12.26.2016

[art] Kai Althoff: and then leave me to the common swifts

16日のごご、"Manchester by the Sea"の後でランチしたその後、美術館まわりに向かうことにして、今回は上のほう - Upper Eastはやめて、WhitneyとMoMAにした。
(理由はあんまない。まだWhitneyの新しいのまだ一回しか行ってなかったし、寒かったし、くらい)

Whitneyでみた展示ふたつ。

Human Interest: Portraits from the Whitney’s Collection

一番上のフロアふたつ使って、収蔵品から「ポートレート」を中心に絵画も写真も彫刻もあらゆるメディウムの作品をテーマ別 - 顔、ボディ、路上生活、セレブ、New York、自画像、人のないポートレート - などなどで並べてあって、年代別、アーティスト別でもなくて、動物園とか水族館のように面白いったら。
20世紀初からの、肖像が従来の意味での「肖像」ではなくなっていく/崩れていく過程 - そこには現代史のいろーんな問題 - 多様性、差別に疎外、都市化、近代化、メディアの発達、肥大化するいろんな不安、セルフィ、などなどがあるものはストレートに、あるものは屈折したかたちで反映・表象されていて全然飽きないの。
こういう展示が収蔵品だけでできてしまうって、改めてすごいねえ、だった。

Dreamlands: Immersive Cinema and Art, 1905–2016

Whitneyに行こうと思ったのはこの展示のタイトルだけ見て、映画となんか関係のあるやつかも、と思ったからなのだが、ふだん映画館に見に行く映画との関係はほとんどぜんぜんなくて、タイトルの”Dreamlands”はラヴクラフトのクトゥルー神話からとったのだという。

フロアがいくつもの区画で区切られていて作品ごとにいろんな暗室(光も壁も床もぜんぶちがう)があって座ってみるもの立ってみるもの転がってみるものいろいろで、インスタレーションみたいのから3Dグラフィック動画まで、ものによっては見るのに時間が掛かるやつもあったので、さーっと流す程度で終わってしまった。 夢の国には時間がいっぱいあるときに行くべきってことよね。

あまり知っている人の作品はあまりなくて、Bruce ConnerとかJoseph Cornellくらい。 夢に没入するにはいろんな方法があるしその夢のありようにもそもそもの作り方にもものすごくいろんなヴァリエーションとか可能性とか、あるんだねえ、あたりまえだけど。

寒かったけど夕暮れ近くて光のかんじが素敵だったので外のテラスにも出てみた。
雲の切れ間から光が抜けてハドソン川の一部を照らしていてロマン派してて、こういうとこも素敵なの。

で、そこから地下鉄のEで53rdの5th Aveまで行ったのだが、ホームから地上までの昇りのエスカレーターが動いてなくてよじ登って死ぬかとおもった。自分よかもっと上のお年寄りの人たちも立ち止まってみんなぜえぜえしてた。 そうやって石段を登ってお参りする先はMoMA。

金曜の夕方から晩にかけて、MoMAはユニクロのおかげで入場料タダになる。ユニクロばーんざい。(ぼー読み)

Kai Althoff: and then leave me to the common swifts
(und dann überlasst mich den Mauerseglern)

Picabiaを見にいった同じフロアでやってて、入り口で入場制限をしていたので、なんだろと思って入ってみた。 ギャラリーいっぱいに使ったドイツの人Kai Althoffによるインスタレーションで、会場全体を彼 or 誰かの部屋とかアトリエのように仕上げてこまこまつくりこんであって、デリケートすぎるので一度に入れる人数を抑えてて、写真もだめで。

床とか壁とか至るところに200点以上の絵画とかオブジェ - 普通の絵画の他にドローイング、下書き、落書き、書き込み、チラシみたいの、等々が床に散らばったり立てかけられたり、その床やソファにも布 - 使用後、みたいに汚れてたり - だのなんだのが掛けられ散らばり玩具みたいなガラクタみたいなゴミみたいないろんなモノが散らばり、それらもぜんぶ彼のアートである、と。

近いところだとこないだの写真美術館であった「杉本博司 ロスト・ヒューマン」展に似たかんじなのだが、あれにあった、だれそれの部屋、というとこではなくて、あくまで作家であるKai Althoffの、いま生きている部屋というかんじはする。

絵画を彼のアートの中心に置くとすれば、ドイツ表現主義ふう - Egon SchieleからMax Beckmann - 或いは丸尾末広の漫画あたりまでを思わせるその作風から、こんなふうに脳みその裏側までべろんと立体的に見世物小屋ふうに見せてしまうのはありなんだろうな、て思ったし、実際にものすごくおもしろいのだった。 あそこまで、大小のゴミにホコリにチリまで含めて見せてしまうことができるなんて、相当の粘力がいったのではないか。 ドイツのひと。

こういうよくある「私の部屋」的なインスタレーションって、そいつの体臭まで寄ってきそうな露悪的ではいはいわかりましたよ、ふうになりがちなのだが彼のこれに関しては不思議と開かれているかんじがあって - 「そしてあとはわたしをそこらのアマツバメに乗っけといて」。

なんかおもしろかったのでカタログかった。

Francis Picabia: Our Heads Are Round so Our Thoughts Can Change Direction

今回MoMAに行ったのはこの展示を見たかったから。
入り口に、いい歳した彼が三輪車に乗ってはしゃいでいるでっかい写真が貼ってあって、それが全てを表しているかんじ。
彼のキャリア全体を見渡した今回のような展示は米国初だそうで少し驚いたが、そうなのかもしれない。 印象派でもキュビズムでもダダでも未来派でも、そういう特集展のはじっこには(よくわかんないけど)ほとんど彼の作品は置いてあったりする。 けど、彼の表現が追っていったものって全体で俯瞰してみるとどんなだったのよ? と。

というわけで、初期の印象派の時代に始まって、部屋ごとに笑っちゃうくらい意匠や仕様の異なる作品が並んでいて、しかもそのどれもがそれなりに巧くておもしろいので感心する。

流行り廃りや時々の共演者によって新しい技術取り入れて自身のスタイルをころころ変えて渡っていくミュージシャンみたいに、彼は自身のスタイルを直感的に変えていった、ていうかたぶん、かっこいい! て思ったらそっちに走っていっちゃう男の子の態度で時代やアートに接していった最初の世代のひとだったのではないか。 いまの時代、そういう人はいっぱいいるし、いてもけっ、て思うことが多いけど、この人はそういう形でアートへの関わり方そのものを変える、そういうふうにArtist's Artist、のようなかたちでモダンアートの外延を作っていった、かんじがした。

タダ、ということもあるのか混雑がなかなかすごくて、ほんとはNan Goldinももう一回見たかったし、コレクションに加わった絵文字も見たかったのだが、あきらめて外にでたの。

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