7.26.2015

[film] Inside Out (2015)

20日の月曜日、アントワーヌ2本の後に六本木に移動して、見ました。

まず最初に、来ると言われて覚悟していた日本語版主題歌?のPV? が来たので目を瞑って耐えた。ヘッドホンをしようとも思ったがそこまでするのは面倒だった。 怖いもの見たさで薄眼を開けてみたら、おなじみ「しあわせ」を強要する生命保険会社のCMのようだった。 始まって、いつもは楽しみのはずのPixarのおまけ短編も、変てこすぎてなんだこりゃ? だった。古びた火山のようにどんくさい奴の結婚式とかで流してからかう用のビデオ、かしらん。 などなど、本編にたどり着くまでに相当うんざりぐったりで、でも耐えた。 よくがんばった。

女の子ライリーが生まれて、その心に感情が芽生えて、やさしい両親の元、すくすく育つのだが家族はミネソタからサンフランシスコに引越して、でも初日からトラブル続きでみんなぐったりで、転校した先でついいろんなことが噴出しちゃってライリーは。

ライリーのお育ち、家族との関係、転校を含めた環境とのあれこれに特に変なとこはないし事故も事件も起こらない、誰にでもありそう、思い起こせそうなことばかり。 特徴的なのはそのときどきのライリーのリアクションを司る感情たちにフォーカスしたところ、つまり複数の感情 - Joy, Sadness, Fear, Anger, Disgust - の連携といくつかのお気に入りの柱と沢山の思い出の粒つぶとかが、彼女の情動・挙動を決めているのだと。

ライリーが泣いたり落ちこんだりパニック起こしたりしているとき、彼女の頭の中では一体何が起こっているのか、をエモや記憶を使って戯画化してみるときっとこんなふう。 風邪ひいたり下痢したりしたときの体内のメカニズムを漫画にしたのがよくあったけど、ああいうやつ。

児童心理学とか発達心理学周りでそれなりのリサーチはしたんだろうし、その正しさについて云々するつもりはないけど、でもそもそも、人の頭と身体は、あんなふうに中央に司令塔があってそこからコマンド出したりしてアンドロイドみたいに動くもんなのか?  そんな簡単なわけねえじゃろ。

でも、というわけで、JoyやSadnessが走り回ってがんばって、ライリーは持ちこたえて、ご機嫌も戻るのだが、そこにはなんのマジックも感動もないの。 頭のなかがこうなって、こうしたから、こうなった、よかったねえ。 以上。

例えば、”Toy Story 3”が、なんであんなに感動的だったのかというと、子供を喜ばせるのが使命であるおもちゃ達が、成長とか時間の経過とかどうすることもできないのを知りつつも、自らの機能不全を省みず、渾身の力と想いで(かつての)子供達のなにかを呼び覚まし微笑ませようとしているところにあったの。 同じようにこの作品でも、ビンボンのとこだけちょっとかなしいけど、それだけ。
(でもビンボンみたいなやつ、いたし、忘れてないよ)

子供が悲しんでむっつりしているとき、SadnessやFearが裏でなんかやっているのかもしれないけど、そのときにやるべきことは、Joyがんばれーとかじゃなくて、単に傍に寄って目を見て話しかけてあげる、それだけでよいと思うし、そんなの声に出していうほど大変なことでもないよね。

わたしはSNLの長年のファンなので、彼らが作りあげてきたギャグの文脈のなかでああいう冗談エモ戦隊モノ、みたいのを出してきたのはよくわかるし、プラグマティックなアメリカ人がこれに乗ってくるのもわかる。 けど、冒頭のPVとかきもいTV CMとか昨今にっぽんの伝統家族回帰傾向とか、ああいう文脈に置いてしまうと、途端に奇怪なグロいものになってしまう。 にっぽん人はああいうメカニズムとかシステムをほんと自分に都合よく解釈して押しつけようとするから。

でも、頭の中でAmy PoehlerやBill HaderやMindy Kalingみたいな連中がじたばたわーわーしてる、ていうのを想像するのは悪くないよね。

これの黒い大人版をつくればいいのに。ウソとかミエとかエロとかシットとかズルとかメーテーとかSとかMとかが出てくるやつ。(誰も見たくないか)

それにしてもあっついねえ。

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