1.23.2017

[film] この世界の片隅に (2016)

9日の月曜日のごご、渋谷でみました。

公開されたときからユーロスペースがずっとぱんぱんなのは知ってて、インディペンデントのは基本支持するし、もういっこのメガヒットしたアニメは主題歌が気持ちわるすぎて見る気になれないし、まだキネ旬の一位は報じられてなかったし、とにかく言い訳しないこと。  原作の漫画は読んでいない。

昭和00年代、絵を描くのが大好きな広島のすずの子供時代から始まって、昭和19年に突然のお見合いで呉のおうちに嫁いで、山だか丘だかの斜面にある小さな一軒家に暮らして、夫の両親とか出戻りの義姉とか小さな姪とかとじたばた朗らかに暮らすのだが、戦況の悪化に伴い物資は不足して、空襲が頻繁に来るようになって、そのうち地中の爆弾で自身の右腕と姪を失って、もうどうにもならなくなってきたので広島に帰ろうとしていたところで原爆が。

顔もきちんと見れないくらいよく知らない相手のところに嫁いだ先でのいろんなストレスに戦時の物資・食糧難が加わって、ほんとにきりきりしんどいだろうにすずはいっつも笑っていて、それをとりたて偉いふうには描いていなくて、それは皆が総動員で大変でそうだったのだとか、あの時分の日本人はとか、そんな変なほうには行かないの。 よくある日々のスケッチとして軽く流している。
空に浮かんだ爆弾の煙雲を見てああ絵に描きたいと思ってしまうのとおなじことで、それは不謹慎、とかそういうのではないの。そういうふうに流れていった当時のいろんな人たちの意識のありようとかその流れとか、空気感をふんわり掴むのに漫画というメディアはとてもよくはまっていて、このアニメーションもおそらくそうなのだろうな、と。

一方にそういう流れを置いて、他方にそれを軽々蹂躙し、なぎ倒し、押し潰していく戦争の暴力を置いて、それは当然のようにすずの右手どころでは済まない災いをもたらして、牧歌的なアニメーションの描写とのギャップ以上に/以前に相当に残虐で過酷で、それは「野火」と同じくらいのぐじゃぐじゃの災禍、と言ってよいのではないか。(そんなの比べたってしょうがないけど)

すずが当時の町の風景や生活や人々を絵筆で活写する、そうしてそれらを描き続けようとしたところで彼女の右手は失われてしまう、その残酷さときたらものすごいし、彼女も底の底まで悲しむのだがそれでも彼女は世界の片隅でわたしを見つけてくれてありがとう、ていうの。  この流れはあっても別におかしくないのだが、ひょっとして「おしん」的な文脈 - 耐え難きを耐え - で受けとられているのだとしたらちょっと嫌かも。

この世界の片隅こそが世界のすべてであり、ここでの時間は現在にダイレクトに続いて繋がっているのだと、この絵の粒度であれば明確に突きつけることはできたはずだと思うのだが。
(Don Hertzfeldtだったらそんなの軽々と反転させてどん底に突き落としただろうな)

というわけで、昼寝しながら天井の木目を追ったりするとか、波にウサギを見たりとか、道端の草花とか、そういうのに反応したりしていた。

あと、広島はどのへんにあるのかわかるのだが、呉ってどこなんだろ? て思いながら見ていた。
けど致命的なもんだいにはならなかった。


RIP Jaki Liebezeit.
 "Mushroom" や "Halleluhwah”がなかったらさあ..  あーあ。 4月の。

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