5.27.2014

[film] Recuerdos de una mañana (2011)

5日の午後、イメージフォーラム・フェスティバルで見た最後のやつ。
ホセ・ルイス・ゲリンの中短編ふたつ。 監督本人が来ているとは知らなかった。

「ある朝の思い出」

韓国の全州映画祭のデジタル・プロジェクトとして映画作家3人に委託されたうちの1本。他に頼まれたのはジャン=マリー・ストローブとクレール・ドゥニ、だそう。

2008年のある朝、ゲリンの家の反対側のアパートに住んでいるバイオリン弾きが全裸で飛び降り自殺をした。 その事実以外に彼のことを全く知らないゲリンが、事故を目撃した近隣の住人や彼を知るひとのインタビューを通して、自殺の動機や自殺した人の心理や事故の投げかけた波紋を追う、というのでは全くなくて、ある朝、ある場所で起こったこと、ひとがひとり亡くなったということ、これらはどういうことだったのか、をフィルムに記録してみる、という試み。

自殺したひとの内面、その家族や人間関係、これらはわかりようがない、その上で、彼が抱えていたに違いない苦しみや痛みが一点に収斂し、彼の体を空中に投げ出し、一挙に地面に衝突させてしまったある朝の、ある路面の様子を建物の内側と外側、中で聴こえる音、外で聴こえる音、それらの出入りや重ねあいを通して彼が見ていたであろう風景、彼が聞いていたであろう音を拾いあげ、一度は静まり返ったこれらが再びひとつの風景として周囲に受容され、ふたたび元の通りになっていく過程を描く。

もちろん、それでなにかが浮かばれるわけでも救われるわけでもないし、都市生活者の孤独、みたいなものがあぶり出されるわけでもない。 例えば、われわれが経験している沢山の朝と彼の「ある朝」とを隔てたものはなんだったのか、彼が自ら塞いでしまった知覚の扉はどの方向を向いていたのか、とかが複数のガラス窓を通してぼんやりと見えてくる。

自殺したひとはゲーテの「若きウェルテルの悩み」とかプルーストの『サント=ブーヴに反論する:ある朝の思い出』(タイトルはここから取られた。 前に筑摩文庫で出ていた評論集①が本棚のどこを探しても出てこないのはなぜ) をカタルーニャ語に翻訳していたという。 上映後のトークでゲリンは彼がウェルテルを訳していた、という箇所に動かされて撮りはじめた、と言っていたが、そうかー ゲリンはウェルテル読みかあ、「シルビア」なんてそんなふうだもんなあ、とそっちの方に感心したり。

あと、"Guest" (2010) を撮ったあとで、全く違ったことをやってみたかった、とも言っていた。
確かに未知の異国にGuestとして赴いてその時間のなかでカメラをまわすことと、Homeにカメラを据えてある一点のひととき、を追っていくことの違い、がわかりやすく示されていた。



Dos cartas a Ana (2011)   - 「アナへの2通の手紙」

スペインのMuseo de Arte Contemporáneo Esteban Vicenteより委託されたインスタレーション「コリントスの女」の一部として製作されたもの。

プリニウス経由で紀元前ギリシャの写実画家ゼウクシスのお話、ろうそくの光で恋人の影を壁に映しだす肖像画から照らしだされるイマージュ、絵画、そして映画の起源。 こういうのを啓蒙臭ぷんぷんではなく、映像詩みたいな「手紙」としてさらっと女性に出しちゃうんだから、どこまでロマンチストでやーらしいんだか。

こんなのを受け取ってしまったアナは、どんな顔をしたのだろうか、どんなふうに返したのだろうか、とかそっちのほうが気になったり。

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