8.29.2011

[film] 鉄砲玉の美学 (1973)

土曜日は半分仕事で、終ってからアテネのハルーン・ファロッキ特集に行くつもりだったのだが、思っていたよか早く終ってしまったのと、なんかあたま使いたくなかったので、久々にシネマヴェーラに行った。

特集『中島貞夫 狂犬の倫理』。 初日、トークがあるせいかすんごく混んでいた。

『くノ一忍法』(1964)
徳川の攻めにあって落城寸前のお城で真田雪村から5人の女忍者に指令がくだされて、子供ができない千姫に代わって豊臣秀頼の子種を受けてなんとしてもそれを守れ、豊臣の血を絶やしてはならぬ、と。
こんなのパワハラ&セクハラの極致じゃん、とか、よれよれの秀頼からどうやってよってたかって5人分搾りとったのか、とか、いろいろ思うところはあるのだが、お話しはそっから先の、それを察知した徳川が差し向けた5人の伊賀忍者(全部男)とのぐさぐさのやりあいがメインなの。

攻める男忍者と守る女忍者、やや(遺伝子)のTransporterとしての女忍者、という構図設定なので、だれがどうみても差しつ差されつ、みたいになっていくのだが、まあとにかくおもしろい。 
映画、というよか原作の山田風太郎がえらいのかもしれんが、よくもあんなの思いつくよね。 菩薩みたらへろへろそのまま無間地獄行きとか、いったんさしたら体液をぜんぶ搾りとってしまう(なのに死なない)、とか、さしこんだら抜けなくなる、とか。 あとは、胎児の別の人体へのTransport、とか。男にも移してたから子宮ごと可、ってことだよね。 すごいねえ、どうやってやるんだろ。

基本はどっちかがどっちかをめろめろにした時点で、あとは殺るか殺られるか、なにごとも最初のメンチ切りがかんじん、ということのようだ。

あと、最後のほうで出てきたピンクの毒ガスみたいなやつ、あれ、おならじゃないよね。 ねんのため。

約400年前にあったX-Men同士の死闘。 修行とかどうやったんだろうねえ。


『鉄砲玉の美学』(1973)
かっこいいタイトル(監督が自分でつけたのだという)。本特集のタイトル『狂犬の論理』とおなじく、美学がありえないところに、論理が成り立たないところに、あえてそれを見出し、組立てようとする、映画というのはそういう無謀な試みなんである、と。

冒頭、頭脳警察の「ふざけんじゃねえよ」のぱんぱんにつまったモノラルのギターカッティング(すんごくよい)にのって、鉄砲玉指名された渡瀬恒彦がいきがって強がって、でも狙ったところには届かずに、ただの流れ弾(しかも当たらない、捨て弾)になってしまう様を、その流れ弾の軌跡そのものにフォーカスして描いたような作品。

鉄砲玉、という上からの役割期待に応えられなかった、失敗した、という話ではなくて、与えられたピストルと100万円で完全に舞いあがって、とんでもない方向に銃口を向けて自滅してしまう、とほほなお話し、でも、それでも彼は彼なりに神の地を目指そうとしたんだ、という。

宮崎まで行って小規模に暴れまくる主人公との対比で、アパートの部屋でラーメンばっかり食べながら待つ女と、キャベツをもふもふ食べまくり、でっかくなっていくウサギ達が描かれ、結局のところ君の居場所はここで、無心にキャベツでも食べていればよかったんだよ、というところに落ちつくかに見えて、でも、ふざけんじゃねえよ、キャベツだっておいしいし、ウサギにだって牙はあるし、走れば速いんだよ、と目玉をひんむいてあさっての方角に突っ走る。

鉄砲玉とかちんぴらとか、或いはそれらの美学 - 特定のイメージにむかって落ちついていくことを終始カメラは許さず、また渡瀬恒彦のせっぱつまった過剰さがそのカメラをぐいぐい引っ張っていく。 その引っ張り具合がそこらのやくざ映画とは全然ちがう、青春映画にしかありえないテンションと、結果としてそういう血の赤をスクリーンの上に映しだしている(廃車置き場の血はいちぶほんもの、とか)

そういえば、”Super”もウサギだった。 この主人公がそのままおやじになると、"Super"みたいのになる、のかもしれない。 とすれば、ウサギだってじゅうぶん危険獣なのよね。

上映後のトークは、おもしろかったねえ。
映画の話は、和やかすぎてこちらが引いてしまうくらいで、とても楽しかったが、飛び入りしたパンタさんの、映像が出来ていなかったので鉄砲玉とはなにか、だけ聞いて曲作ったとか、頭脳警察ではじめて詞がレコ倫通ったのはこれ、とか、そのへんがふーん、だった。

あと、霧島って、島じゃなくて山だったのか、というのが個人的にはまじでしょうげきだった。


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