7.23.2012

[film] This Must Be the Place (2011)

20日、金曜日の晩、ううう首相官邸前...とか思いつつこの体調で人混みのなかに行ったらしぬ気がしたので、「きっとここが...」とか後ろめたく思いつつ、銀座で見ました。
『きっとここが帰る場所』。

引退してアイルランドのお屋敷でよぼよぼと隠遁しているロックスターのCheyenneは、いまだに長髪でメイクで革ジャンで、つまり輝きを失って壊れたロックスターそのままの生活 - 街のみんなが彼が彼であることを知っているが、笑いの対象にしかならない -  を送っている。 そんな彼が父親危篤の報を受けてNew Yorkに(船で。なんで船?)戻ってみると父親は既に亡くなっていて、彼は父がその最期まで自分に辱めを与えたナチスの戦犯を追っていたことを知る。 で、Cheyenneはいくつかの手がかりと戦犯追跡のプロのおじいさんの力を借りて、既に亡くなっているかもしれない旧戦犯を追って西に向かう。

15歳のときに家を飛びだして以来、一切関わりを持たなかった父親への償いに彼の仇をうつ、というのが最初の動機としてあったのかもしれない。 だから途中でものすごく痛い思いをするでっかい銃を買ったりする。
でも、旅の過程で各地に点在する旧戦犯の家族と会ったり、旧戦犯本人と会ったりして彼のなかで変わってくるものがある。
彼の父親が生涯かけて追いかけていった(でも、やろうと思えばできたであろうに殺さなかった)相手と、追いかけていったその理由を(父親の声が至るところで被さってくる)、旧戦犯が過去から逃げ去るように置き去りにしてきた家族を、彼らにとっての"Home"を知ることで。

ものすごく紋切型の、どこにでもありそうなロードムーヴィーだし、わかりやすい自分発見の旅だし、画面も色も音もわざとらしくきんきん作りこんであるし、ぜんぜん好きになれないタイプの映画のはずなのに、ぎりぎりで嫌いになれないのはなぜなのだろう、と。

おそらく、Cheyenneのキャラクターがきちんと描かれているからだ。
いやいや、彼のキャラクターこそ、わざとらしい作りこみの、紋切型の極致ではないか、と言うかもしれない。 でも、ああいう「ロックスター」はまちがいなくその辺にいる、作りあげられたイメージから逃れられず、体は老いて顔はしわしわなのにピュアなロックスピリット(恥)に拘り続けて、未だに自分の親とまともな会話のひとつもできないままの「子供」はいっぱいいるのではないか。

そして映画は、そういう彼らに対する救いも導きも啓示ももたらすことなく、Cheyenneとその父親(達)の物語を、ナチズムからロックンロールへと至る"Home"をめぐる迫害と逃走の旅として敷延してみせる。 彼らのいう"Home"は我々にとっても普遍的な"Home"足りうるのか、というのはとりあえず置いておくとして。 少なくとも世界には"This Must Be the Place"と呼びうる場所が - それを「帰る場所」と呼んでよいのかどうかは別だとおもうが - あるのだ、ということを忘れないように、と。

で、その旅のサウンドトラックとして流れているのがバンド"Pieces Of Shit"の音であるという -

ラストはたぶんもういっこ考えられて、それはリードギターが勝手に走っていかないタイトなロックバンドの復活 - もうメイク不要のロックシンガーの帰還、になったはずだ。 でもそれだとわかり易すぎてつまんないか。

あとね、『ものすごくうるさくて...』の映画版は、ほんとはこんなふうに撮られるべきだったのではないか、と思う。

David ByrneとWill OldhamによるThe Pieces Of Shitな音楽は文句なしに素晴らしいのだが、ラストに降り注ぐGavin Fridayの"Lord I'm Coming"が泣きたくなるくらいによい。

Cheyenneの外見のモデルは誰なのか、Robert Smithあたりかなあ、とか思ったが本人が聞いたら怒るかしら。

それにしても、ライブに行けていないので全身が干上がってしにそうだわ。
今日のMark Kozelekも行けなかった... 
FRFも3日めだけでいいのにチケットなんかどこにもありゃしない。

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