1.31.2018

[film] Nattvardsgästerna (1963)

22日の月曜日の晩、BFIのベルイマン特集でみました。眠くてだるくてどうしようもなかったが、こういうときこそ見るべきなのよ(← わけわかんねえ)。

"Winter Light" -  「冬の光」。"Through a Glass Darkly" (1961) に連なる Silence三部作の二つ目。設定や登場人物の繋がりはない。
ただ寒いだけのような薄暗い村に牧師Tomas Ericsson (Gunnar Björnstrand)がいて、村の漁師のJonas (Max von Sydow)とKarin (Gunnel Lindblom)の夫婦がやって来て、中国が核開発に成功したっていうけどどうしたものか? と聞いてくる – けどTomasはどうすることもできない。(やがてJonasは銃で自殺してしまう)

同様にTomasのEx-恋人のMärta (Ingrid Thulin)がすがってきて、彼が相手してくれないから湿疹で肌も掌もぼろぼろで辛いしどうしようもないし、と延々切々と訴えるのだが、これもどうすることもできなくてTomasの表情は硬くて暗い。

結局のところTomasのお勤めであるところのお祈りとかそのお相手である神様とかって、現実の、足下の問題とか困難とかになにをしてくれるの? なんもしてくれないんじゃないの? 風邪なんてひいてる場合じゃないわよ、とか。Tomasを経由して降りてくる神の言葉がどうしようもなく空虚でぜんぜん響いてこないんだけどどうするの? 無神論するよ? ていくら言ってもTomasには通じない、ひたすら信じて祈ることしかできないらしい。

“Winter Light”  - 「冬の光」 – こんなに厳しくてきつい冬なのに少しでも光が射してくれるのはありがたいことじゃ、とみるか、こんなに寒くてやってられない冬に光なんてあってもなくてもどうでもいいしいらねえ、というか。いやいや神はそういうのを超越したなにかなのだからとにかく心のなかに持っておきなされ、というのか。

全体としてはひたすらぼんやりどんよりとした会話劇が殺伐とした風景のなかで繰り広げられていくばかりで、ではつまんないのかというとそんなことはないの。

三部作のひとつめ – “Through a Glass, Darkly”は、ここに神はいるのかしら? いるのだとしたら? という問いをラストに控えめに投げてくる、身内の諍いだったのに対し、この”Winter Light”は、凍てつく大地に神の言葉のみがじゃらじゃら溢れてきてそれしかない、というくらい執拗に迫ってきて何ひとつ救われなくて、人が亡くなったりするのにそれでも念仏を唱えながらカーテンの奥に消えていく。しーん。

どっちにしてもいない、というか、いるのかも知れないけど、決定的に届かない。
それではなにかいるのか、そこに残っているのはなんなのか? と。

Tomasの端正で硬い、崩れない表情を見ていて、これって”Fanny and Alexander”に出てくる悪魔の司教の原型ではないか、と少し思った。人物の表情が(突然に)崩れたり壊れたりするのってベルイマンの映画のなかでは結構典型の、ドラマチックな瞬間だと思うのだが、揺るがない顔って「悪」なのではないか、と思いつつ見ている。

かろうじて寝なかったけど、やはり英語の字幕を追うのはきつかった。

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