10.06.2023

[theatre] Vanya

9月30日、土曜日の晩、Duke of York’s theatreで見ました。ここのシアターは、2013年にロンドンで初めて芝居を観たとこ - 演目はRupert Everettの独り芝居 ”Judas Kiss”だった。一日の午後に芝居をはしごしたのは初めてだったかも。

泣く子もだまる”Hot Priest” - Andrew Scottによるチェーホフの独り芝居、チケットは全日程売り切れのようだったが、ちょこちょこ見ていたらなんか釣れた。

舞台は真ん中少し奥にドアがある - このドア経由でいろんな人物が出入りする – ふつうのリビングで最後まで、左手に簡素なキッチン、テーブルにはウォッカの瓶、右手には天井から下がったブランコとかピアノなど、ちっちゃな小道具いっぱい。最初に少し胸の開いた青緑のシャツを着た素のようなAndrew Scottが袖からふらーっと現れてタバコに火をつけ、客席を眺めてからいたずらをする目をして自分で客電を消し、奥のほうに回って自分でカーテンを引いていくとそこは鏡になっていて真っ暗な客席と共に奥に広がる世界(の闇)が広がる。

チェーホフの「ワーニャ伯父さん」の登場人物をAndrew Scottがひとりで全部演じ分ける。キャラクターによって声色や喋るトーンを変えたりサングラスをかけたりはするものの、服までは変えず、独り芝居というより立って歩き回り、歌ったりもしながら1時間半(休憩なし)の落語をやっているかんじ。

ここでのAlexanderは「ある時代を代表する」フィルムメーカーで、若い後妻のHelena、先妻との間の若いSonia, 野心的で飲んだくれ医者のMichaelとキザでひねたVanya、そんな彼らの四角関係 - Alexanderは割とどうでもよい - が中心で、どれだけ近づいても必ず誰かが割り込んできたり思いをとげることができない全員が矢印まみれ中間状態のもどかしさのなかにあるのを描くのに独り芝居という形式はうまくはまるのかも知れない。

全員がいけてなくて勝手に中途半端に相手を思っていて、それぞれが自分の置かれた縛り縛られのなかでそれなりにあがくものの結果ぜんぜんどこにも到達できない - どのキャラクターから見て追ってもみんながみんなルーザーのどん詰まりで過去に生きてて誰かがなんか思いきったことをやってくれないか - を待って投げやりの日々を過ごす、それをいろんな役者を置いた中に散らしてバラして点在させるのか、あるいはひとつの身体に集約させて複雑骨折させたり脱臼させたり、あるいはひとつの身体が複数の人物を捕食するように広がるさまを描くのか。

後者の方をやるとなった時のAndrew Scottの発声や身体表現は見事としか言いようがなくて、ラブシーンで体を絡ませる肩にかけられた腕や背中の動きとかキスをするときに立てる音とか、SoniaのMichaelに対する片思いのめらめら燃えるもどかしさとか、個々を演じ分ける、それをできるのは当然として、複数の人物のエモや情動が正面からぶつかった瞬間の、うなりをあげたり空振りしたり萎れたり死にたくなったり、がひとつの身体が物理的にたてる音としてライブで伝わるし聞こえてくるし。

他方でチェーホフの描いた多様かつ多彩に散らかった世界まるごと、をしんみりとしたどん詰まりの共感とともに受けとめて見ているこっちも同じようにしんみりする - いつものあれ - とは当然違っている。古典落語の噺の世界に思いっきり引き込まれて堪能した後に、噺のなかみにというよりは演者である落語家の凄さを思い知らされる、あのかんじに近いかも。 で、それを登場人数多めのチェーホフでわざわざやることの賛否はあるのかも。劇のありようがすでにして落語 – 長屋のいろんな人々を貫く業のたれながし – であるチェーホフであるからしてー。

でもとにかく、Andrew Scottのしなやかな – というのともちょっと違うかも - 身のこなしというか舞台上にいて宙を見ているだけでセクシー(感じ方に個人差はあるのだろうが、他によい形容が思いつかない)な絵や容姿になってしまうのって、なんなのか。彼を目で追う観客のため息とか反応も含めてそういうのを目の当たりにするとこの人すごいかも、って改めて思った。

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