3.21.2011

[film] 黒社会 (2005)

土曜日、ようやく、ほんとに久しぶりのシネマヴェーラ。 
これも大切なライフラインのひとつではあるの。 

今のモードとしては、とにかくバカでくだんないのがいっぱい見たい。
はたして、Johnnie Toの世界はそういうのにはまるのかどうか。個人的にはじゅうぶんはまるとおもうのだが、だめ?

最初にみたのが『エレクション』(2005)。原題は『黒社会』。
香港のやくざ組織の会長選びの話で、代々会長は偉い人たちの選挙(挙手だけど)で選ばれることになっていて、今回は候補が二人いて、穏健派で仲間を思いやるロクと武闘派でいけいけのディーがいて、買収工作とかいっぱいやりまくるのだが結局長老たちはロクを選ぶの。 その結果にあたまきたディーは会長の証の木彫りの「竜頭棍」の強奪を指示して追っかけっこがはじまるの。

拳銃による派手などんぱちは一切なくて、木箱に詰めて崖から落とし(Repeat)とか、木の棒とか、石の塊とか、足でぐしゃぐしゃふみつぶしとか、牛刀みたいなナイフでぐいぐいぐっさりとか、そんなのばっかしで、しかもそれらはどれもくどいくらい繰り返される。 
もうじゅうぶんしんでるってば、あんた。

つまり、銃の一撃でカタがつくようなしろもんではないのだ、じゅうぶん痛がって思い知ってもらうぜ、ていうのもあるが、要はこれ、猿の喧嘩、ボス猿えらびとおなじなのよ、ということなのね。 最後の決着が野猿に囲まれたとこでつくのは象徴的だし、それが唐突に起こるのは、動物の本能としてこいつは危険だと瞬間で察知したからだよね。

そして、これら「動物」を演じるサイモン・ヤムもレオン・カーフェイも、その配下連中も、全員なに考えてるのかあんまよくわからず、その不気味さが緊張感に拍車をかけて、闇夜の「竜頭棍」バトンリレーはなにが起こっているのかあんまわかんないのにただただおもしろい。とにかく全員必死で目をむいて、敵も味方もわからないまま、たんなる木の棒を抱えて守って全速力で走り回っている。

画面も、幹部が候補者の選びでぐじゃぐじゃの口論になったとこで、長老の「まあ、茶でものめ」の一言で静かになって茶を囲むとこは、Johnnie Toだと思った。ウーロン茶のCMみたいだったけど。

あと、留置場のとことか、ぶっ殺してやるってこん棒でぼかぼかやってたやつが味方であることがわかった瞬間の気まずい、けどしらじらとした空気のかんじとか、ほんとすてき。

あとね、どうでもいいけどこれ、携帯があってはじめて成立するお話だよね。昔はどうやっていたのだろうか。


次の「柔道龍虎房」(2004) は、すごかったねえ。 更にわけわかんねえ。

香港のビル街のはずれの、夜の草むらで柔道の練習をしているひとと、その横で日本語のへんな歌を思いっきりがなる長髪のわかものがいる。 これがオープニング。

誰でも相手を見つけると犬のような純な目で「勝負しないか」て誘う角刈りの若者が、バーで飲んだくれている男を訪ねる。その男はそこでカラオケの伴奏をやったりしてて目はうつろ、相当ダメっぽく堕ちているが元は柔道をやっていて、その昔は相当強かったらしいことがわかってくる。 

この男ふたりと、歌手として成りあがることを夢みるいけてない女の子の3人を軸に、物語はどっか一点に向かって転がっていくのかというと、あんましうまく転がっていかない。 ひとりは柔道がしたいし、ひとりは金儲けをしたいし、ひとりは歌手になりたいし。 この3人がなんとなく追っかけられて逃げまくって、で、どうしようもなくなるととりあえず柔道になって、とりあえずその場はちゃらになる。
それが延々続いていくばかりなの。 よくわからない。

つまり、なにがなんでも柔道がしたいのだ、ということと、柔道になればなんとかなるのだ、これでいいのだ、みたいな、天才バカボン的な断言が全編を覆っていてわかったよがんばってね、しか言いようがなくなる。 そんなの海の底から宇宙の果てから、つくづくどうでもいいことだし、やりたきゃやってろ、なのだが、こっちがそう思えば思うほど、みんな楽しそうに投げたり投げられたりしている。 なんなの?

どこでも柔道はおこる。流儀とかルールとか無視で、あんま正しい型とか組みかたにも見えないのだが、道ばたでもバーのフロアでも草むらでも、どこでもやっちまえ、で始まる。 抑えのきかない動物とおんなし。

このくどさ、やられたらやりかえしの執拗さ、ぜったい手を休めない容赦のなさ、しかもそれら全てが理不尽な文脈のなかいくらでも起こりうること、そう、これはJohnnie Toのヤクザ映画のどんぱちのそれとほとんど同じマナーに貫かれている。
(あと、食事のときだけはとにかく休戦して、みんなで食卓を囲むべし、というのも)

だからこれは柔道でなくてもよくて、ほんとはじゃんけんでも囲碁でもナンパでも性交でもなんでもよかったのかもしれない。 でもそれが柔道になったことで、なんともいいようのない隙というか、格闘と寝技と勝負とスポーツのぜんぶ半端で微妙なとこがでろでろに垂れ流されていてなんともたまんないかんじになった。
で、ひとはそれ故に組みあってしまうのです、とかきんきんの真顔で言われたら、勝手にやってろ、しか言いようがなくなる。

で、その勝手にやってろ、感は、間違いなくJohnnie Toの描く闇社会の濃度や純度の裏返しとしてあるのだなあ、と改めて思ったのだった。

黒澤の「姿三四郎」(見てない…)に捧げる、てあったが、ここでの三四郎て、どう見たって小林まことの『1・2の三四郎』のほうだよね。こっちのノリで徹底すればもっともっとおもしろくなったのに。

あーでも、すんばらしくすきな映画ですこれは。

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