12.29.2013

[film] Hannah Arendt (2012)

22日の日曜日の朝、新宿で見ました。 朝早くなのに結構入っていた。 よいこと。

Film Forumでかかったときからずうーっと見たくて、岩波ホールもなかなか行けなくて、やっと行けた。 John Waters先生も2013年ベストにリストしていたし、必見なんですよ。

それにしても、前の日に同じところで見た"The Bling Ring"と続けて見ると同じ歴史ものなのに同じ地球上の出来事かよ、とかおもうわ。

アイヒマンがイスラエルに捕えられるシーンから始まり、彼の裁判がイェルサレムで行われることを知ったハンナ・アーレントが裁判を傍聴してそのレポを書くことをNew Yorker誌に申し出て現地に赴き、記事("Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil")を書いて掲載する。 その記事のなかの、アイヒマンは悪の権化ではなく上からの命令に従った平凡な歯車にすぎない、という箇所、更にはユダヤ人団体指導者たちが虐殺に加担していた、という箇所がユダヤ人社会を中心に凄まじい非難と悪罵を巻き起こし(今でいうところの「炎上」ね)、友人もみんな失って孤立する、ていう史実としてとっても有名な、誰でも知っていることを映画化しただけなのだが、このおもしろさはなんなの。

身内からも友人からも、どれだけ非難されても罵倒されても、彼女と彼女の思考は煙草の煙を吐きながら機関車のように力強く屈しない、パンクばばあの不屈さがあるの。特に最後の大学での講義の迫力ときたらすさまじく、これを演じているのがファスビンダーの『ベルリン・アレクサンダー広場』でミーツェを、『ローラ』でローラを、つまり戦後ドイツ男の間でやりたいようにやられてきた女たちを体現してきたバルバラ・スコヴァなんだから痛快ではないか。

みすず書房から出ているこの裁判記録『イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』は、過去3回取り組んだけど結局挫折して最後まで行けていない。寝っころがって簡単に読めるもんではなくて、みんなちゃんと読んだ上で文句言ってないだろ、と未だにおもう。

筑摩から出ている遺稿論集『責任と判断』に入っている『独裁体制のもとでの個人の責任』 - "Personal Responsibility under Dictatorship"ていうレクチャー原稿は、非難騒動を受けてラジオ向けに書かれた割とわかりやすい内容のものなので、読んでみませう。

元原稿はここにある。

http://memory.loc.gov/cgi-bin/ampage?collId=mharendt_pub&fileName=05/051950/051950page.db&recNum=1

映画を見てこれを読むと、いかにアーレントの論旨がいまの日本、2013年に劇的に腐食劣化と退行が進んでしまった日本に、経済効率だの絆だの無邪気で幼稚な旗印のもと国民性だの国益だのを徒に煽って凡庸な悪の道を進んでいる今の日本にはまってしまうか、しみじみわかって嫌になるから。
そして、考え抜くんだ、と。 「つながる」ことも「炎上」させることも何の解決にもならないんだよ。

とにかくもう今の首相がヒトラーに見えてしょうがない、ブッシュJr.の二期目のとき以上に気持ちわるい。

映画のなかで読者からの抗議電話をひっかぶっていたNew Yorker誌の編集長「ビル」は、リリアン・ロスの『「ニューヨーカー」とわたし―編集長を愛した四十年』(もう絶版なの? おもしろいのにー)に出てくる編集長ウィリアム・ショーンのことで、この本の中にも原稿の編集のためにハンナ・アーレントのアパートに通う彼の姿が出てくる。彼女は鬼婆のようにおっかなくて作業を終えて出てきた彼は顔面蒼白でぶるぶる震えていたという。 おっかなかったんだろうなー。

映画で映しだされる夜のマンハッタン全景は東側のからのものだし、彼女が米国に戻ったときにはBrooklyn Bridgeが出るし、窓の向こうに少しだけ見える川はEast Riverぽいので東岸のお話のように見えるのだが、彼女が住んでいたアパートは、370 Riverside Drive - 西の上のほうなの。

ここには(映画にも出てくる)メアリー・マッカーシーやジョナサン・シェルの他にスーザン・ソンタグも通っていたはずで、なんで彼女だけ出てこなかったんだろ。

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