10.03.2016

[film] ざくろ屋敷 バルザック『人間喜劇』より (2006)

24日、土曜日の午前、渋谷の『日本映画の現在』の深田晃司監督の特集 - 1日だけの - で見ました。
中編2本立て。 監督の過去作も含めまったく知らない状態で見て、どちらもすばらしい見応えだった。

ざくろ屋敷  バルザック『人間喜劇』より

原題は”La Grenadière” (1832)

バルザックの原作が入っている『知られざる傑作』の文庫は探してみると2冊あって、ついでに『「絶対」の探求』もなぜか2冊でてくる。 過去になにかあったのかしらん。。

トゥール近郊 - ロワール河沿いの館 - ざくろ屋敷に小さな男の子ふたりを連れたヴィレムセンス夫人が越してきて、暗い影があって病弱そうで近寄りがたい夫人、夕方になると橋の上に佇んでいる夫人には過去なにがあったのだろうか、ていう話と、大人になった大きい方の子のルイ・ガストンがざくろ屋敷でのほんのりと幸せだった日々を振り返る、ていう話が、夫人の衰弱とやがて訪れる死に向かってゆっくり暗闇に沈んでいく、その様がテンペラ画 - その柔らかく仄暗い肌理のなかで紙芝居のように展開していく。

原作の小説だと冒頭の描写でその土地やざくろ屋敷の様子がとても精緻に綴られて、この映画だとおおきな静止画一枚、その静止画そのものを暗がりとかカーテン越しにじっと見ている感があって、文章をたどりながら情景をイメージするのとテンペラ画の表面に目を凝らすことの違いとかを思って、どちらの経験は似ているのかどうか、似ているとしたらどんなふうに? とか。

成長して船乗りになった兄ルイが、海上で目を凝らして掘り起こそうとする幼い頃の記憶と、罪を犯して社交界から追われて田舎に身を隠し、そのまま身を屈めて全てを無に帰そうとする母と、それぞれの異なる方向の想い、異なる声を受けとめながらもざくろ屋敷はひっそりとそこに建っていて、そういう記憶のありようをパノラマで定着させるのに、テンペラ画というのはすばらしい平面かも、ておもった。
映画館の暗闇で、大きな画面で見れてほんとうによかった。

まだ現地に現存しているようなので、いつかはざくろ屋敷行きたい。

いなべ (2013)

これは実写で、今のにっぽんの「いなべ」ていう土地のお話し。三重県にあるらしい、のだが、自分は三重県の所在とかあんまよくしらない。

とにかくそこの養豚場で働く男のところに赤ん坊を抱えた女の人が訪ねてきて、ふたりのいろんな会話のなかで、彼女は男の姉で、17年ぶりに実家に戻ってきて、祖母は既にぼけてて、母はそのとき不在、母が再婚したときに姉は家を出て、なのでその後に生まれた義妹とは会っていなくて、更に義父は当時姉の家庭教師をしていて恋仲かもしれなかった、とかいろんな事情もだんだん見えてくる。

電車と自転車が競走するカーブとか、公園とか滝とか、いろんな場所をふたりで巡りつついろんな話をして、昔ふたりで埋めたなにか - ふたりだけしか知らないはずのなにか、を探して掘っていく。 
その過程で姉はもうこの世のひとではないのだな、というのがわかる場面があったりするのだが、17年間音信不通で姿が見えなかった姉は弟にとって、家族にとってどんな存在だったのだろう、とか。
カーブを曲がって追いつきそうで、でも追いつかない電車と自転車 ?

家族がひとり消えてしまうということ、消えてしまってからの時間と、それぞれ/いろいろに都合の悪いことがあったり起こったりして、身を隠して見えなくなって、そういう時間と、亡くなったことがわかってしまったあとの時間と、それらの時間は家族のあいだにどんなふうに共有されたり埋められたりしてひとつの時間になる/なっていくのだろうか、そのとき場所はいつもの場所なのか、違って見えるのか、とか。

いなくなってしまった人と時間を想う、という点では「ざくろ屋敷」とも少し似ている。
違うのは、ざくろ屋敷は過去と一緒に届かないところに行ってしまったのだが、いなべ(市)はずっとそこにある、ていうこと。

あと、ふたりが姉弟ではなく、かつての恋人同士だったらどうだろうか、とか。
そうしたらやっぱり怪談になるのかしら。

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