6.18.2016

[film] La Planette Lumière (1995)

6月16日の木曜日、アテネ・フランセの『「ポンピドゥー・センター傑作展」(東京都美術館)関連企画 フランス映画傑作展』 - ながいね - ていうののオープニングで見ました。

日本橋で仕事を抜けた(から逃げた)のが18:00で、そこから地下鉄潜って乗り換えて新御茶ノ水のくそ長いエスカレーターを駆け上って、小雨のなか走って、建物についたらそうだ4階だったとさらに階段のぼって、これぜったい死ぬかもと這うように18:30丁度に着いたら、まだ並んでチケット売ってた...
18:30はきつすぎる。 でもそこまでしても見たかったし、講演ききたかったし。

『リュミエールの惑星(リュミエール28作品による世界旅行)』

1895年、リュミエール兄弟は世界中にカメラマン/オペレーターを派遣して、各地のいろんな映像を撮った。それを1995年、映画生誕100周年記念で再構成したもの。短い映像が28パート、25分で世界一周する。
リヨン - パリ - パリ - そこからヨーロッパに出て、ロンドンとかベルリンとか、さらにアフリカに行ってアジアに行って、最後は日本までくる。 200年前のいろんな国のそれぞれの風景とか人とか。
どのパートも最初が静止画で、古い写真で、それが突然動きだす瞬間がたまらない。ドラムスが入って音楽が、世界がわんわん鳴りだす瞬間というか。
「地球」ではなくて「惑星」。 回転する傘の上でころころ転がっていく球体。

続いて19時過ぎから、ドミニク・パイーニ先生による講義:
『リュミエール兄弟とフランスの芸術:印象派と映画の発明』 あっというまの1.5時間。

リュミエール兄弟が撮った映像のクオリティの高さ - なんで彼らの作品、審美眼はあんなにちゃんとしているのか? を裕福だったリュミエール家の、画家だった兄弟の父がごく普通に範としていた古典的な作家 - ウィリアム・アドルフ・ブグロー(William-Adolphe Bouguereau 1825 - 1905)の紹介から入って、でも彼らが映画として切り取った日常/非日常のありようは、ブグローの世界のそれというよりは同時代の印象派のそれに近い。
だがそれは、印象派の画家たちと登場のタイミングが近いから、印象派と同じような題材を扱っているからというだけの話ではないのだと。

長くなりそうなのでうーんと要約してしまうと;
19世紀前半に出てきた写真と、産業化・工業化の進展と、それによって可能となった大量複製、再現可能なものに対する期待や要請、などなどがアートの対象や目線を神や神話的世界、自身の属していた(上流)社会といった普遍(&不変)の世界からの変容(グローバリゼーションの初っ端)を促した。
時間的には切り取られた時間、移ろいゆく時間へ - 更にはそれらが引き起こす儚さ・メランコリアへと、空間的には切り取られたフレームの中と外、運動の中断、などなどの緊張関係がもたらすサスペンスへと。 印象派の絵画が表象したものとリュミエール兄弟の映画が表象したものはこんなふうにその起源を同じくしているのである、と。

これらを説明するのに紹介・引用されたのは;
・ジャン=レオン・ジェローム(Jean-Léon Gérôme 1824 - 1904)
 “Painting Breathes Life into Sculpture” 1893
 - ブグローの絵画の系譜にありながらも題材が現代のそれになってきた例として。

1850年代、自然に惹かれていった画家たちの代表例として -
・カミーユ・コロー(Jean-Baptiste Camille Corot  1796-1875)
・テオドール・ルソー (Théodore Rousseau 1812-1867)

・ピエール=アンリ・ド・ヴァランシエンヌ (Pierre-Henri de Valenciennes 1750-1819)
 上の風景画家の祖として、上下逆さにしてもたいして変わんないような抽象絵画の祖としても。

ここで取りあげたような印象派絵画の特徴がぱんぱんに詰まった2枚として:
・エドゥアール・マネ「鉄道」(1873)
・ギュスターヴ・カイユボット 「パリの通り、雨」 (1877)

更に都市風景や工場などをテーマにした黎明期の写真家として;
・シャルル・マルヴィル(Charles Marville  1813 - 1879)

あと、画像としては出なかったけど、リュミエールの映像との対比で紹介された
・鏑木清方「墨田河舟遊」(1914)
これ、金曜の晩に竹橋で見てきたのですが、ほんとうに素晴らしいよ。
隣に並んでいる土田麦僊の「湯女(ゆな)」(1918)とあわせると、涼しい風がさらさら来る。

最後に紹介された2本の動画、”Washerwomen on the River” (1897)と馬のながーい列が奥に連なって行くやつ(見つからないや)は、ふつうに見ればごくふつうにおもしろいのだが、先生が説明すると魔法のように戦慄の動画に豹変してしまうので、映画よりもそっちのほうにびっくらした。


ていうような流れとは別に、こないだようやく読み終わったトーマス・ベルンハルトの『消去』の怒濤のラストにあった『写真の映像が 〜 世界規模の白痴化を作動させたのだが、そのプロセスは写真映像が動きはじめた瞬間、人類にとって致命的な速度に達した』みたいなところ、堕落と転落が加速していったほうも見ていかなくては、て思うのだった。

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