11.11.2021

[film] お吟さま (1962)

11月3日、文化の日の昼、東京国際映画祭の会場になっているTohoシネマズ シャンテで見ました。

田中絹代の監督作4本を4Kデジタルリマスター版で上映する、って最初聞いたときは小躍りしたのに、スケジュール見たらほぼ平日昼間、であーあ、になった。 海外で注目され始めてことはわかっているのに、「女性監督のパイオニア」とか言うくせにこの程度の扱いなんだよね。とってもやなかんじ。

原作は今東光の同名小説(未読)、脚本は成沢昌茂、撮影は宮島義勇、音楽は林光。1978年の熊井啓版も見ていない。田中絹代の監督作としては6本目にあたる作品。

16世紀末の日本、豊臣秀吉の治世で、冒頭に九州の戦場にいる石田三成(南原宏治)が連れてきた千利休(中村鴈治郎)に向かってキリシタンの勢いをなんとかせねばならね、とか言ってて、特に高山右近(仲代達矢)あたりを、って、結果として高山右近は左遷される。

それまでお吟(有馬稲子)は高山右近のことをずっと想っていたのだが、妻がいる高山右近からは無理です、イエスさまに背くことはできませんと言われて、がっかりして親が持ってきた堺の商人万代屋宗安(伊藤久哉)との縁談を受けて結婚する。そんなだから夫婦仲は冷えきって宗安は女遊びばかりしている。

そんな状態の夫婦を揺さぶって罠に陥れて離縁を企んで、高山右近を誘って川遊覧の会を企画したらこれが見破られて裏目にでて、宗安を吹っ切って土砂降りのなか川べりの農家に逃げこんだふたりは改めて互いの愛を確かめあってしまう(高山右近の妻は既に亡くなっていた)。

こうして全員がううむどうしたものか、ってなっていると今度はぶいぶいの敵なし吹きまくりの豊臣秀吉(滝沢修)がお吟を見初めて、うちに仕えるのじゃって問答無用の命令がくだって..

全体に豪華で端正な美術セットのなか、登場人物たちは静かで感情を表に出さずに物語は進んでいく。特に男優陣はふつうに意地悪でどす黒く欲深で愚鈍で、高山右近ですら腑抜けた無表情のでくの坊に見えてどうしようもなくて - 唯一、蛙のように揺るがない千利休だけが持つ凄み - 反対側にいるお吟さまも、最後まで情動を、辛さ悔しさを表に出して泣き狂うかんじはない。淡々と強く硬く、信仰に近いところで自身の恋の正しさを信じてじっと前を見ている。

この格子状になった落ち着きと揺るがなさ - 美術やセットや茶道なんかも含めて – こんな壁紙の文化が陰険に苛酷に彼女を追い詰めていったのだ(そしてその反対側にあるキリシタンの -)という明確なメッセージがあるような。こういう素っ気ない静けさのなか、鮮やかな血の赤が映えるところが二箇所あって、ひとつが不義を働いたとして引き回され運ばれていく女(岸恵子)がこちらを見つめる顔と、お吟と右近が逃げこんだ川べりの農家で、足を怪我したお吟を右近が手当てするところで、このふたつの赤のみが彼女が生きた/生きようとした何かを示しているように思えてならない。

ここで思い浮かべたのはもちろん『近松物語』(1954)で、あらゆる苦難の果てにある愛を貫いて穏やかに見える岸恵子の表情はラストに運ばれていくおさん(香川京子)のそれと重なるし、足の怪我はその歩みが自身の血によって刻まれたものであることを示しているとしか思えない。 溝口の歪んだ加虐嗜好を落ち着いた目でひっくり返しているような。

最後の最後まで静かに - 耐えもせず抗いもしないというやり方でクールに戦って愛に生きた女性の姿を描いているのだと思った。

それにしても、中村鴈治郎 - 高峰三枝子 - 有馬稲子 - 田村正和 っていう家族はなんか凄かった。高峰三枝子の替わりが京マチ子だったらなー とか。(千利休の家にはならんか..)

やっぱり川喜多映画記念館まで見にいくしかないか(決意)。

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