6.15.2014

[art] 桑原甲子雄の写真 トーキョー・スケッチ60年

8日の日曜日の昼間、展示の最終日に世田谷美術館で見ました。

桑原甲子雄の写真て、晶文社の「夢の町」と「東京昭和十一年」が昔からだいすきで、その理由をあまり深く考えたことはなくて、こういう展覧会でついでになんかわかったりするかも、ていうのと、戦後の昭和を撮ったものをきちんと見たことがなかったから、どんなもんか、と。

今の東京はぜんぜん好きではなくて、では写真に撮られた昔の、戦前の東京の町や東京の人々をノスタルジイみたいな感慨と共に愛することができるのか、というとそういうのでもなくて、昔の、通りすがりのひとがフレームの隅からこっちを胡散臭そうに眺めている、そういう距離感と共にある街角、いろんなノイズを右から左に流していく散歩者の目線で切り取られた風景がよいのだと思った。

もう戻ってこない届かない、記憶の彼方に消えてしまった人々や風景、それ故にそれらは美しく愛しいものに見えるのか、というとそうではなくて、そもそも美しいとか愛おしいとかそういう感慨を引き起こすような決定的ななにか、はあまり写っていない(ように見える)。 そうではなくて、たんにそのシャッターを押した瞬間、その瞬間に何かが止まったように感じられ、次の瞬間にざわざわした空気やノイズが戻ってくるその数秒間を、個々の写真の前を通り過ぎながら追体験できるような気が、その引っぱられる感覚、それって自分で写真集のページをめくっていくのとは違うかんじかも、とか。

しかし、戦時下のニューススタンドはまるで今の電車の中吊り広告とおなじように醜悪で、だからといって桑原甲子雄が生きていて今の渋谷とか池袋とかを同じように撮ったら同じような感覚はやってくるのか、というと80年代の写真はやはり決定的になんか(写真が、というより撮られる対象が)だめな気がして、やっぱし今の東京って、景観としてだんぜん劣化しているのかも、だった。

でもゆいいつ、ちょっとだけ動揺したのがあって、84年の港区青山五丁目、その写真のはじっこにPied Piper House(レコード屋だよ)が写っている。 ここに映りこんでいる場所を、あの店の奥の暗がりを知っている、と脳内シナプスに火花が走った瞬間のめまい。

おなじようなかんじがこないだ、NYのRough Tradeでレコードを漁っていたとき、外は小雨で、店内のBGMで突然Feltの”Evergreen Dazed”がかかって、それと共に部屋に籠って食パンのミミばかりを齧っていたある時代のある時間が蘇ってめまいが。

老いというのはこういうのが断続して起こることで、だからみんなよれよれくらくらしてして危うくなるのね気をつけなくちゃ、ておもった。  写真とは関係ないけど。

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