11.09.2012

[film] おんなの渦と淵と流れ (1964)

4日、日曜日の朝にシネマヴェーラで2本見ました。
特集『昭和文豪愛欲大決戦2』、よくわかんないのでとりあえず。

監督は中平康、原作は榛葉英治の『渦』と『淵』と『流れ』? - 読んだことない。

3部構成になってて、第1部が「渦」。 金沢で、自宅で妻(稲野和子)が小料理屋をやっていて、自分はぼんぼんの英文学研究者でなんもしていない男(仲谷昇)が妻の行状と過去に疑念を抱いてて、ある決意をする。

満鉄の関係で大連でお見合いで結婚したのだが、初夜のとき妻はほんとうに処女だったのか、とか、戦争が始まって現地で小料理屋を始めるのだが、妻の男あしらいが異様にうまいこと、とか、こっちから英文学の話をしてもぜんぜん乗ってくれない(そらそうだー)とか。
で、自分は温泉行くふりして押入れの陰にかくれて見ていると、やはり妻は地元の土建屋と...
ぼんぼんは暗い雨のなかぶるぶるわななくの。 ... 単に君とは合わない、っていうだけの話だと思うのだが。

第2部の「淵」で修羅場がより一層全開になって、ふたりはかわいそうなくらいに噛みあわなくて、でもお互いなんとかしなきゃ、という意思はあるので、こんなところにいるのはやめよう、て場所と家のせいにして、ぜんぶちゃらにして東京に出ることにする。

第3部の「流れ」で、ふたりは東京に移って、妻のおじが昔住んでいたとこを借りて、彼のほうは会社勤めを始めて、すべては元に戻ったような感があったのだが、近所づきあいから妻の女学校時代の過去が明らかになるにつれて、また別の渦がまわりはじめて、やがて。

時間が昭和初期から戦後まで行ったりきたりして、お話も「渦」、「淵」、「流れ」と分断されているものの、基本は妻の物語を自分のものにしたい、手元に置きたいと願うわがままなぼんぼんの御都合 - それこそ主人公が何年もかけて訳そうとしていたシェイクスピアの『トロイラスとクレシダ』よろしく、いにしえの、とか、魔性の女、とかで片付けようとするのだが、指を差された妻のほうは、最初からそんなの関係なく、ただひとりの女としてあろうとしただけだった、という。

落としどころをこれが女というもの~これが男というもの~みたいなところに持っていかずに、渦だの淵だの流れだの(それは女の属性でもなんでもない。ねんのため)を生む決定的な溝とか段差のみにフォーカスし、シャープな構図とモノクロの映像のなかに際立たせて、最後にバカなおとこを突き落す、そのしらじらした目線がなかなか心地よかった。

それから『悶え』 (1964)。

監督は井上梅次、原作は平林たい子の『愛と悲しみの時』  - 読んだことない。

結婚した若尾文子と高橋昌也がハネムーンで小涌園に行って、初夜の新婦はどきどきだったのだがなんも起こらず、こんどこその二晩目もほっておかれそうになったので、わっと泣き出したら、新郎に逆泣きされて、実は事故にあって不能になってしまったんだ、とか言われて、がーん。(そんなのなんで言っておかないの...)

で、治療すれば治るかも知れないから、ってふたりでがんばるのだが、新妻にはいろいろ外からの誘惑(ぴちぴちの川津祐介)もくるし、自身もむしゃくしゃするし、夫は夫でクラブ通いなんかしてるし(欲望をふるいたたせるためだと)、大変なの。 あと、とりあえず子供を作ってしまえばどうか、と人工受胎をやってみようとか思うのだが、直前で怖くなってやめたり。

夫のほうで懺悔とか欲求不満とかそのたもろもろの激情が爆発しそうになると、背景が突然まっかのウルトラQ模様、音楽もどろどろの劇画調になって、うおおおおうぅぅぅ、とふたりで獣のように抱きあって悶えまくり、そのまま気がつくと朝になっていたりする。
そんなふうな夫婦のもんもん、それが『悶え』。

そういう「地獄のようだった半年間」(夫婦談)も最後には結局棒いっぽんで解決してしまうのでなーんだ、というかよかったねえ、なのだが、むかしはたいへんだったんだねえ、と思った。
でも、これこそが当時の平均的な家庭(夫は五井物産の調査課長、公団住まい、等)での平均的な「結婚」像・観の内外に張りめぐらされていた平均的な役割期待だと思われ、このへんて今はどんな具合なのだろうか。 彼らからしたら、同性婚なんてありえないものかしら。

なんか昭和の愛欲って、よくわかんないわ。(ひとごと)

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