町の娼館で歌手として働いているのだった・・・

通常のファスビンダーの導線だと、フォン・ボーンはだんだんと道を踏み外していって最後は破滅して発狂して自殺、道連れにローラも、だと思うのだが、この場合はそうはならないのだった。 所謂Femme Fataleものではない。
一応そっちのほうに傾きかけるのだが持ちなおし(どっちに?)、最後、ポジティブに「自分は幸福だ」とまで言い切らせてしまう。

なにがそうさせたのか? ローラの魅力と強さなのか、フォン・ボーンの弱さなのか、高度成長期のいけいけムードなのか、制作された80年代初の雰囲気なのか、などなど。
すごいのは、筋書きだけを追うとハッピーエンドのはずなのに、ぜんぜん幸福なかんじがしないところだ。
彼に「自分は幸福だ」と言わせたのは、彼ではないなにか別の力ではないのか、という気がしてならなくなるの。

なにが主人公をそうさせたのか、を考えさせる力の強さが、そこらの映画と比べると(ファスビンダーの場合は)常に突出していて、しかもその分析の方向を主人公の特異な内面とか特殊な境遇とかではなく、社会とか世相とか、そっちの方に、更にそれを個人と社会、のような単線ではなく複数の網目としてガラス張りで見せてしまう変な気持よさ(変態のそれか?)、がある。
(これを演劇的、という人もいるのだろう) 

(あるいは、レクチャーにあったようにファスビンダーの各作品様式の比較分析を通して、内側からこれらの構造に迫っていくこともできるのかも)

こんなんでいいのか? と思わせつつ最後に幸せ方面に寄り切ってしまうエンディングは溝口健二の『赤線地帯』(1956)に似ていないこともないのだが、あの映画に出てくるのは基本いいひとばっかりで、そこでコトがころころ転がってしまうおもしろさ、みたいのがあった。 この映画の場合、はっきりと悪い - すごく悪いではないが - が出てきて、その小悪党が、普通のひとを捲きこむ、あるいは普通のひとが少しだけ悪いほうに歩み寄る。 んで、それだけではないところがまた始末に悪くて、この隙間に生々しく恋が絡んでくるんですよ。 娼婦にめろめろにやられてしてしまった真面目な壮年の男、という図が。

このなんともいえない始末の悪さがこの作品をハッピーエンドであるくせに居心地のわるい、でも十分にリアルなドラマとして成立させているのだと。 コンプライアンスだのなんだのをなぎ倒して垂れ流されていく愛のありよう。 
ファスビンダーが今も生きている理由はこんなところにもあるの。

ああやっぱし"Berlin Alexanderplatz"見たいよう。

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