2.28.2018

[film] Fårö Dokument (1969)

雪と氷の世界は昨日よりさらにひどくなった。日中ずっと降ったり晴れたりを繰り返してる。

18日、日曜日の夕方、BFIのベルイマン特集で見ました。
タイトル通り、ベルイマンがしばしば彼の映画・ドラマの舞台として取りあげ、自身の住処としていたFårö島の人々や風物をドキュメンタリーとして撮ったもの。 TV放映用だったらしい。

この島には、2016年のノーザンライツフェスで上映された『グッバイ!ベルイマン』でいろんな映画作家が訪れて(主に彼の家を)紹介していたし、その前には2013年のトークでNoah Baumbach & Greta Gerwigのふたりが訪れて泣きそうなくらい素敵、と語っていた場所だし、自分の脳内地図のなかのいつか行くから待ってろリストには何度も入っている。

撮影は初期のベルイマン映画のカメラをずっとやってきたSven Nykvistさんで、村人のインタビューシーンはモノクロ、風景は場所によってカラーで、構図の揺るがぬ落ちつきっぷりはベルイマンのフィクションのそれと変わらない。 スチール写真だけを見たら区別つかないのではないか。

インタビューは何人かの老人にいつから、なんでここに、なにをして暮らしているの? とか、子供を含む若い人々には将来はこの島を出たいか残りたいか? とか。気候も厳しいし人口も減ってきているので生活の便もあんまりだし、人が死ぬまでずっと暮らすのに最適とは思えないこの島の、それでもなんかありそうな魅力 - 魅力とは死んでもいわないけど - に神のような目でじーっと寄っていく。

唐突にはじまる羊の屠殺のシーンが結構生々しくて、首を切ってバケツに血を抜いて、溜まったバケツのそれをからからかき混ぜつつ、皮をじょりじょり剥いで内臓を出して、魚を捌くののややでっかい版、と思えばいいのだろうが、それがなにか? みたいな撮り方にちょっとびっくりした。べつに隠すものではないし、ちゃんと見たほうがいいよね、なのだが。
あとは地味にきつそうな農作業はもちろん、いろいろ楽ではなさそう。

でもこうやって生活していくことが楽だろうがきつかろうが、人はひとりで、どこかには家族もいて、ひとつの場所で生きて死ぬのだよね、例えばここの、こんなふうに。という目線は彼の撮るドラマの世界からそのまま繋がっている気がした。 いや、彼にはこの島があったから、あのドラマの世界に入っていくことができたのではないか、と。


Fårö Dokument 1979 (1979)

18日の晩、上の”Fårö Dokument”に続けて、そのまま見ました。
カメラは前作のSven NykvistさんからArne Carlssonさんに変わって、映像のトーンもカラーの比率が多くなり、やや暖かいかんじになっている。

タイトル通り、前作から10年後、あの島のあの村の佇まい、あそこに映っていた村人たちは10年後にどうなっているのか。 10代だった子供たちは大人になっているし、大人は老いているし、撮影中に亡くなってしまう老人もいる。 10年て、そういう時間なんだなー って。

羊を抱きあげるとこが出てきたのでまた屠殺か、と身構えたらただの毛刈りだった。
もうさすがにないよね、と思ったら今度はでっかい豚さんがぶいぶい出てきて、いきなり始まる。これまで食肉のドキュメンタリーで機械化されたその「工程」は見たことがあったが、これはどこまでも手作業で、額をごん、て突いて首を切って血を抜いて、皮の毛をじょりじょり剃って、脚を切って剥いて、縦に吊るしてお腹を割いてむきむきの内臓を出して、それをでっかい猫が狙って… むかし読んだ『大きな森の小さな家』で冬支度に豚をベーコンとかソーセージにするとこがあったが、それはこんなふうだったのだな、って。
(豚のしっぽの焼いたのは、いまだに食べてみたい..)

あと、おじさんがひとりで鰯から鰊だかをフライパンで焼いて食べるとこ。 猫の気分になって涎が。

最後に、次が撮られるのは89年になる、と予告されるのだが、それが撮られることはないのだった。
あの老人たちはもういないのだろうな、と、これは昔のドキュメンタリーを見るといつも思うことなのだが、この映画の老人たちについては、ベルイマンの映画における運命、のようなのが少しだけその影に見える気がした。

2月がいってしまうねえ。ほぼなんもしなかったねえー。

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