4.27.2016

[film] L'albero degli zoccoli (1978)

3日の日曜日の昼、神保町でみました。
『木靴の樹』。 英語題は”The Tree of Wooden Clogs”。

最初の公開のとき、あちこちでたいへん評判がよかったことは憶えているのだが、見るのは今回がはじめて。
あの頃の岩波ホールのイメージって、難しそうなおじいさんとかが難しそうな顔して見ているかんじしかなくてハードル高くて、そんななかで3時間の木靴の映画なんて見る勇気もお金もなかったの。

19世紀末、イタリアのロンバルディ地方の農村地帯で、教会の神父さんが夫婦の息子を学校に通わせるように説得していて、夫婦はもうじき次の子も生まれるし、とかぶつぶつ言いながらもそれに従うことにする、ていうのが冒頭で、同じ地主の敷地内の長屋のような家屋に暮らす四つの大家族の四季のあれこれを静かに追う。

静か、ていうのはどういうことかというと、四つの家族はそれぞれに農作業をしてその収穫を地主に(たまにズルしたりしつつ)納め、それ以外にトマトを工夫して売りに行ったり子供を産んだり育てたり恋をして結婚したり、教会に行ったり洗濯屋さんにいったり、冬に備えて豚(でっかいー)を屠ったり、ここで描かれる農村の家族の生活はどこまでも平坦でその動きが時間を止めたり遅くしたりすることなく、雇い主である地主の要求に反抗することもへつらうこともなく、ただただ生活のなかのいろんなことをするために時間は流れて、季節の時間の流れのなかに生活は全部あって、その時間のありよう - 無為、みたいなかんじ - はいまの時代の我々にもとてもよくわかる。

唯一、毎日村から歩いて学校に通う坊やの靴が壊れたからと道端の樹を勝手に切って木靴を作ってあげたら、それが地主にばれてその一家はラストで長屋を出ていくことになる、ていうのが事件らしい事件なのと、村で結婚式を挙げたふたりがハネムーンで町に出るとそこは市民運動みたいのでざわざわしているのと、これらによって村と町の間にある線、村の暮らしのなかの厳格な支配/被支配の一線が浮きあがるのだが、だからといって農民の暮らしがどう変わるということでもなく、それは歴史の時間から取り残された、というのとも違って、なんというか、矢野顕子の「ごはんができたよ」の世界があって、とっても泣きたくなる。

あと、誰もが言うことだろうけど、バルビゾン派の絵画の世界がそのまま動いているかのような映像の驚異 - あれをごく簡単そうに撮ってしまっているすごさ(もうちょっとクリアだったらなー)。

「緑はよみがえる」も見ないと。

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