4.22.2022

[film] Outrage (1950)

4月16日、土曜日の晩、シネマヴェーラの特集『アメリカ映画史上の女性先駆者たち』で見ました。『暴行』。

こないだの国立映画アーカイブの『フランス映画を作った女性監督たち―放浪と抵抗の軌跡』(4つしか見れなかったよう)と並べて – 更にこれからのMati DiopやChantal Akermanの特集と並べて - できる限り見た方がいい。女性だから、というと「女性」だから何が違うねん、て絡んでくる人がいそうだけど、女性であるが故に見過ごされたり正しく評価されてこなかった過去の文化的な背景や経緯があった(それは映画の世界だけではない)ことはどうやら事実のようなので、それらを踏まえた上で見て(見直して)みるときっと、絶対おもしろいものが見えてくるし、そこからなんでこういうのを知らなかった/知らないできたのだろう、ってなる – これは映画が好きな人であれば、やってみて。(まあそれでも見ないひとはぜったい見ないよね) そーしーてー早く全14時間のドキュメンタリー - ”Women Make Film” (2018)をこの国でも見れるようにして。

さて、シネマヴェーラの特集ではアメリカ映画の初期に活躍した5人の映画監督をピックアップしていて、うちAlice Guy(の短編集)だけはNFAJのフランス特集のと両方に登場する - この辺は夏に公開されるらしい彼女のドキュメンタリーを見てほしい(いろいろびっくりするよ)。

そしてこの5人のなかで、Ida Lupinoだけは20世紀の生まれで、他の4人の「開拓者」のイメージとはやや異なって、はじめの49年の”Not Wanted”の頃から近代のアメリカにおいて「女性」であることとは、というテーマやその周囲を行き交う視線を - そこで語られる物語を超えて - 意識的に捕まえて語ろうとした人、という気がしている。

冒頭、夜の人気のない通りを何かに追われて必死の形相で逃げていく女性の姿が描かれる。彼女はこの後にどうなってしまったのか – という映画。ここでなにかがフラッシュバックしてしまった人は無理に見なくてよいからー。

会社で会計係をしているAnn Walton (Mala Powers)は朝の売店で、嫌なかんじの店員に絡まれつつも二人分のランチを買って、いつものように恋人のJimと一緒に食べて、やっぱり結婚しようか、ってAnnの両親に彼を紹介して、幸せいっぱいのはずだった。 のだが残業して帰る途中で誰かに追われて夢中で逃げて(冒頭のシーン)、傍にあった車のクラクションを鳴らすのだが逃げられずにレイプされてしまう。どんなふうにされたのか、どうやって帰ったのかは一切描写されず、彼女の記憶に残っているのは犯人の喉元の傷跡だけ。 少し回復して警察で喉元に傷のある男たちを並べられて憶えのある奴はいるか? と聞かれてもパニックに襲われるだけ。

家族もJimも優しく介抱してくれるのだが、会社に戻っても町を歩いているだけでも自分のことを噂されたり好奇の目で見られている気がするし、なにを言われても、将来のことを考えるのも辛くて、飛び降りるようにLA行きの片道切符を買ってバスに乗りこんで、でも休憩で立ち寄ったダイナーで自分に捜索願が出ていることを知ってパニックになり、外に出れば足を挫いて、地元の牧師のBruce Ferguson (Tod Andrews)に助けられる。

BruceはAnnの様子からなにかを察したのか警察にも通報せず、寝泊りする家とオレンジ収穫のバイトを紹介してくれて、そのうちそこの簿記も手伝えるようになって馴染みはじめるのだが、村祭りの日、やや強引にキスを迫ってきた男をレンチでぶん殴って殺しかけたので、彼女は捕まってしまう。

加害者- Ann側と被害者側だけの簡易な裁判が開かれてAnnの弁護に立ったBruceは彼女の過去のトラウマに触れて、彼女をそこまで追い込んでしまったのは我々 - 帰還兵でもあった犯人も含めて - 我々こそが加害者なのだ、と訴えて、判決は彼女に一年間療養してもらって様子を見よう、ということになる。

襲われた人の傷は決して消えないし癒えない、共感や同一化によって克服できるものではない。その重さは傍にいる人や家族がどんなに親身に寄り添ってもわかって貰えるものではない - 終わりにAnnはBruceのところにいたい/実家には戻りたくない、ように見えるのにBruceは彼女を送りだして見送る – 今の彼にはそれしか/そこまでしかできない、と思ったのではないか。そしてこれは誰にとっても幸せな終わり方ではないの。「暴行」というのはそうして全ての人を最後まで傷つける。

おそらく、よく見た気がするドラマだと、Annの傷はBruceの献身的な介護と愛によって – その過程にいろんな困難や障害があるにせよ – 癒されて乗り越えてふたりは結ばれて、になる(or 情け容赦ない復讐か)のだろうが、この映画では決してそんなところには落ちない。そんな安易で甘い能天気な結末を(主に男の側 - 大多数の傍観者が)無意識に思い描いてしまうからこそレイプ犯罪はいつまでたってもなくならないのではないか、とか。

で、この部分 – ひとによっては冷たいと言うかもしれないある種の厳格さがIda Lupinoの作品を貫いている倫理 – のようにあって、その背後には彼女が女性として見てきた現実のグロテスクで過酷な世界がある。彼女のようなやり方で世界を切り取って物語として提示するひとはそれまでいなくて - ノワールの変種のように捉えられがちだけど、現実はノワールの数倍の闇に満ちている、と。 この切り取り方にフェミニズムという概念をはめるのに違和感はないの。

だからとにかく彼女の映画はひとりでも多くの人に見られてほしいし、女性作家による映画が見られるべき、って思うのもそういう理由によるの。 もちろん辛いテーマなので無理することはまったくない(念押し)。

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