6.02.2013

[film] 女であること (1958)

もうここんとこずっといっぱいいっぱいで爆音映画祭もぜんぜん行けないので泣いている。

22日の晩、神保町の川端康成特集で見ました。

冒頭、町を自転車で爽やかに走り抜けていく女の子のショットのあと、突然画面にしなりと横たわる美輪明宏が出てきて「女であること」の主題歌(作詞谷川俊太郎、作曲黛敏郎)を歌う。

女は~育ちすぎたこひつじ~エレガントな豚 ~♪ とかいうの。

「ヨイトマケの唄」といい、こないだの「祖国と女達 (従軍慰安婦の唄)」といいこれといい、最近の美輪明宏はどこまでいってもエバーグリーンでどまんなかだねえ。よくもわるくも。

で、映画はこの主題歌の淫靡なかんじとはあんま(表面は)関係なく、田園調布の裕福な弁護士夫婦(原節子、森雅之)が中心で、子供はいないが夫が弁護をしている被告の娘(香川京子)を自宅に引き取って3人で平穏に暮らしているところに妻の知人の娘(久我美子)が家出して転がりこんでくる。

この久我美子はこないだの「噂の女」の清く正しくのお嬢さんとは180度違う、関西弁でやかましくてやんちゃでわがままで独占欲が強くて惚れっぽくて、要は面倒なやつで、当然のように全てにおいて申し訳ないモードで生きている香川京子とは合わなくて、香川京子は下向いたまま学生の彼の下宿に逃げていってしまうの。(こいつはこいつで…)

んでも久我美子は悪びれることなくて、わたしは奥さんも好きだし旦那さんも好きだし、でも両方好きな自分は嫌いだ、とかポエム書いたりしてて手に負えないの。
やがて、あなたはそんな彼女に甘すぎるわ、と原節子と森雅之の間に溝が出来てなかなか大変なことになる。

こないだの「山の音」の原節子と比べると、妻の役割(期待)も相当違っているようにみえる。
夫にも家族にも常に気を配っていて従順で、夫から見下されている「山の音」の菊子と比べるとこっちは弁護士の夫と真正面から渡り合ってびくともしない。 そして昔の恋人(三橋達也)との再会で揺れたり、久我美子にキスされてどきどきしたり、要は彼女もまた「女であること」(←男目線)に沿った動きをする。

でもじつは、菊子もヴィスタを、見通し線を見切る強さ、という点では案外同じような場所に立っていたのかもしれない、とか。

あとは風景や室内の切りとりかたが川島雄三だなあ、と。

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