8.17.2015

[film] 野火 (2014)

6日の木曜日、広島に原爆が落ちた日の晩、渋谷で見ました。

肺病持ちを理由に隊から弾かれた歩兵がその後も玉突きをされるようにしてジャングルを彷徨い、島の西側のパロンポンまで行けばそこからセブ島に渡れると聞いてパロンポンを目指すのだが、そこまでで更にずたぼろにされるその行状を追う。

戦争の悲惨さを伝える、厭戦感を煽る、それ以前のところで戦場ていうのは例えばこういうところだからね、というのを色と光と音とで淡々と伝える。主人公は正確には戦争に参加していない、戦闘の現場から役立たずと追い払われて、いろんな味方の兵に小突かれどつかれ犬にも吠えられ、敵からの攻撃には逃げまどうばかりで、お国のために戦う誇りも威勢もゼロで、死ぬ覚悟と諦念だけはいくらでも持っていて、銃弾は等しくみんなに右から左から飛んできたり降ってきたり。 周りでは冗談のようにバタバタと人たちが赤い肉片とか肉塊に変わってしまったり黒い棒になったり狂ったり自爆したりして死んでいくのだが、自分だけはなぜか死なない/死ねないまま大量の生者が血と肉にバラされ泥のなかに消えて行くのを見ている。 泣き叫ぶことも発狂することもできない。 カメラがそれらを記録するのと同じように、それを見て、聞いていることしかできない。

生を生きることができず、死を死ぬこともできない罰ゲームのような状態のなか、生を見つめることも死を見つめることもできない。 戦争や戦闘に対する深掘りはなく、味方や敵の軍組織に対する洞察もなく - そんなものいったい何になるというのか? - だからここには厳密な意味で苦しみを苦しみとして、悲惨さを悲惨さとして定義認定して伝える言葉がない、とも言える。 そういう自身の頭のなかに幽閉された極限状態を他者に正しく伝える術がなくて、さらにこの状態には終わりがなくて(主人公は帰国して妻との生活に戻るがショック状態は止まず、妻にもどうすることもできない)、こういった状態を大括りにして例えば、無情、とか呼ぶことはできるのかもしれないが、どっちにしても救いはないよね、と。

で、許せないのは、死者もひっくるめたそういう声を出せない人たちの声や顔(この映画に出てくる連中の顔、どれもすごい)を想像しようともしないで、自分の都合いいように解釈してその解釈を元手に政治利用する連中、だよね。 「解釈」はしょうがないにしても「政治」のほう - この作品を経由して(いや、しなくても)まずすべき政治的努力ていったら人と人が殺しあうあんなふうな状態を作らないようにすること、しかないと思うんだけど。 それから「想像」の範囲には映画にも出てくる現地の人たち - 自分たちの土地を勝手に戦場にされた - もぜったいに含まれるんだからね。

この映画の圧倒的な力強さに昨今のくそみたいな政治事情を繋げるのはいやなのだが、でも、たぶん、映画のほうはびくともしないはず。

「戦争したくなくてふるえる。」は映画見たあとの正しい反応として、あるか。

映画的に近いところだとなんといっても「地獄の黙示録」ではないか。 ヴィビッドな緑と茶色と赤黄、そして圧倒的な音圧。 70mmカメラとVittorio StoraroとAtticus RossとTrent Reznorをセットで(あと予算もね)渡してあげるべきだったのではないか。

それか、ゲルマンの『神様はつらい』じゃないのかもう - 『神々のたそがれ』 - にも似てるかも。

塚本映画をあまり見ていないのだが、身体の変容と力の関係というテーマが彼にあるのだとしたら、この映画もまさにその流れにある、その一貫性もまたすばらしい、としか言いようがないの。

わたしの祖父は70年前の5月、セブ島で死んだ。 この映画のどこかに映りこんでいるかも、て思いながら見てた。

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