2.17.2018

[film] Loveless (2017)  

10日の土曜日のごご、Picturehouse Centralで見ました。原題は”Нелюбовь”

昨年のカンヌで審査員賞を、LFFでもBest Film賞を受賞していて、これの公開を機にBFIでは監督のAndrey Zvyagintsevの特集上映が組まれたりしていた(ぜんぜん見ている余裕なし)。

雪がしんしん降ってとても寒そうなモスクワで小学校から出てくる子供たちがいて、そのなかのひとりの男の子は友達と話すこともなくまっすぐアパートに帰って自分の部屋に籠る。しばらくするとそのアパートを買おうとしていると思われるカップルが見にきたりして、彼の母親は離婚するのでそこを売ろうとしていることがわかる。やがて母親と既に別居しているらしい父親が現れて売れないアパートのこと、子供のことも含めて押し付け合いみたいなきつい口喧嘩の修羅場になって、それを戸の影で聞いている男の子は声を殺して泣いている(←見ていてとても辛い)。

そこから母親はおしゃれして恋人と豪華なレストランで食事して彼のこぎれいなアパートに行って泊まって、父親も既にお腹の大きい恋人と仲良く買い物して彼女の家に行って泊まって、両親がそれぞれにそういうことをしていると、学校からお子さんが学校に来ていませんけど …  という連絡が入る。

警察に捜索依頼に行ってもすぐには動いてくれなくて、まずは子供の行きそうなとこで心当たりがある場所とか親戚友人のうちとかを全て探してみてください捜索はその後、と言われて、それでも見つからなかったので数日後にようやく捜索が始まってチラシ張り紙も配られて、でもやはりなんの手がかりも見つからないまま、やがて廃墟になった団地の片隅で彼のジャケットが見つかったり、同年代と思われる子供の遺体が発見されたりするのだが、彼は消えてしまったかのように。

子供を捜しだすサスペンスと並行して罪深い大人たちへの罰が… という誰もが期待しそうなシンプルな方には行かなくて、両方の親たちがそれぞれに向きたいと思って向いたほうに寄っている間に両者の亀裂の溝に落ちて忽然と消えてしまった子供、彼の落ちた穴というか雪で真っ白に塗られた地表の – “Loveless”としか言いようのない状態がどこにどんなふうに現れるのかを、親たちふたりの関係だけではなく、地元警察の官僚的な動きとかウクライナの紛争に関わる軍の動きまで含めたより大きな地図のなかに置いてみる。スマホを手にしたそれぞれが勝手に追っかけてそれぞれで勝手に満ちたり浮かれたりしている愛の隙間で置き去りにされるというのがどういうことなのか。
”Lack of Love”ではなく”Loveless” – の風景はどんなふうに見えるものなのか。 → ものすごく寒くて寂しい。

これ、今のロシアの都市部の典型的な風景かもしれないけど、当然それだけではない我々を取り囲んでいるそれでもあって、誰もがこういうことが起こりうる状態・事態にあることを知って予測できていながらではどうしたらよいのか、どうすべきなのか、ということについてはうつむいて沈黙してしまう、そういういちばんタチが悪いやつ、と言えるのかも。 起こってからみんなわーわー泣いて騒いで、やがてきれいに忘れてしまう。

あとねえ、この映画に出てくるすべての人たちが俳優の顔をしているように見えない、という怖さ。彼らは我々の周りのそこらにいるふつうの人たちのようで、そういう点では、Robert Bressonの”L’Argent” (1983)と同種の恐ろしさを感じた。 でもあの映画と違うところは、この映画には明確なかたちをとって現れる「悪」のようなものがない、ということ。つまりこれに対置される「善」とか「救い」はカケラも見えてこない。 どこまでもLovelessである、と。

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