8.07.2015

[film] Chats Perchés (2004)

みーんなそそのかされちまうつーいついながされちまうけっきょくあつさでまいっちまうだれのせいそれはあれだなつのせい♪

というわけで会社やすんだ。 ふん。

1日の土曜日の昼、アテネフランセで見ました。
これで3週連続、土曜の昼間にアテネに通うことになってしまった。どれだけ異常な夏なんだか。

この週に行われた特集 ”Hommage à Chris Marker”。どれも見たかったのに平日の夕方なんて無理で、せめて土曜日くらいは、と。 
『笑う猫事件』 - 英語題は “The Case of the Grinning Cat”。
日本語字幕付きは初公開だそうだが、ナレーションは英語だった。

2001年の11月、911があって、まだ世界がぐったりしょんぼりしていた時代、人々が下を向くか、それに疲れてつい空を見上げてしまうことが多かったときに、そいつは突然パリの街に現れたの。 にー、て歯をみせて笑うでっかい黄色猫 - 「ムッシュ・シャ」の落書き。 建物の壁とか公園とかいろんな隅っことか端っこ、樹の幹にまで、気づいたらいろんなところにいる。リアル猫が常にそうであるように、どうやったのかいつのまにかぐんにゃりと隙間に入りこんでいる。 誰が描いた? とか、なんのために? なにを訴える? そんな問いを嘲笑うかのように、とにかくそこに笑う猫がいる、それってどういうこと? そこにはとっても重要ななにかがあるのではないか、と。

カメラはそんな落書き猫や地下鉄猫のボレロ、更には古今のいろんな猫 - チェシャ猫からトトロの猫バスまで - を追って、猫的実存を問いかけつつ、フランス大統領選、イラク戦争、スカーフ論争、様々な権力に抵抗する人々、Marie Trintignantを殺してしまったBertrand Cantat、滞在許可証のない移民のために戦った医師 - Léon Schwartzenberg などなどをメディアから切り取っていく。

どんどんヤンキーに暴力的に、やっちまえの世界に変貌していく荒んだいまの世の中に、猫がいること/いないことの意味 - そんなのあるわけねえだろ、と言いつつ思いつつ、いやいやでもでも、いるじゃん猫ほらそこに、ここに、って。

ネット上に猫が溢れかえる現代を10年前に予見していた作品で、なにを言いたいのかというと。
「戦争ではなく猫を」
ということに尽きるのだ。  SEALDsのデモでも言ってやれ。


上映後、門間貴志さんのレクチャー「マルケルの北朝鮮写真集」。

Chris Markerの中国訪問 - その成果は映画 - ”Dimanche à Pékin” (1956) - 北京の日曜日に記録されているが、その後の58年 - 朝鮮戦争休戦の5年後 - に仏中友好会議団のメンバーとして初めて訪問した北朝鮮を撮った写真集の紹介。

第一章の「顔」、第二章の「ふたりの孤児」などなど、そこに我々が知っている今の北朝鮮の姿はぜんぜんなくて、素でのどかで、写真そのものよりもかつての彼らと今の僕らのあいだになにがあったんだろう、あるんだろうー、の方につい想いが飛んでしまうのだった。 日本の昔の写真を見てもそうなんだけどね。 それってよいことなのかしら? どういうことなのかしら?

さっきの猫事件の猫もそうだけど、間違いなく何かを語っているし言ってきているし。
それについてなにかを想起する - こないだの哀悼的想起、でもいいけど、そういうことを目を瞑ってご先祖さまと共におもう季節としての夏。 暑さはいらないけど。

これのあと、渋谷に行ってBrianの映画みた。

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