2.23.2013

[film] Cockfighter (1974)

13日水曜日の晩、そろそろ終わっちゃうから、ということで見ました。
数年前に出たDVDは買っていたものの、そういえば見ていなかったことに気づいたし。

闘鶏の映画で、闘鶏ていうのは、鶏の足に刃物を括りつけて1対1でどっちかが死ぬまで闘わせてそれを賭けのネタにする。鶏を抱えて土地を渡ってそれを生活の糧、人生の糧にしているのが主人公で、鶏も必死だが主人公も必死で、でも世の中の大多数の人にとっては所詮賭け事でしかなくて、その(鶏に対する)残酷描写ゆえに、英国とかでは未だに上映が禁止されている。 病床のモリシーにこれ見せたらまちがいなく再起不能になる。

残酷いうならキツネ狩りはどうだ、とか狩り全般だめだろ、とか、屠殺は、クジラは、銃規制は、とかわけのわかんない方向に行ってしまいがちで、この映画jはそういう倫理だのなんだのから離れたところで、闘鶏に溺れて、それを生活のベースにしているおじさん(ウォーレン・オーツ)の日々とその周りのやはりちょっと変な人たちを淡々と追っている。

Two-Lane Blacktop - 『断絶』の主人公達がまったく相容れることのないまま別々のレーンをびゅーんて走っていったのと同じようにこのおじさんの人生や世界観と我々のそれが交錯することはたぶん、ない、けど、ポイントはそこにはなくて、関わることはないけど、まちがいなくおじさんはそこにいて笑っている - あのなんとも言えない笑顔で、ということなの。  コミュニケーションとかダイバーシティとか、そういう難しい話を持ちだす必要はなくて、世界の繋がりとか接点とか中心とか周辺とか、そういうことを考えようとした時に、ここに描かれたような鶏を闘わせてお金を稼ぐような人たちは間違いなくそこにいるの。 どんなふうに? こんなふうに、さ。

音楽を聴くとき、映画を見るとき、その向こう側に拡がっている世界を呼吸しようとする、そのときに頭にいれておかねばならない何やら大切なこと、がウォーレン・オーツの、なにを考えているのかわからないにやにや笑いの中にはあるのだと思う。
あるいは、"The Shooting "のジャック・ニコルソンの気味悪い笑顔、あるいは『断絶』のジェームズ・テイラーの不機嫌な顔、あるいは"Road to Nowhere"のヴェルマの眠っている死顔、あれらの顔、彼らの顔、その貌は、コミュニケーションの記号として読み解かれることよりも、映画の世界のトーンを、その世界の底知れなさをまずなによりも示してはいないか。

底が知れない、知る必要がない、知りようがない、という状態でそれでも映画館の暗闇のなかで彼らの顔に向かい合わされるときに湧きあがってくるお手あげのやばいかんじと、それゆえの気持ちよさ/わるさ。
道路を歩いていて、向こうから鶏を抱えたウォーレン・オーツが笑いながら(しかも無言で)こっちに寄ってきたら、どうするか?
世界は、道路は、そういうことがふつーに起こりうる場所で、われわれはそういう人たちと同じ地面の上にいて、見ているものは別かもしれないが、共に生きていかなければいけないのだ、ということをこの映画は示す。 たとえば。

そして、そういうことを教えてくれる、頭に風穴を開けてくれる映画がいまどれだけ貴重なことか。  闘鶏のプロも、『断絶』のようなことをやっている連中も、まだきっとそのへんにはいるはずなのに。

あとはネストール・アルメンドロスのカメラとマイケル・フランクスの音楽。 70年代の淡い色調(服のぽわんとした赤と青)と砂のように流れていく音の粒と。 闘鶏の野蛮さ、羽音、鳴き声にこれらが重なり合うことで生まれてくるイメージの強さ、新しさ。
それに、例えば「異端」のラベルを貼って横に置いて見ないことにしてしまうのはほんとにもったいないよ。

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