11.19.2014

[film] Kentucky Pride (1925)

2日、京橋での3本目。 「譽れの一番乗」の終わり、音楽が終わるか終らないかのうちに突如アイリッシュに豹変した狂乱のじじいどもが次のに並ぶために出口に殺到し、そういうのはほんとに嫌いなので帰ろうと思ったのだが、一応みんな並んでいるしだめでもよいから並んでおこう、て並んでみて、そうしたら最後の最後ほうで座れてしまった。

「香も高きケンタッキー」

「譽れの一番乗」でとってもさわやかに泣いてしまったので、もうこれを上回るもんはそうあるまい、て余裕だったの。 だってさー、解説読むと馬が語り手だとか書いてあるじゃん、サイレントだから馬が語ろうが猫がしゃべろうが勝手だけど、馬の自分語りに泣くほどおひとよしじゃねえよ、とか。 でも、びーびー泣いて、泣かされた。しかも馬なんかに。  ソープオペラじゃなくて、ホースオペラ。

ケンタッキーに、お馬(♀)のVirginia's Futureが生まれてすくすく育って、速かったのに勝利の一歩手前で怪我をしてレースはできなくなって、殺されるはずのところをぎりぎり救われて娘を生んで、更に主人の賭博のカタに売られちゃって、いろんなドラマがあって、その娘のConfederacyがんばれーって、Confederacyはすべてを失ったママやみんなの夢と希望を乗っけて風のように走っていくの。

馬のドラマはさわやかでうつくしいのに、ヒトのほうはどろどろと暗くて陰惨で、馬主の妻は隣人と結託しておうちを乗っ取るし、Virginia's Futureを買い取ったろくでなし3人組はひどくて、でも結局は馬の勝ち負けですべてがひっくり返る。 最初のレースで脚を折ってから転がり落ちていった運命が、最後のレースの大勝利で修復されて戻ってくる。 それはもうほんとうにすべてが許される、で、語り馬であるVirginia's Futureのラストの語りで、みんな大泣きする。 馬なのに、あんた文章うますぎ。

ラストだけじゃなくて、荷物馬に堕ちたVirginia's Futureが同じように落ちぶれたかつての馬主に街角ですれちがう一瞬、あそこも思いだしただけで胸が痛くなる。 あんた馬なのになんて…

当時の伝説の名馬Man o’ Warも実名で登場する。 あんたでっかすぎ。

こんなふうに馬がとんでもないのはしょうがないとして、更にとんでもないのはそんな馬たちを馬として撮りあげてしまったJohn Fordなのよね。

“Babe” (1995)(豚の映画だよ、ねんのため)もさあ、こんなふうなサイレントにすればもっと泣けたかも。


並んで大変だった、とかいう自慢話とは関係なく、この2本のサイレントを見たことは、「映画体験」としか言いようのない類いのもので、約90年前に作られたこいつらを、まだ「知らなかった」ことにびっくりしましたよ。 こんなのふつうに見れないとさあ...(以下同)

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