11.28.2021

[film] わが愛 (1960)

11月20日、土曜日の午後、国立映画アーカイブの五所平之助特集で見ました。
井上靖の小説 -『通夜の客』を『猟銃』と同じく八住利雄が脚色したもの。 ニュープリントではなくて、でも微妙な退色具合がまたすてきだったり。

敗戦からしばらく経ったある晩、新津礼作(佐分利信)が有楽町辺りで友人たちと飲んだ帰り、よれよれの状態でもう一杯いくかー  帰るかー  やっぱ帰ろうかー、と言ったところで道に転がってそのまま亡くなってしまう。

その通夜の晩、集まった家族 - 妻・由岐子(丹阿弥谷津子)と二人の子 - や知り合いの間の話で礼作は戦争中、上海で新聞記者として駐在して戻ってきたら会社を辞めて、塩業の本を書くためにひとりで山に籠って、久々に東京に戻ってきたと思ったらこうなってしまった、ことがわかる。

そこに誰も顔を知らないので声をかけない女性 - 水島きよ(有馬稲子)がひとり現れて、礼作の死顔をのぞきこんで帰っていく。 そのままきよはひとりどこかの旅館に入るとお銚子をじゃんじゃん運ばせて、ちっとも酔っぱらわないのよね、とか、あの人の死顔を見たとき、何か言いたそうだったなあ、などと言いつつ、ぐいぐい杯を重ねながら回想に入っていくの。

きよが礼作と会ったのは17歳のときで、柳橋の叔母のところに芸者(乙羽信子)とよく一緒に現れて、川開きの花火の晩には3人で横になって寝たりして、そこで寄ってきた礼作に「大きくなったら浮気をしようね」って耳元で囁かれて、きよはそれでやられて縁談とかも断り続けて、彼が戦地から戻って上海に向かう前の晩にも彼に身を寄せて、終戦後に彼が新聞社を辞めて山に籠ると聞き、すでに結婚して子供もいる彼がひとりでそこに赴くことを知るとひとりで彼のいる山村(鳥取の方らしい)に向かう。

山の家は廃屋のようなただのボロ家で、虫とかネズミとかいっぱいいるし、村人(浦辺粂子とか左卜全とか)は無視したり噂して意地悪したりするしで大変だったのだが、きよは幸せを噛みしめつつ彼の世話をしていると、そのうち村人も仲良くなってくれて、鶏とかウサギとかヤギも増えて(食べていたのかしら?)、充実した日々を送ることになる。でも、彼が用事があると言って京都に向かい、でも実は東京で家族に会っていたことがわかると悲しんだりということもあり、それではふたりでいちど一緒に山を下りよう、っておりてみたところで礼作は死んじゃったの。

その後できよがふたりで過ごした山の家を片付けていると、彼の言いたかった言葉 – きよ、ありがとう -がどこからか聞こえてきて、胸がいっぱいになってよかったねえ、で終わるの。 whatever.  こんなふうにして最後にはこれがわたしの愛の物語でした、じゃん♪ って終わって、宇宙の調和は保たれているように見えるのだが、「ふたりで悪人になろう」(猟銃)とか「大人になったら浮気しよう」(今作)といった中年男の呪いの言葉によって導入された三角関係は3人のうちのひとりの死によってなんとなく元の世界に戻ることになる。 これってなんなのか?(答えはない)。

答えはないけどこれこそがソフトでずぶずぶなメンズワールドそのもので、それが男の思惑・想定通りに機能している限りにおいて世の中は(女性の涙も込みで)安泰なのだが、その思惑 - 欲望そのものはたぶん空っぽで作為もなんもなくて、だからこそ世の中は(ひとが何人死のうが)こんなにも揺るがないままで放置されていて(ひどい)。というありようを突き放して描いているのがすごいと思った。「愛」なんてないの。


今年はもうあと3週間くらいかあー。お片付けしないとー。

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