2.17.2015

[film] Girlhood (2014)

6日の金曜日、最後のいちんち、午前で仕事がおわる予定で、おわる予定で、おわれおわれ、て朝からずうっと念じていて、でもなかなか終らなくて鼻血がでそうで、Lincoln Centerの1:45の上映にぎりぎりですべりこんだ。 これがだめだったらこの後の予定が全部ひっくり返るところじゃった。

というような際どい予定を組むのはよくないこと。

仏語原題は”Bande de filles”。監督のCéline Sciammaさんは80年生まれで、評判のよかった”Tomboy”(未見)を撮ったひと。 “Boyhood”を見たんだから”Girlhood”も見なきゃね、程度だったが、いやー、すばらしくよかった。

冒頭、女の子アメフトのチームが試合してて、それが終って、夕闇のなかわいわい帰る女子の一団からひとりひとりと抜けていってMarieme (Karidja Touré)がひとりおうち(郊外の団地)に帰ると妹とか兄とかがいるものの、全体としてはどんよりどん詰まりで自分の場所はあまりない。 やがて彼女は近所で野良猫みたいにたむろしていた3人の女の子組とつるむようになって”Vic”ていう名前をもらって、パリに遊びに出たり、部屋を借り切って夜通し騒いだりする。 近所にBFができたり、敵対グループの娘と喧嘩したり、ドラッグの運び屋みたいなことやったり、でもだからといって一人前とか、大人とかになったかんじはしない。

話しの区切り区切りで画面が暗転して、その後でモードが切り替わったMariemeが向こうに歩いていくのを見て驚いたりどきどきしたりするのだが、でも彼女は彼女で、無言で仏頂面でじっとなにかを見つめ、考えていて、でもなに考えているのかはわからない。  殆ど感情や苛立ちを表に出さない彼女が唯一エモを曝すのが仲間といるときに「あのときさあ、楽しかったよね…」てぼそっと言うとこで、なんかいいの。

画面の緊張感と彼女の仏頂面が強いので、はらはらしっぱなしなのだが、ものすごく野蛮な事件とか過酷な仕打ちとか喪失とか罰とか傷とか流血とか、そういうのは表には出てこなくて、裏ではあるのかもしれないけど、それは誰にだってあるよね、程度のもので、いつもMariemeはひとり超然としていて、かっこいいの。
親もあんま関係ない、友達も薄い、けどそれがなにか?

ラストのMariemeの横顔の清々しさ美しさときたら、とんでもなかった。

“Boyhood”にもあった、大人になるってどういうことなのか、いったいなにが変わるのか(醒)、というテーマが静かに控えめに反復されて、その答えをどこにも、誰にも求めないところも似ていて、そこいくと(予告でしか見たことし、見たくもないけど)最近の女の子が出てくる邦画のヒステリックなやかましさ、音がびっちり詰まったうっとおしさときたら、なんなんだろうか、て改めて思うのだった。

あと、"Boyhood"を見たときにも思ったのだったが、例えばこれらの"Hood"と、例えば"The Breakfast Club"(祝30周年!)の"Club"とは、そこに描かれた少年と少女の像は、どこが違うのか同じなのか。 もちろん、違うに決まっているのだけど、例えば彼らの眼差し、とか、さ。

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