3.15.2015

[film] American Sniper (2014)

7日の土曜日、日仏で「アッシャー家…」の後に日本橋に移動してみました。
あのままエプスタインの「二重の愛」を見るべきだったかー、と今となってはおもうー。

のんきにロデオのカウボーイになろうとしていたChris Kyle (Bradley Cooper)は、98年のナイロビの大使館爆破や911でアメリカ人がいっぱい死んじゃったのを見て、俺が守る、って志願してNavy SEALに入り狙撃手になって撃ちまくり殺しまくって数えきれないアメリカ兵の命を救いました。 でも引退してPTSDの若者を救おうとしたらこんどは自分が殺されてしまいました。  ていう実話。

戦争というのは国と国が勝ち負けを決めること、ではなく人と人が殺しあうことなのだ、人を殺すというのはすごい遠くからの銃弾いっぱつで、鹿や獣を撃つように仕留めること、などなどを具体的に教えてくれる。

でも、彼が殺すのは相手がアメリカ軍の兵士達を殺そうとしたからで、でも、なぜ相手がそれをやろうとしたかというと、過去にアメリカにひどいことをされた(という記憶を他国側は共有している)から、というそこまでの経緯や背景は描かれていない。 こっちに危害を加えようとしている相手 - 顔が見えなくても、それが大人でも女でも子供でも - を認識したら自分の判断でそこ目がけて銃弾を撃ちこむ、という米軍のアクションが描かれるのみ。  暗がりから現れるゾンビとか怪物を倒すとポイントを貰えるソーシャルゲームに近いかんじ(やったことないけど)。

「硫黄島からの手紙」(2006)も頭がふっとんだり自害したり死にきれなかったり、兵士それぞれのあらゆる生と死のヴァリエーションをいっぱい並べて可能なかぎり「国」から遠ざかろうとすることで、そこに否応なく横たわる「国」のありようをグロテスクに浮かび上がらせていた。 けど、あの映画がどこか遠くの、もう誰もいない島で、合衆国国旗を立てた兵士たちの肖像、かつては友好関係にあった両国、などなどと共に、全体がまるで大昔の神話のような不条理のなかに浮かんでいたのに対し、この映画のアメリカはどこまでも孤絶していて内側で閉じていて、あまりに遠くて、そこで見えているもの見えなくなっているものの境界ばかりが際立っていて、その荒涼とした恐ろしさときたらすごい。 160人+を殺すことでアメリカ兵数千人の命を救って国のヒーローになりました、って、どういう算数だよ。

という見方もあるのだろうが、たぶん大多数 - 動員記録を作った原動力 - は共和党の思うツボみたいなところに落ちていくに違いなくて、それはイーストウッド信者がどれだけそういう映画じゃないと力説したところでどうしようもない。 それは「じゃあいったい何ができるというのか?」とか「自分の身内が攻撃されても黙って見ているのか?」とかお決まりの(彼ら得意の)誘導の中に消えていってしまうのだろう。

2050年の映画史でこの映画はどんなところにいるのかしら。 自分はまちがいなく死んでるけど。

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