3.22.2014

[film] Paradies: Glaube (2012)

パラダイスの「神」篇。 愛をみたあとに神をみる。

妹テレサをヴァカンスに、姪もダイエットキャンプに送り出したあと、レントゲン技師をしているアンナ・マリアの夏休みはイエスさまに100%捧げられている。
寝る前に自身の背中を鞭打つことで人々の罪や穢れの赦しを請い、賛美歌を歌い、聖書の読書会に参加し、昼間はマリア様を担いで電車に乗って移民のおうちを個別訪問して布教活動を続ける。なにを言われてもイエスさまがついているのだからへこたれない。 むしろひどい仕打ちを受ければ受けるほど、イエスさまへの愛は燃えあがるのだった。

そんなある日、エジプトから2年ぶりにイスラム教徒の夫ナビルが家に戻ってきて生活が狂いはじめる。
彼は車椅子生活(結婚当初はそうでなかったことが写真でわかる)でアンナ・マリアの助けがないとなにもできないし、イスラム教徒だから妻は当然献身的に夫に奉仕すべしだし、でも彼女がイエスさまべったりなのが気にくわない。 こうして家庭内宗教戦争が勃発して、互い(の宗教)への嫌がらせが激化して、それはそれはおもしろい。 夫婦喧嘩で宗教喧嘩だから犬も猫もくうわきゃないの。

そもそもなんでそんな犬猿のふたりが夫婦してるわけ ? ておもうのだが、過去にいろいろあったみたいで、そこはわかんないの。 アンナ・マリアはカトリックだから離婚できないし、でもお互いに互いが異教徒だから自分の神のためには命を賭けてだって戦うし相手の神を呪う、って。 どっちかがしぬまで出口はない。

これが和を尊ぶ(けど加虐被虐だいすき)ニッポンの夫婦のお話であれば憔悴しきった妻がひと思いに夫を(だっきん)... になるに違いないのだが、そんな簡単なとこには転がらない。次になにが起こるかわからない緊張感はホラー映画並みであるが。

ここにあるのは夫婦間の決定的な溝、であり人種間のそれであり宗教間のそれでもあって、でも「神」ていうのはそういうのを超越的に解消してくれるはずのもんなんだから... だよね? ね? ていう強い強いコミットをしているのに、それでも神は、ていうのと、それだから神は、ていうのと...   おもしろいねえ。
こうして神は、ヒトは、それぞれを縛りあって、そこに「パラダイス」のようなもの、を顕現させて和解に持ちこもうとする。

「愛」もそうだったけど、テレサとは置かれた場所が違うから、「神」のアンナ・マリアとは宗教がちがうから、わかんないねえ、としてよいものなのか。 いや、もちろんわかんなくてよいのだが、彼らが見据える、追っかけ続ける神 = パラダイスはすぐそこにあるの。 見たくなくたってある。 ナダルがベランダからじっとみつめる家の前の森みたいに遍在している、ていう点では神は愛よか遥かに面倒で厄介で。 それってどうする? なんだよねえ。

とりあえず愛しとけ、でいいの? (... にほんじん)

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