10.27.2023

[film] Die bitteren Tränen der Petra von Kant (1972)

10月17日、火曜日の晩、菊川のStrangerで見ました。
英語題は”The Bitter Tears of Petra von Kant”、邦題は『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』。

6月にFrançois Ozonによるリメイク - ”Peter von Kant” (2022)が公開された際、(たしか)新宿武蔵野館で少しだけリバイバルされて、それを見逃したのであー見たい、と思っていたやつ。

Rainer Werner Fassbinderによる5幕構成の同名戯曲を自身の脚本で映画化したもの。撮影はMichael Ballhaus。音楽はVerdi, The Platters, The Walker Brothersなど。

最初に見たのは90年代のNYのFilm Forumで、これがFassbinderの映画を見た最初の方だったと思うのだが、当時はまだジャンルとしての”queer”などが今ほど明確にあるわけではなかったので、ここで溢れたり滲んだりしてくるあれこれに対してこれはなに?って思いつつもうまく整理する箍がなかったような。だからずっと再見したかった。

Petra von Kant (Margit Carstensen)は成功したファッションデザイナーで、カメラは彼女のベッドルームから外に出ない。プッサンの絵画 - ”Midas and Bacchus” (c.1630)のでっかい複製が掛かっていて、マネキンとレコードプレイヤーがあって、同居しているMarlene (Irm Hermann)が買い物や郵便物からお茶に針仕事まで、寝起きから適当なダンスまで召使のように使われてまくっていて、でも彼女は最後まで表情を変えず何も言わず。

Petraと別れた夫はもう死んでいて、電話してくる母はお金をせびるばかり、従姉妹のSidonie (Katrin Schaake)とは茶飲み話をする程度で、そんなある日彼女から若く快活なKarin Thimm (Hanna Schygulla)を紹介されると、Petraはあっという間にKarinに魅了されて、ずっとここに住んでほしい、って誘う。

シドニーから戻ってきたKarinは粗野で移り気で落ち着きないふうのビッチ系なのだが、亡くなった両親の悲惨な事件とかシドニーに残した夫からの暴力などの身の上話を聞くとPetraはたまんなくなって、わたしがあなたを一流のモデルにしてみせるから、とか、人生は運命づけられている、人は残酷なもので、でも代替も可能だからとか言い、愛しているから、って告げると隅でタイプをしていたMarleneが一瞬ぴきっ、ってなる。

そこから月日は流れて、KarinはPetraのベッドの上で雑誌を読んでだらだらぼーっとするばかりで、朝帰りしてから一緒に寝た黒人男のこととか、別れると言っていた夫からの電話がありやっぱり会いにいくから旅費ちょうだいって言い出したりとか、そのたびにPetraは嫉妬まみれで煮えくり返り、ぐだぐだになって罵声を吐いても、でも出ていかれたくないので強くは出れずに結果はめそめそいじけるか、Marleneへのやつあたりになるか、えんえんSMをやっている。

Petraの誕生日、Karinからの電話を待って転がって吞んだくれているところに娘のGaby (Eva Mattes)とSidonieがやってきて、更に母のValerie (Gisela Fackeldey)も現れるのだが、ここにいてほしいのはあんたらじゃなくてKarinなんだよ~、って八つ当たりして更なる修羅場が展開されて..  でもやがてすべてが収まってPetraもKarinともう会わなくてもよくなった、と思ったら最後にMarleneが。

Petraが信じてしまったKarinとの結ぼれ、それが解けたと思ったら別のも解けて階段落ちのように全員が転げ落ちるリングのようなベッドとそれを囲む絢爛なインテリアでできた聖なる宇宙。何ひとつ難しいものも言葉もなく、愛と嫉妬と呪いの言葉がびゅんびゅん飛び交ってブルース/艶歌が流れて真ん中の3人をきりきりと活かしたり殺したり、ほんのそれだけの124分、のものすごさ。

“La maman et la putain” (1973) - 『ママと娼婦』や最近の”Passages” (2023)にまで連なる一部屋 - 3人関係地獄絵図の最初の、と言ってよいのか。どの作品にも部屋でレコードをかけるシーンがある。あそこで回しているのは世界というルーレットなのではないか、とか。

同性愛がどうした、というのも特に強調されているわけでも薄められているわけでもなく、それはただの愛 - 常に死と隣り合わせで相手を殺したくなるくらいの、同時に誰にでもすげ替え可能で、まずは自分が生きるために必要ななにかを描くことに精一杯だから、というとっても切ない場所で瞬いていたり。

これを見てしまうとFrançois Ozonのあれは、パロディにすらなっていないすかすかのだったなあ、って。 滑稽すぎて笑いが漏れてしまうくらいの軽さの。

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