1.09.2018

[film] Persona (1966)

3日水曜日の夕方、BFIのBergman特集で見ました。

今回のBergman特集のメインビジュアルになっているのがこの映画のLiv Ullmannの横顔で、このイメージ広告が地下鉄のホームとかにも割とふつうに貼ってある(ってなんかすごい)。

https://www.youtube.com/watch?v=XFqwYrbARB0

初期のBergmanを代表する作品で、今回の特集の中で上映回数も多いし、昨年みたシアター - Ivo van Hove - Toneelgroep Amsterdamでも演目になっていたし、『去年マリエンバートで』(1961)と並んで常にその「前衛」性を云々される作品でもあるし、自分は相当昔にFilm Forumで見たけど、実のとこほとんどあんまり憶えていない。

舞台上で声を出せなくなって体も動かせなくなってしまった高名な女優 -Elizabeth Vogler (Liv Ullmann)がいて、体に特に異常は認められないし原因も不明なのだがとにかく動けず声を出せないことは確かで、修道院のナースだった25歳の快活なAlma (Bibi Andersson)が看護・介護担当となって、暫く病室で過ごした後に、担当の女医はふたりで海辺のコテージに行って治療に専念するように言われる。

始めのうちはラジオを聞いたり本を読んだりAlmaがいろんなことを喋ったりふたりの時間を過ごしていくのだが、順調かつ良好に治療は進んでいくかに見えたところで変なことが起こり始める。どちらの誰がどう見て聞いたものかわからないのだが、AlmaがElizabethの声や感情を持って喋ったり怒ったり泣いたり、Elizabethの人格をもったひと、としか言いようのない挙動をするようになる。 人格の転移とか憑依、としか言いようのない現象が喋れないElizabethといくらでも喋ることができるAlmaの間に起こる。

どうして? とか、なにがトリガーになって? というのは説明されなくて、でもそういうことが起こる。 患者と看護人、喋れない人と喋れる人、動けない人と動ける人、裕福な社会的地位もある人とそうでない人、既婚者と未婚者、老いた人と若い人の間で、乱暴に、突発事故のようにして起こって、その後で一旦崩れかけたかに見えた二人の関係とかElizabethの病状は良い方に向かっている「ように」見える。この「ように」が曲者で、だってじつは、始めの始めからなにひとつ説明されていないんだもの。 なんでElizabethは突然あんなふうになってしまったのかも、Elizabethの症状はどう診断されてどういう治療をするのが適切と(誰によって)判断されたのか、そこになぜ若いAlmaがあてがわれたのか、なぜ二人きりで孤島に送られるのか、こないだの”Through a Glass Darkly”の男の子じゃないけど「こんなのなんだってありじゃないか、こわいよ」になる。

しかもここには”Through a Glass..”で怖々と指し示されたような「神」の件は一切現れてこない。出てくるのはカメラとかカーテンとか舞台とか、撮影のセットのようなもの。
そこにあるのは、Persona = 仮面、そして表情のない表情でこちらを見つめてくる目と。

この肉体的暴力を伴わない(に帰結しない)、他者から見えない内面で起こるなんだってありの変異とか転移とか豹変とか、統合されてあるべきものがそうならない理不尽さ、その表出(突出)がもたらす恐怖こそがBergmanの映画のひとつのテーマとしてあるのかも、と思っていて、そしてそこに例えば「神」とか「愛」とか「幸せ」とかを置いてみると何が見えてくるだろうか。

これの上映のときに貰ったProgramノート(BFIでは個々の上映作品について解説したり評論したりインタビューが載っていたりするA4のペーパーをくれるの)で、Susan Sontagはヘンリー・ジェイムズの『聖なる泉』を例に引いたりしながら、ここに見られる転移を”The vampiristic exchanges”て言っている。 なるほどなー。

(ちなみにこの評は、Sight and Sound誌の67年秋号に掲載されたもので、web上にあった全文 – たぶん – と後で比べてみたらBFIのノートは結構端折っていることがわかった)

書いていたらもう一回見たくなってきたので、もう一回どこかで見ておきたい。
他にも変なシーンとかいっぱい出てくるし。気にしすぎかもだけど。
16日の上映のときはイントロでRichard Ayoadeさんが喋ったりするのだが、来週はなあ…

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