8.03.2023

[film] Schatten der Engel (1976)

7月30日、日曜日の昼、ル・シネマ渋谷宮下のファスビンダー特集で見ました。

上映後に渋谷哲也さんのトークつき。邦題は『天使の影』、英語題は”Shadow of Angels”。今回の3本のなかでは見たことがなかった唯一の、必見の一本だったかも。

監督Daniel Schmid、撮影Renato Berta、原作はRainer Werner Fassbinderによる戯曲 - “Der Müll, die Stadt und der Tod” (1975) (ゴミ、都会そして死(塵、都会、死))、この戯曲はGerhard Zwerenzの1973年の小説“Die Erde ist unbewohnbar wie der Mond” - 直訳すると『地球は月と同じように人が住めない』をモチーフにしているそうだが、反ユダヤ主義的な描写 – 「金持ちのユダヤ人」が悪い小物人物として出てくる – によりドイツでは80年代の初演後、2009年まで上演が禁止されていたという。

舞台はフランクフルトだそうだが、どこの都市なのか明示はされていなかった(撮られたのはウィーン)ような。橋の下だかガード下だかの溜り場に仲間と立って客を待つ娼婦のLily Brest (Ingrid Caven)がいて、男たちが次々とやってくるのだが、彼女は他の女性たちと比べると細くて顔色も真っ白なので声が掛からなくて、本人もどうでもよいと思っているようで、家に帰るとヒモのRaoul (Rainer Werner Fassbinder)がねちねちぶちぶち – ああFassbinderとしか言いようがない粘度で彼女を虐めて転がして再び町に送りだす。

やがて運転手付きの車に乗って現れた金持ちのユダヤ人(Klaus Löwitsch) - 古く老朽化した建物を買って高いのに建て替えて売りつけて儲けている地上げ・不動産屋 - がLilyに目をつけ、声をかけてピックアップして衣類宝飾類を与えてぴかぴかに磨いて、元ナチス = 彼の両親を殺したLilyの父親も呼びつけたりするので、彼女は贖罪の思いで自分を殺すように頼んで、ユダヤ人は彼女を締め殺して、でも捜査にあたった警察署長は金持ちのユダヤ人を逮捕することはせず、彼の忠実な手下やRaoulを逮捕して窓から捨てたりする。

Alfred Döblin - Fassbinderが『ベルリン・アレクサンダー広場』でパノラマ的に俯瞰してみせた戦後(あっちは第一次大戦後、だけど)の復興と混沌に曝された都市の歪んだありようや人々の群像を、あそこまでどろどろ地を這うようにではなく、乾いたシュールなトーンとちょっと芝居がかったタッチで – とてもDaniel Schmidふうのアングルで - 描いていて、おもしろい。 こんな内容なのに原作の戯曲のそれとはぜんぜんちがう『天使の影』なんてタイトルを付けてしまう抽象的な目線も含めて。(自身もユダヤ人であるDaniel Schmidの見えざる意向のようなものはあったのかどうか)

戦後ドイツの復興を巡る言葉とかイメージの後ろに隠されたり弾きだされたりしたアウトサイダーたちの、過激なほうではない、地べたに這って地味に客引きしたりポン引きしたり掠め取ったりしていた小物たちの、それでもそうやって生きていかなければならなかった彼らの、例えば愛とか執着とか美醜とかはどんな絵模様や境界線を描いたのか – なかでも彼らはどんなふうに死んだり消えていったりしたのか、カメラのこちら側をどんなふうに見つめようとしたのか、など。

上映後のトークは原作の戯曲から主人公たちの名前が変えられていること – LilyはRoma B.だったしRaoulはFranz B.だったこと - とか、映画アカデミーの一期生だったDaniel Schmid とそこを落ちた不良のFassbinder、そこにWerner Schroeterを加えた三角形と、それに加えてもうじき「ベルリン三部作」の特集が始まるUlrike Ottingerが描いた「女性」のいる世界と。 おもしろいのはみんな都市的な何かを写し取ることを目指しているようで結果として「世界」まるごとがそこに倒立して入ってしまっているようなところだろうか。 狙ってそうしている、というより計らずして写りこんでしまった、というか。

はっきりと腐って落ちていく戦前を生きるいまの我々には、だからこんなにもFassbinderが必要なのだ、って改めて - と言いながらいつもなのだが - 思うのだった。そこに天使の影とかゴミとかクズとかしか映っていなくても。

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