1.03.2017

[film] はるねこ (2016)

29日、年末休みに入った日の晩、渋谷でみました。

トンネルを抜けて森のなかを進む白い車があって、運転しているのはその先のお店で店長と呼ばれている若い男(山本圭祐)で、そこには他に椅子に座ったおばあさん(りりィ)がいて、車に乗って運ばれてくるのは吃音のやくざだったり姉と弟だったり家族を殺した男だったりいろいろ、みんな既に死んでいるようなその覚悟したような人たちで、連れて来られた先では猫や被り物の人達とかが月夜の幻燈会をやったり演奏会をしたりじゃかじゃかやっていて、それでなにがどうなるわけでもなく、ひとはどこかからそこにやってきてそこからどこかに、すうっと消える。それだけ。

生と死、生きているひとは必ず死ぬことになっていて、その境目がどこからどう、とか、なんで? というのはあまり問題ではなくて、それぞれにいろんな状態とかありようがあって、それぞれがいろんな経緯変遷を経て彷徨いながら意識無意識のうちにトンネルを探したりその向こうを目指したりしているのだ、ということ、そんな右往左往したり留まったり舞ったりする生魂だの霊魂だのがあの山のあの辺りには大昔から吹き溜まっているんだ、ということ。

そういう設定そのものは宮沢賢治の昔から不思議でもなんでもないやつで、むしろみんななにかしらどこかで知っている。 その世界をまるごと、「がっしゃん、ドン。」(なにかとなにかがぶつかって、おちる)という音やネコのヒゲのちりちりした震えまで含めて音と映像の遠近や明暗に落としていく、そのなんでもぶっ込もうとする強い意思とそれに応えて森の奥からわーわー吹いてくる死者たちの声がぐじゃぐじゃに入り乱れてわけのわかんないものになっているかも知れないけど、これがすばらしい。
4トラックのカセットのデモ、ライブテープかもしれない、でもそこにぜんぶ詰まっててそれぞれの粒がみんな生きて鳴っている。

見てて思い起こしたのはダニエル・シュミットの『書かれた顔』 -  “Das geschriebene Gesicht” (1995) で、どこがどう似ているというのではないのだが、見た時の奥底を揺さぶられるかんじが。あの映画の大野一雄とこの映画の田中泯が踏みしめているものはとても近いところにあるなにかなのだと思った。

もうひとつはこういう生と死の相克のなかに「戦争」はどう位置づけられるのか、位置づけてしまってよいものなのか、でもほれ、死体はごろごろ転がってるんだよ既に、今も、至る所によ、わかってんのかおら、ていう店長の強い眼差し。

上映後に監督とプロデューサーによるバンド - Himalayan Spring Cats - のミニライブがあった。
監督自身による歌が素敵で、あー音楽のひとが作った映画なんだなー、というかんじが改めてきた。
そして青山プロデューサーが「聴いたことある人いるかも」と言って始めたのがBO GUMBOSの「最後にひとつ」で、思い出すのに時間かかったが、ああそうかー、どんとがいたら間違いなくこの映画のなかにいたよね、って。(ひょっとしたらどこかに映っているのかも)

でも、また会いたいよう、なひとがいっぱい映っていてほしい映画、ていうのとは違うかも。

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