10.20.2017

[film] Ex Libris: New York Public Library (2017)

11日の水曜日の19時からBFIで見ました。LFFの1本。

チケット発売時点で、この11日は出張が入っていたので泣く泣く諦めていて、でも後になってこいつが一週間後ろに倒れたので歓喜で絶叫しながら取った。 売り切れている心配があったのだが、上映場所がBFIの小さいスクリーンから大きいスクリーンに変わっていて、そのせいか座席が無指定の早いもの勝ちになっていた。

早いもの勝ちせねば、ということでこの日は念のため午後半休を取って少しだけお昼寝して、万全の体調でもって臨んだ。 Frederick Wisemanで、このテーマで、197分。没入しすぎて帰ってこれなくなったって構わん、くらいの勢いで向かっていって丁度よいの。

上映前、まさか来ているとは思わなかったWiseman先生が登場して、これは150時間分の素材を12ヶ月かけて編集した作品なので見てね、とさらりと言う。おお見るとも。

New York Public Libraryは、ライオンさんが鎮座している5th Aveのあそこにあるだけじゃなくて、スタテン島にもブロンクスにもハーレムにも、いろんな分所があって、それぞれの場所でそこのコミュニティの住民に向けたいろんなイベントや催しをやっている。
フィルムはそれぞれの活動とそれに関わるLibraryのスタッフの闘いを追う。本を探しに来た市民とのやりとり、市からの予算の獲得、現場のスタッフの声を聞くこと、活動に対する住民たちの反応、それらのために延々続く会議、これらは終わりのない「闘い」としか言いようのない粘り強い観察と洞察と議論と試行の連続で、なんでこういった自分の普段の生活とはぜんぜん関係なさそうな彼らの仕事に惹きこまれてしまうのか – これは地域コミュニティの取組みを追った前作”In Jackson Heights” (2015)でもそうだったし、Wisemanが扱う対象はどれもそうなのだが – いつもながら驚嘆するしかない。

これとは別に、ここで描かれた営為の結果として浮かびあがってくるのはコミュニティにおける図書館の使命とか意義とかそういうもの、それを今の時代にどう再定義するか、ということで、これはこの映画のなかの話というよりは、この野蛮な「やっちまえ」の時代にひとりひとりがいま考えるべきことで、その意味でも必見なの。

図書館は単なる本の置場、倉庫ではない。 デジタル化してアクセスできるようにしとけばいいというものではない、と。デジタル化の波は避けられないのでそれはやっていくにしても、誰もが平等にそこにアクセスできるようにするにはどうすべきか、とか、紙の本は紙の本で、親子でひとつの本をめくって読んだりするために絶対必要だし、遺産として維持されるべき昔の本を電子化するにも限界があるし、こういった際限のない問答を通して、図書館というのはそこの住民に電気や水道と同じようなインフラとして等しく知を提供する機関であり場所なのだ、という強いメッセージが浮かびあがってくる。なぜそれが必要なのか?  正しい知識や歴史認識の欠如が 偏見に基づく過去の差別、犯罪や虐殺や戦争を生んできたから。そういったことを二度と引き起こさないようにするためにも、”Public” Libraryはすべての住民のための蔵書票(Ex Libris)をPublicの名において管理し、その向こうに広がる知の海へのアクセスを人種、性別、年齢、職業を問わず保証していかなければいけないのだ、と。

考えてみればあたりまえの話なのだが、感動するよね。「コンテンツ」なんて全てデジタル化して「オペレーション」はどっかの本屋にアウトソースして「サービス化」すればコスト削減できるだろとか、文庫本は置かないでほしい、とどっかの出版社が注文したりとか、そんな話ばかりが聞こえてくる日本の図書館事情があって、ここに図書館にも本屋にも行ったことがなさそうなクズ政治家の言動を併せてみると、日本の権力機構は知への経路を可能な限り制御統制して国民が言いなりのバカになってくれることを望んでいるとしか思えない。(そうなりつつあるねえ。恥を知れ)

Public Libraryがやっていることって勿論簡単なことではないの。デジタルと紙をどれくらいのバランスで維持していくべきかなんて、未踏の領域なので誰にも答えは出せない、けど予算には直結することなのでとにかく決めて結果を詰めていかないといけない。 でも自分たちがそれをやるのだ、という強い意志がずっと響いてくるし、保育所や病院や学校と同じように地域の図書館は絶対に必要な施設なのだ、と改めて思う。 負けないでほしい。

と、こんなふうに固いことばかり説いているわけではなくて、イベントにはElvis Costello(彼が”Unfaithful Music & Disappearing Ink”を出したときのトークで、Greil Marcusの論評に対する彼の回答は必見)もPatti Smithも来るし、とにかく、頻繁に出てくる懸命に本を読んでいる人の姿は美しいと思う。全てがデジタルになって人が図書館に来る必要がなくなっても、本を読む人の美しさ、その像はこんなふうに残していきたいなー、とか。

上映後の監督とのQ&Aも面白かった。(撮影のJohn Davey氏も来ていた。素敵なひとだねえ)
なんでNew York Public Libraryを? については簡単で、図書館のことを撮りたいと思ってあそこに問い合わせてみたら簡単に許可が出てあっという間に全ての場所にアクセスできるようになったから、って。

12ヶ月の編集と並んで、8ヶ月くらいのKeyとなるテーマを探す期間があった。撮ったものを延々見続けてそれらが浮かびあがってくるのを待った、という。フィルムでは7~8分に縮められている会議でも実際の素材は90分あったりするので、それを全部見てコアとなるテーマ、エッセンスとなる流れを見つけて必要な箇所を切り取っていくのは楽ではなかったけど、そうやって重ねていった、と。
政治的な内容のもの、ポジティブな内容のものになるように撮っているつもりはない。撮って編集したもの/人々がたまたまそうだっただけ。今の政治情勢のなかで彼らの考えや言動の方向がそう見える方に行ってしまった、ということはあるのかもしれないが、って。 ”National Gallery” (2014)では悪徳にまみれた人達とか描いた血なまぐさい惨劇を描いた絵画が沢山出てくるけど、だからといってフィルムがどろどろに暗くなっているわけではないよね、と。

日本でも公開されますように。 5000円でも見るよ。学ぶところだらけの、ものすごい価値のある映画だよ。

あと、こないだの“Goodbye Christopher Robin”に出てきたWinnie the Pooh のぬいぐるみのオリジナルはNew York Public Libraryにあるんだよ。 これだけで行かなきゃ、になるよね。

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