11.30.2019

[film] 晩春 (1949)

27日、水曜日の夕方、BFIで見ました。英語題は”Late Spring”。
ここではたまに、思いだしたように『秋刀魚の味』(1962)とかをやっていて、大きいシアターがほぼいっぱいだったりするので人気はあるみたい。 イントロでKings Collegeの先生から紹介があった。 これ、"Noriko Trilogy"っていうのかー。

小津の映画を見るのって、溝口や成瀬を見るのとは全く違う経験で、そんなのあたり前じゃんか、なのかも知れないが、小津のはテーマとか題材の取り方置き方とは別の、表面に近いところの、なんでここにこんなものが映っているのか、とかなんでこの場面の次にこれが来るのか、それはどう繋がるのか(沢庵の皮)、とかそういうレベルの感覚に来るやつで、だからまったく油断ならなくて緊張感にまみれてしまうの。

ただ一見はものすごく静かな、禅なかんじだから寝ちゃう人だっているだろうし、若者だったらスマホを弄ってしまうのだろうし、でもこの回のお客はそんな寝ていなくて、笑いもいっぱい起こっていた。

大学教授の曾宮周吉(笠智衆)と娘の紀子(原節子)は妻/母がいない状態でふたりでずっとやってきて、周囲は紀子の婚期(もうそろそろ)が気掛かりなのだが本人はへっちゃらよ、このままでいい、というのだがそうはいかなくなってきて..  太古からあって現在も謎の呪縛のように刷り込まれている早く結婚しないと、とか、結婚したら子供つくらないと、とか。その圧力強制力がどんなふうに機能して、そこでひとが泣いたり笑ったり怒ったりする、それってなんなのかしら、って本当にいろいろ自分にもあったこと - 親だけじゃなくて親戚とか友人とか、社会ぜんぶから(礼儀に近いかんじで)わらわら来るやつ - として考えさせられること津波のよう。

おばさん(杉村春子)は、みんなあんたのことが心配なのよ、と繰り返すのだが、「みんな」って誰なのか、「心配」ってなにがどうだから心配だというのか、じゃあその逆と思われる「安心」とはどういう状態をいうのか? あるいは、紀子が後妻をもらった父の友人小野寺(三島雅夫)に対していう「不潔よ」(英語字幕では”impure”)でも、友人のアヤ(月丘夢路)が紀子をせっついて言う「だいじょうぶよ」でも、そうではないパーフェクトな結婚・夫婦を中心とした関係のありよう、ってどんなやつなの? とか。春が晩いからってなんだっていうのか? とか。 これって戦前戦後から続く日本の家族(観)を考えるのに丁度よいやりとりの温度で、その流れの中に挟みこまれる木々とか海とか駅とかのぺったんこな、波風のたたない風景のありようがこれまた。てめーらてきとーに凪いだりそよいだりしてんじゃねえよ、って。

イントロで先生も言っていたが、こういうテーマを映画のなかで示した小津も原節子も生涯独身を通した、というのはおもしろいことです、って。そうだねえ。

あと、こんなの気にしてもしょうがないのだろうけど、映画のなかの能の場面とかも含めて、英国の観客にはどんなふうに見えて、咀嚼されるのだろうか、って。日本人でもうーむなんだろこれ、ってなったり、考えたりするようなシーンとかあるのに。こういうの、読書会じゃないけど見た後にいろいろ言いあう会があったら入ってみたいな。

笠智衆、この映画の役の上では56歳って言ってるけど、映画に出た時点では45歳だったのね..

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