1.06.2018

[film] Såsom i en Spegel (1961) - Through a Glass Darkly

年明けの1本はいつも古い映画、古典を見よう、でここ数年ずっとそうしていて、今年だとNYのFilm Forumの“Lucky Star“ (1929)とか、Film Society Lincoln Centerの“Gaslight“ (1944)とかをとっても見たかったのだが、 Londonではそういうのはなくて(調べればあるのかも、だが)、BFI Southbankで始まったIngmar Bergman特集からのこれにした。 この1-3月の目玉の特集(もうひとつはJohn Hurt特集)で、Bergman、あまりきちんと見たことがなかったので見たいとは思うものの、なんでよりによってこんな日照時間の短い季節にやるのかしら、と。特集の予告なんて、こないだのスリラー特集のと同じくらいぴりぴり神経にくるし怖いし。 べつに新年だからほっこりするやつ見たからどうなるもんでもないし、これ以上ひどくなることもないし、とか半ばやけくそで行ってみる。

というわけで1日元旦の夕方、BFIで見ました。
お正月感なんて微塵もない平熱っぷりで、ここの前の古本市もいつも通りにふつうに売り台出してやってるし。
英語題は、” Through a Glass Darkly”。 邦題は『鏡の中にある如く』。

冒頭、海の向こうから楽しそうに歌を歌いながらやってくる4人組の男女がいる。
Karin (Harriet Andersson)とDavid (Gunnar Björnstrand)とMartin (Max von Sydow)とMinus (Lars Passgård)の4名で、KarinはDavidの娘で、Martinの妻で、Minusの姉で、そういう家族が他には誰もいないらしい孤島(Fårö)の一軒家で暮している。

TVもネットも勿論なにもないので夜は自分達で寸劇をしたりして楽しんでいるが、そのうち、姉は心の病を抱えていてなにをしでかすかわからない状態にある、それを家族みんなは少し恐れていることがわかる。 そして作家である父は書くことができずに苦しんでいて、弟は姉のすることが理解できなくて苦しんでいて、姉は自分がいることで家族みんなが苦しんでいることを知って苦しんでいる。

要するに天を仰いでああ神さま、としか言いようのないふわふわした安定しない状態があって、この状態をどう見るかについてはそれぞれの立場から沢山の見方 - “Through a Glass“ - ができて、それについての正当な(誰にとっても、の)妥当な解は、おそらくない。 この解が「ない」という状態についても「鏡の中にある如く」とか“Darkly .. “ としか言われず、言いようがないままにすべてが宙吊り状態になっている。

ひとりの女性を囲む3人の家族 - 男たちがいて、男たちは彼女の内面がわからなくて苦しんでいて、でも彼女のことをとても愛している。 彼女のことを愛しているからなんとかしてやりたいと思うのに、彼女がなにを考えているのか掴めない・読めないので身動きが取れない、でも愛しているから – という延々続いていくループとか鏡像のなかに絡めとられていて、この状態って、この時代、この設定だからということではなくて、今もそこらじゅうにあることよね、と。

ここではどんなことだって起こりうる、これってとても怖いことだよ、とラストで息子は父に訴えて、父はそこで「神」についてはごにょごにょと、“I think so…“くらいの頼りないことしか言わない。この終わりは余計な蛇足かもしれないが、それ故になかなか生々しくてよいと思った。

あと、男子3人と女子1人、ていうこの構成についてこの男女構成比で、そのなかの女子ひとりが変な状態にあるとこうなってしまう(の?)、というフェミニズム観点での文句とか批評とか、あってしかるべきよね、と少し思った。 Bergman映画に特有の男っぽさ – なんかメロメロになる女性が多い気がする - について書いたのって、どこかにあるのかしら。

これ、Silence 3部作の最初のやつで、残りの2作も見れたら見る。 見終わっても重いかんじが残らない不思議って、なんだろ。

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