4.18.2022

[film] 次郎長三国志 第八部 海道一の暴れん坊 (1954)

4月10日、日曜日の昼、神保町シアターの特集『映画で愉しむ―山本周五郎と時代小説の世界』で見ました。山本周五郎も時代小説もそんなの歳取ってからでええ、とか言っているうちに老人になってしまった。なにもかもどうしようもない..

でも、この東宝版の「次郎長三国志」は別で、2007年(たしか)にシネマヴェーラで見てぶっとんで以来、この後にもどこかで通しで再見して、でもDVDはパッケージが嫌なので買わず、バラで見るのは今回が初めて。エピソードとしてはこれが一番好きで、でも原作の村上元三の小説にはないエピソード - 石松(森繁久弥)を主役に置いたスピンオフで、なのにこれが一番おもしろいってどうなのか。

前作で亡くなった次郎長の女房お蝶と豚松(加東大介)の盛大に行われた法事に、百姓姿の大親分 - 身受山鎌太郎(志村喬)が子分も連れずに現れて香典として五両を置いていく。大親分にしては額が小さいので石松は勝手に二十両って書いて貼りだして、終わってから鎌太郎にいいもん見さしてもろうた、残りの十五両は借りじゃ、とか面倒な難癖をつけられてなんだこのじじいは、って。

その後に、石松は刀を讃岐の金比羅様へ納める旅にでるお使いを任され、酒も喧嘩もだめ、っていうのでふてくされるのだが、女はよいから ~ おめえに見つけられればな、とか散々からかわれて、みんなに見送られて一人旅を始める。ここまでは楽しく転がっていくのだが、途中で浜松の政五郎(水島道太郎)- 後の小政と出会って、夜の川辺で野宿するときに彼の女のことを聞かされて、そうかそんなによいものかー、って恋に恋してしまう。

金比羅様へのお使いを終えて、四国の女は情が厚いってよ、という言葉を胸に宿屋をあたるもののなんかいないようで、あーあってなったところでようやく「笑っていても泣いているようなうるんだ眼をした」夕顔(川合玉江)と出会って、旅立ちの、別れの朝に夕顔から手紙を貰って、法事の御礼に鎌太郎のところに行って会いたかった女性と出会えました、と言って夕顔の手紙を見せると鎌太郎の顔色が変わり、娘おみの(青山京子)にもそれを読ませて、こんな素敵な娘に出会ったというのにそのままのこのこ帰るつもりなのかこのあほんだら、こんなことがわからんようなアホは死んだほうがましじゃ - おれがぶった切ったるわ、とかまた絡まれて、おまえは夕顔と一緒になりたいんだな、って強引に意思を確認されると、おれは身受山だから、って夕顔の見受けに行ってしまう。

そうして帰り道、石松は幼馴染の小松村七五郎(山本廉)とお園(越路吹雪)夫婦の許に寄る途中、盆踊りの後の豪雨のなか難癖としか言いようのない騙討にあってしまうの。ここも現れたやくざに応対するお園の啖呵と槍捌きが痺れるくらいかっこいいのと、「おれは死なねえんだよ」って言いながらばさばさ斬りまくっていく石松の殺気が凄まじいったらない。

ほんもんの恋を知らなかった石松がそれを手にしたと思って舞いあがった途端に殺されてしまう – 過去のエピソードでは片目を斬られた途端に吃音が治り、今回斬られたところで塞がっていた片目が開眼する、という流れも含めて悲劇的なのだが、もともと政五郎と出会ったあたりからずっと夜が続いていく映画で - ノワールの暗さ、不吉さ、それゆえの儚い美しさへの希求も常にあって、そこに石松のなにも考えていないアホの明るさと底の抜けた劇物のような強さが絡んで、全体として異様な迫力をもたらしている。残酷といえばこれほど残酷な物語もないかも。

とにかく森繁久弥と越路吹雪がすごすぎるので、それだけでも。いまだにあの石松が死んだとは思えないくらい。

この全九部作をさー、ちゃんと4Kレストアして、二代目広沢虎造の浪曲にもちゃんとした英語の字幕をつけて、クロサワしか見てないくせに知ったふりをしている西欧人たちに叩きつけてやりたいなー。おまけに『鴛鴦歌合戦』(1939)もつけて。 BFIでは『鴛鴦歌合戦』がかかって、ふつうに受けていたから下地はあると思うのよ。Cool Japanて、これだと思うのになー。


ざあざあ雨のなか、おそらく6年ぶりくらいにアナログばか一代 −「おい、青山聴いてるか?!」を見てきた。どれもよかったけど、Neil Young & Danny Whittenの “Cinnamon Girl”とかQuicksilver Messenger Serviceの”Shady Grove”とか、よいのねえ。 やっぱしアナログだよね、とか。

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