7.18.2012

[film] Guest (2010)

連休の初日の土曜日に見ました。 José Luis Guerín特集の1本。
『シルビアのいる街で』をいろんな国の映画祭に持っていった際にモノクロのデジタルカメラで撮った旅日記であり、「ドキュメンタリー」である。
今回、自身がカメラとなるGuerínは映画祭のGuestであると同時に、その国のそこに暮らす人たちにとってのGuestでもあって、それってそこで映画を撮ろうとする映画作家にとってどういうことなんだろうか、という内省が常につきまとう。

2007年のヴェネツィアから始まって2008年のヴェネツィアまで。

その間、渡りの足場としてのNew Yorkに行って、南米はコロンビア(ボゴタ、カリ)、チリ(サンチャゴ)、ブラジル(サンパウロ)、キューバ(ハバナ)、ペルー(リマ)、アジアではマカオと香港、最後にイスラエル。
ナレーションも地名の記載もない。 区切りのようなかたちで日付が入るが、ほんとうにその日に撮られた映像なのかは、わかりようがないし、わからなくても構わない。

New Yorkではメトロポリタン美術館の映像にWilliam Dieterleの『ジェニーの肖像』(1948)の冒頭のナレーションが被さる。
ものすんごくベタなんですけど、絶対これ、ずっと狙っててやってみたかったんだろうなー。
(この時点でもうぜんぜんドキュメンタリーのかんじじゃない)
Jonas Mekasとの対話のとこはカメラが緊張しているようで微笑ましい。 お話しのあと、ふたりが別れた地点は1st Aveの2nd stのとこ。メカス先生はそのまま職場(Anthology Film Archives)に向かったのではないかと。

アジアでも、南米のどこの都市に行っても、広場でキリストの支配(ヘロデ、サマリア、箱舟、などなど)を熱烈に説く人々がいる。
他にもいろんな忌わしい過去(大抵が植民地やテロリストによる支配)の話をする人たちに出会うのだが、このキリストの人たちはどこでも必ず現れて、大声で怒鳴りまくっている。
で、これが旅の最後のほうでイスラエルに到達して、ああそういうことね、とわかるのだが、じゃあ、と肝心のそのキリスト現場みたいなとこに行ってみても、そこにいるのは言葉の通じないガキだけだった、と。 (ここは笑ってあげてよい箇所だとおもう)

映画祭でのQ&Aセッションのシーンも少しだけ出てきて、そこでは必ず「ドキュメンタリーとフィクションの境界は?」みたいな質問が飛んでいる。 それにGuerínがどういう答えを返したのかは巧妙にオミットされていて、こいつー、てかんじなのだが、最後のヴェネツィアで登場するおばさん - Chantal Akerman - が、大声で「そんなのどっちだっていいのよ」なんて言ってざーっと流してしまう….
Chantal Akerman、こんなひとだったのかー。

例えば、この手のドキュメンタリーに求められがちの、対象にぐいぐい迫って何かを引き出してくるような押しの強さは感じられなくて、こっそり聞き出したお話しを後からこちょこちょ繋いで練りあげる"Guest"の慎ましやかな態度が印象に残る。
で、それでもそこにはモノクロ画面の構図の見事な美しさと、そこに映しだされる人々の強さ - 『工事中』もそうだったけど、そういうのを拾いあげてくる眼の確かさみたいのがあるの。 
コロンビアのカリの、ほんとは110歳なのに100歳だと言い張るお婆さんにしても、ハバナの集合住宅のおじさんおばさん達にしても、マカオのおじいさんにしても、みんなほんとに素敵な佇まいで、これならキリスト来なくてもいいよ、とか思ってしまうのだった。

そういえば、ここで撮られた土地って、みんな『工事中』の範疇に入ると言ってもおかしくないのだな、ということに気付いて、更に、ここで撮られた素材はそれ自体が工事中のなにかとなって次の『メカス×ゲリン 往復書簡』 - ここでの対話はもはやGuestではありえない - に転がっていくの。

南米に行かなくなって10年以上になるのだが、もういっかい行きたいなー。

あと、『ジェニーの肖像』も、久しぶりに見たい。

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