4.16.2016

[film] O Menino e o Mundo (2013)

27日のごぜん、渋谷でみました。
『父を探して』 英語題は”The Boy and The World”。 『母よ、』の翌日は『父』、と。

ブラジルのアニメーション、くらいしか知らなかった。あと、Naná Vasconcelos追悼と。

単純な線と面と色だけの世界でぴーひょろ~みたいな音が鳴っていて、登場人物の喋る言葉は言葉としては聞こえなくて(ポルトガル語を逆回転させているらしい)、壁や広告の文字も全て倒立したりコラージュされていたり判読不能で、要するに虫が見たような世界 or 我々が見た虫の世界、のように倒立/反転していて、ぺらぺらの一軒家に父(仮)と母(仮)、その息子と思われる少年(仮)がいて、父(仮)はぴーひゃらの音と共に突然いなくなってしまって、少年は父(仮)を探して旅にでるの。

ただ、言葉のない世界だからこれらはすべてきちんと説明されたわけではなくて、ただの線でしかない目とか首の傾きとかからそうなんだろうなー、と推測できるたけのことでしかないのだが、父が消えてしまった世界とそれまで見たことのなかった世界はやたらカラフルで美しくて寂しそうで怖そうで、要するにいろんなの色とか線とか形 - それ自体は意味を持たない - の坩堝としての「世界」として目の前に広がっている。

やがて少年は野を超え山を超え町に出て路上ミュージシャンに拾われたり工場に行ったり支配層を知ったり、いろんなことを、「世界」を、経験してそのなかにいるはずの「父」の面影を求めて彷徨って、そういうのが延々地続きで続いていって、そういう際限のない広がりの期待と不安を同時にいっぺんに表わすのにアニメーションはすばらしい道具だなあ、ておもった。

例えば、2月にみた”World of Tomorrow” (2015)のエミリー。 クローンエミリーがエミリーを探して227年を遡ってくるぺらぺらの世界の、会話にならない会話の不思議な生々しさ。
あるいは、”The Little Prince” (2015) - なんで米国公開止めちゃったの? - の女の子。あれも父のいない女の子が父のような老飛行機乗りに出会って、ほんとうの世界を渡って大人の世界を知っていくお話しだった。

こうやって並べてみると自分がアニメーションに求めているのがどういうものなのか、よくわかるねえ。

あとは、Naná Vasconcelosの世界の至るところがざわざわ震えて鳴っているかのような音風景。
クレーの絵の裏側でいろんな太鼓がばちばち沸騰している、ていうのが全体の印象だった。

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