4.20.2022

[film] Casting By (2012)

4月13日、水曜日の晩、イメージフォーラムで見ました。邦題は『キャスティング・ディレクター ハリウッドの顔を変えた女性』。なんで2012年のドキュメンタリーを今?.. って思うけどおもしろいのでまったく文句ない。

監督はTom Donahue。2012年のTorontoとNYFFで上映されてHBOでも2013年に放映されたもの。240名の関係者にインタビューして50数名が実際に喋っている。みんなMarionに感謝して、いま自分がこうしているのは彼女のおかげなのだ、という。

ハリウッドで”Casting Director”と呼ばれる役割、スタッフがどうして重要なのか、それはどんな経緯で生まれてきたものなのか、をこの分野のパイオニアであるMarion Dougherty (1923-2011)の足跡と功績を彼女と関わりのあった監督や俳優のインタビューを散りばめながら追っていく。まあとにかく出るわ出るわ - Martin Scorsese, Woody Allen, Robert Redford, Clint Eastwood, Al Pacino, Robert Duvall, Dustin Hoffman, Jon Voight, Christopher Walken - などなど。

彼女がCastingという作業の重要性を表にひっぱり出さなかったら、今我々が見ている映画の景色はぜんぜん違うものになっていたのかもしれない。彼女がいなかったらGlenn Close(『ガープの世界』(1982))もBette Midler(”Hawaii” (1966))もAl Pacino(”Me, Natalie” (1969))も映画の世界にはいなかったかもしれない。

ペンシルベニア州立大学を出て演劇をやったりした後、NYに出てBergdorf Goodmanでウィンドウディスプレイの仕事をした後に、友達に誘われて盛りあがりつつあったTVドラマのキャスティングの仕事を手伝うようになる。こうしてライブの一発撮りがふつうだったTVドラマ - ”Kraft Television Theatre” (1947-1958)や“Naked City” (1961-63)や  “Route 66” (1963-64)に、NYのActors Studioでメソッドを学んだ生きのよい俳優たち - James Deanとか - を送りこんで – あの俳優は誰だ? っていうのと同じようにあの俳優を見つけてきたのは誰だ? - って注目されて、どんどん仕事が入ってくるようになる。(IMDBで彼女がキャスティングした作品は81本、とでる)

映画を見る時、まず目に入り込んでくるのは個々の俳優の顔とか動きとか喋りとかで、ストーリーはその結果として見えてきたり形作られりするものなので、どんな人がその役のパートを演じているのか(そして我々はどこをどう見るのか)って、映画を見ていく上で実はすごく大事なことなのだなー、って当たり前のことを。バレエやオペラのレパートリーものだと、みんなが知っているキャラクターに嵌められたダンサーや歌手がそれをどう捌いたり乗りうつったりするのかが見るところで、この辺の目線の違いも含めていろいろ引き込まれる。もしXXがいなかったらこの映画は.. とかよく思ったりする(ちっとも意味ないの)けど、彼女がいなかったら間違いなく今我々が見ている映画のありようは変わっていた、はず。

でももちろん、彼女が脚本やプロットのどこをどう見て、キーとなる俳優のプロファイルや直接会った時のインパクトのどこをどう見て、そのマッチングとしてキャストを決めていくのか、その方法や奥義のようなものは開陳されない - 膨大なインデックスメモが出てくるくらい。それはNYの彼女のオフィスに集まった弟子のような女性たち - Woody Allenのキャスティングを手掛けてきたJuliet Taylorなど - についても同様で、その辺からなぜこの分野で活躍しているのは女性が多いのか? (彼女たちの他に男性のキャスティング・ディレクターとして登場するのは西海岸のLynn Stalmasterくらい) という問いに繋がり、更にはそこから「キャスティング・ディレクター」という映画の質を左右する(に決まっている)極めて重要な役割にも関わらず”Casting By xxxx”としかクレジットされてこなかった - 最初のうちはクレジットされることすらなかった - いまだにこの役割がオスカーの受賞対象からも外され続けている理不尽な状況にも言及されていく。

なぜキャスティング・ディレクターはきちんと認知されてこなかったのか? - 映画の監督はたったひとり、「監督」だからだ - でも撮影監督は監督って付いているしオスカーの対象にもなっているよね? - あくまで映画の最終的な責任を負うのは「監督」だからだ、って延々屁理屈をこねるディレクターズ・ギルドの総裁であるTaylor Hackford。こんなふうにのさばってしがみつく(なにに?)くそ野郎がオスカーをあんなしょうもないものにしているわけだな、とか。

映画監督や俳優たちがMarionにオスカーを! って散々言っても運動しても受け入れられないまま彼女は亡くなってしまうのだが、毎度のことながら、なんかなーって。これと同じようなの(同じように不当に無視され続けている/きた役割とか人とか)って他にもいっぱいあるはずで、ようやく公開されたヒルマ・アフ・クリントにしても、もうじき公開されるアリス・ギイのにしても、遅いわ(溜息)...

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