12.21.2011

[art] Gerhard Richter: Panorama

18日の日曜日のおはなし。
土曜日の晩、Judyの歌にぐすぐす涙していた頃、わらわらと着信が入っていたので半分出社を覚悟していたのだが、結局なんもなかった。

もういっこのMustだった展覧会がこれ。
Tate ModernでのGerhard Richterのレトロスペクティヴ。 
レトロスペクティブを「パノラマ」、としてしまうとこがいかにも。

Gerhard Richterについては、これまでずっと「保留」扱いにしてきた。
アート系の書店や洋書屋に行けばいくらでも作品集があるし、追っかけることは容易なのだろうが、じっくり直接見る機会ができるまでは、あんまし考えないでおこう、と。 
それくらい多様で多彩で、果てがないように見えたの。

60年代の初期のPhoto Paintingから入って、ふたつめくらいの部屋にデュシャンの「階段」と「大ガラス」を参照した作品があって、あーそういうことなのかも、と。

網膜に投影されて像をむすぶ絵画、具象、抽象、かたち、色、そして人、ランドスケープ、世界。
この時点でこれらは全て等価で、透過で、ではそれらがアート作品として知覚され美的体験みたいなところに届くまでになにが必要となるのか、どういうプロセスをたどるのか。

我々の知覚にとって美とはいったいなんでありうるのか。 絵画やオブジェはそこでどういう役割を担ってきたのか、担うべきなのか。
彼のアートはつねにここに立ち返る、というか、彼のアートはそのプロセスを検証し、括弧付きで「体験」するための道具、医療器具みたいなものとして「機能」し知覚にダイレクトに「作用」しようとしているかに見える。 だまし絵とか気づきなんかとは全く別のかたちで。

デュシャンが宙吊りにしてひっくり返した近代における「美」の様相を、「パブリック」という概念を軸に/梃子に展開していったのが50年代以降のアートだったとすると(超おおざっぱ)、Gerhard Richterの取り組みは、それすらも包含した、あらゆる対概念(抽象/具象、パブリック/プライベート、偶然/必然、写真/絵画、ガラスの向こう側/こちら側、等々)を取りこんで並列に置いて入れ子の刺し子になっただんだらでぼやぼやの世界を拡げてみせることだったのではないか。 パノラマ。

そういうかたちでしか、そういう機能や作用をもたらすアートとのインターアクションを通してしか、現代における「美」は知覚されえないのではないか、というちょっとしたひっかかりと、それでもなんで、ひとは美しさ、みたいなものを求めていくのか、ゴミとかクズとかではなく、という問いの隙間に彼のいろんなかたちをした作品群はあって、それらは通常、ぼくらなーんも知らないもん、という顔をしてそこに置かれている。

難解で、やかましくて、人目をひいて、過剰で、そういう形でしかそのありようを伝えることができない現代の「アート」と、ジャンクだのゴミだのクソだの、いろんな恐怖や脅威にまみれている「現実」「リアリティ」と、そういうなかで、彼の作品やオブジェは圧倒的に寡黙でプレーンで、そこにあるだけで。 しかしそれがなにか、ふつーの美術作品とは異なる位相にある、どこか違う像を目の表面に映してくれることがわかるのだった。

要はたんじゅんに、美しい、と思ってしまったのだった。 よいのかわるいのかわからんが。

会場をずうっとなめていくと、ものすごくいろんなバリエーションの作品がたっぶりあって飽きない。 
あとどれを見ても新鮮さと瑞々しさ、みたいのがずっと残るの。 
そして、どれもかっこよくて痺れる。
かんたんにいうとそんなとこ。

もう80歳なのね。 ぜんぜんそう思ってなかったけど。
やっぱしカタログ買ってしまう。 やけくそでハードカバーのほうを。

Tateを出て、せっかくだから買い物でも、とHarrodsに行ったのだが、めちゃくちゃな人混みで、びっくりして出てきた。 それにしてもあのデパート、なんであんなわけわかんない構造なの。

さっきまでの美術館のなかの光景と、これらは、それでも繋がっているのかいないのか-

昨晩とおなじく、BBC2でFritz Langの"Secret Beyond the Door…" (1947)なんかやってる。
すごすぎるー。
だからやめてってゆってるのに。 これから詰めものしないといけないのに…

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