8.02.2023

[film] Van Gogh (1991)

7月29日、土曜日の午後、日仏学院の企画『映画、気象のアート』で見ました。

この企画については、そうだよねえ、光と闇もあるけど、室内劇でない映画って、それはそれは気象や天候に支配されているものだなーと7/19に実施された坂本安美さんによるレクチャー『エリック・ロメール 四季の物語をめぐって』を聞いて思って、でもいろいろ慌しくてロメール作品はちっとも見ることができず、7/22に”O Sangue” (1989) - 『血』を見て、7/28にJean Epsteinの3本を見て(これはすごかった)、そうやっているうちに日々の気象がレッドゾーンの我慢ならない状態になってきたので、やっぱり見ないとだめだ殺される前に、って見る。

いちおう(何がいちおうだ)、朝一で上野の都美術館で『マティス展』を見て、西洋美術館で『スペインのイメージ:版画を通じて写し伝わるすがた』を見て、頭を絵画モードにして(たいして意味ないし)、日仏に向かったのだが、たどり着くまでに簡単にへろへろになり、ふざけんなよ気象、になった。

Maurice Pialat監督・脚本による本作は、前にもたしか日仏で見ていて、大好きな1本で158分だけどちっとも長くなく涼しい暗がりで過ごすには本当に心地よくて、いくらでも見ていられる。

Vincente Minnelliがゴッホを描いた”Lust for Life” (1956)も好きだけど、やはりこっちかも。ゴッホという画家本人にも彼の描いた絵画にもそんなに強い思いがあるわけではないので、この映画に描かれたオーヴェル=シュル=オワーズの風景や四季や気象に溶けていくような画家の肖像がなんでか気持ちよいの。

Vincent van Gogh (Jacques Dutronc)が田舎の駅に降りたって、ほぼ自動で運ばれた先の酒場の2階に下宿することにして、近所に住む医師で彼の画を買ってくれたりしているGachet (Gérard Séty)を訪ねて、彼の娘のMarguerite (Alexandra London)を遠くに眺めつつ近寄っていったり、訪ねてくる弟のTheo (Bernard Le Coq)とその家族と会ったり、田舎に集団で遊びに来た娼婦たちとちゃらちゃらむっつり遊んだりしながら、屋外では村や畑を描き、それとは別に軽く頼まれたりすればてきとーに絵を描いたり、の日々を追う。

この時点のゴッホは既に晩年で、耳を切ったりした後で、心身双方の病がそれなりに進んでいるイメージがあったのだが、この画面のなかの彼は少なくとも表面は穏やかな能面で、取り返しのつかない修羅場が展開する場面が映されることはない。ゴッホ本人の表情はほぼずっと変わらなくて、周囲も(人によるものの)おっかなびっくり彼に接していて、そのゆらゆらした緊張と、その線を超えているのか見えていないのか彼がそこを歩いたり相対したりしている村や田舎の美しい景色や女性のドレス、川を進む舟などがまるでルノワール(父のも息子のも両方)だったりモネだったりするのはなんとも言えずおかしい。

やがてゴッホはなにかと傍に寄ってくるMargueriteと仲良くなって一緒に踊りにいったり寝たりするのだが、Margueriteの方はともかく、彼がこの関係を今後どうしようと思っているのかはちっともわからないまま、持っていた拳銃を絵筆を振りおろすように自分の腹に向けて、動けなくなってしまう – ねじ回しで彼が動いている状態と同じようにただ動きが止まって動かなくなる – そういう動物のような動静のなかで彼の死が野良犬のそれのようにやってきて。 そこにはなんのドラマもエモもなくて、それがとてもゴッホらしい、というか。

そしてこういうのが、あの穏やかで乾いた気持ちよさそうな大気や緑のなかで緩やかに輪郭をなぞって動いていくのがよくて、ロメールの映画の登場人物のように開かれていてどこに向かうのかわからない(ロメール作品を見ていていらっとするようなところもなく)、そうなったところで、ではあの、星の降る夜も渦を巻く糸杉などは彼のなかのいったいどこにどんなふうに見えていたのだろうか?って。

あと、最後の方でギュスターヴ・ドレのドン・キホーテの話が出てきたので、少し前に上野で見たのに繋がった。どうでもよいけどうれしい。

この後の『草の上の昼食』(1959) も見て、ここには↑のとぜんぜん種類の異なる人々が登場してじたばたするのだが、ここでも田舎の風景だけは絵のように変わらず(やや風が強めに吹く)、いいなー、ってなるのだった。

いつかはこういう夏休みを、ってもう何万回も唱えている。

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