6.29.2011

[film] 東京公園 (2011)

金曜日の晩、例によってへろへろのまま新宿に出て、みました。

これだぁー、みたいな鮮やかな何かが現れて残る、というよりもいろんな考えが日々ぽこぽこ浮かんでは消える、それが未だに続いている。 
そんなふうにして作られていったのかもしれない、とか思うし、朝の15分ドラマのように、公園のお散歩みたいに、ちょっとづづ見ていってもよいものかも。

したがって、以下は今の時点のあれこれ、ということで。

暴力なし、喧嘩なし、流血なし、病気なし、修羅場なし、ゾンビあり、みたいな。 
希望とか癒しとかは、あってほしいのかもしれないが、たぶんない。 なくてもいい。

写真家になりたいと思っている男の子=光司がいて、公園で家族写真を撮るのが好きで、そうやっているある日、公園を散歩する一組の母子の写真を撮って送る、というバイトを頼まれる。公園の名前は日々指示するからそこに行って、探して、撮れ、と。 
彼のアパートには同居人がいて、でもその姿はその同居人の元カノである富永からは見えなくて、どうもそいつはこの世にはいないらしい。
彼には血の繋がっていない姉がいる。
彼の母はもういなくて、彼はカメラマンだったらしい母の使っていたカメラを使う。
公園で尾行する対象の女性は亡き母にそっくり、ということを後で富永に指摘される。マザコン!と。

いろんな関係(みんなそれぞれちょっとずつ傷ついている - ごくあたりまえに)のハブとしてある彼(それはそんな珍しいことでもない、ごく普通に)の目はいつもファインダーのなかにあって、ファインダーを通して世界を見ているようで、その目が正面からとらえられることはなくて、たまにその後ろ頭を富永にどつかれたりしていて、そうしていくうちに、そのハブはぐんにゃりと、アンモナイトの渦のようなものに巻きとられていく。 
或いは、穏やかな渦のようなものがあることに、ぼんやりと気づく。

そんなふうにして、カメラを通そうが通すまいが、この世(含.この世からみたあの世)には、複数の存在と時間と目線の狭間で/に、決して越えられない溝とか境界とか河とかがあるのだ、ということを、けじめ、のようなものがある、ということを、それと同じように、それであっても、たったひとつの眼差し、たったひとつのキスで、ひょい、と超えられるなにかもある(のかもよ)、ということを、学ぶ。

いや、学んだかどうかは映画のなかではわからない、単に時間が少し過ぎただけ、なのかもしれなくて、でもその時間は複数の人たちとの間で共有されている時間でもあって、更にそれはひょっとしたらアンモナイトの渦に向かうなにか、なのかもしれない、とか。「サッド ヴァケイション」のしゃぼん玉のようななにか、かもしれない、とか。

もひとりの主人公は、バーのおかまのマスターに「いびつな娘」と言われてしまう富永でもあって、肉まんとケーキを一緒に食べてしまう酒飲みのシネフィルで、ホラー映画のなかにしか愛を見出せなかったりする。
彼女はロメロが最大限の愛を込めて描きだすところのゾンビそのもの(或いはあの、"Martin" (1977) みたいに孤独な)、というか、おそらくなくなってしまった元カレと生きている光司のあいだにゾンビのように入りこみたいのかも知れず、主人公の後ろ頭にぺしってかぶりついて、変容をうながすのだが、他方で自分の居場所を失って、結局光司の家の元カレの部屋に転がりこむ。 
それとか、金井美恵子の小説に出てくるませたガキ娘のかんじ。

そんな富永に背中を押されて義姉の部屋を光司が訪れるシーンはすさまじい。
ふたりですごいことをしたりするわけではなく、写真を撮ってパスタを作って食べてハグする、程度なのだが、この場面の、室内の光、音、ショット、すべてが驚異的な密度と緊張感と針の穴を通すかのような決定的瞬間のドミノ倒しで、コトが起こるていうのはこういうこと、それをフィルムに撮るというのはこういうことなのだなあ、と。

あと、風景もすごい。 タイトルに「東京」がつくのに東京らしい光景といったら変なスペースのパーティのとこくらいで、あとは公園と、海。 でもこの海がほんとに堂々としててすごいんだよ。
「こおろぎ」でも海はすごかったし、「サッド ヴァケイション」でも海(と橋)は圧倒的だったし、大画面でみるといつもびっくりする。 音はいうまでもなく。

監督はいやがると思うが、”The Tree of Life”とどこかしら似ている。 
でも木よりも公園のがでっかくてえらいんだよね。

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