もう日本は2025年を穏やかに迎えられていますようー。
こちらの大晦日は期待通りの見事にどんよりぼんやりロンドン - 川縁の花火はやるかどうか微妙、と朝のニュースは言ってて、夕方風がでてた - けどなんか鳴りだしたぞ - で、クリスマスの時と同様、バゲットとチーズを少しだけ買って、ハロッズの〆さばのウワサを聞いたので買ってきて、少し色がほしい.. と思ったので同じハロッズの飲茶コーナーで白・赤・緑の餃子とシウマイを買った。それくらい。年越しそばはこないだ日本に行った帰りの便に乗る前に羽田のコンビニで買ったどん兵衛がある。
今年最後に見た映画は、今日の夕方 - BFI IMAXでのF.W. Murnauの”Nosferatu, eine Symphonie des Grauens” (1922) - 明日から公開されるRobert Eggersのにあわせたやつ - で、今年最初に見た映画はイメージ・フォーラムでのC.T. Dreyer の”Vampyr” (1932)だったので、見事に吸血鬼が挟んでくれた。
あいかわらずぜんぜんよくない、暗くて辛い1年だった。
ガザもウクライナも状況は変わらず、ということは人々も子供たちもずっと権力者の思惑のまま理不尽に殺され続けている。シリアの独裁が終わったのはよいことだが、独裁者を倒すまで13年掛かったこととか、この並びにトランプが入ってくることなどを思うと先には絶望 - 自分のだけじゃない、現地の人たちの - しかない。
日本も変わらずにひどいまま、海外に来たのであのやーな湿気に丸めこまれずに済んでいるのはラッキーなのかも知れないが、兵庫も大阪も司法も報道も、近寄りたくないやばいヒトが勘違いしたまま成熟に向かっているのを見ているようで、とにかく近寄りたくなくなる。だって誰ひとり逮捕されずに野放しなんだから。なんなのあれ?
地球も、どうなっちゃうんだろう… とか、要は明るいことなんてずっと、何ひとつない。その閉塞のなか、沢山の亡くなってしまった、先を絶たれてしまった人たち、ごめんね。
などを考えるのにちょうどよい気候だねえって、でもこの時期にもう一件、考えるべきは足下のお片づけ&お掃除でもあるはずなのだが、周辺数メートルのチリ・ホコリをクイックルなんとかでぱたぱたしたり、チケットの半券とか半端なサイズのチラシとかを隅に寄せれば十分な気がして、なにしろ部屋の真ん中に積みあがった本の大きな山がいくつかあり、本棚を入れるなどしてこれらをどうにかしないことには、どーにもならないんだわ。本棚は重いので考え始めた次の引越し先でどうにかしたい、とすると結局のところどうにもならんー。約1年間、あまり深く考えずに本を買い続けていくとこういうことになるのか、ということを学んだ、のはよいこととしようか。
だれも見る人がいないので、部屋とかクローゼットのなかとか、これまでの自分史上相当にしょうもない状態であることは確かだな、と思う反対側で、これでじゅうぶん、とか判断するのってどこのどいつなのか? じぶんしかいないんだから.. (←こいつはだめだ) 年が明けて、2日くらいからちゃんとやります。
明けてから2024のベストにかかりますが今年のは大変かもー
みなさまよいお正月をー
12.31.2024
[log] 年の終わりに
[film] The Polar Express (2004) (3D)
12月24日、クリスマスイブの昼、BFI IMAXで見ました。
これもBFIのクリスマス映画特集のからの1本で、IMAXで何度か上映されていて、この日のこの回が最後の上映。家族連れいっぱい。
これまで何度も見たいと思いながら機会がなかった。
原作はChris Van Allsburg、監督はRobert Zemeckis、タイトルの横に大きく名前があるようにTom Hanksが制作と複数役の声までこなす形で深く関わっている。
クリスマスなんてみんなでお食事してプレゼント貰うだけのイベントだろ、と思い始めた頃の子供たちに、いやいやその裏ではこれだけのことが起こっているのだよ、って神とか宗教を持ちだすことなく説明する。北極も特急列車も存在する、でも行ったことはない、そこに誘うのはリアルな距離を測ることのできる実写ではなく、感覚ごと持って行かれる3Dのアニメーションがふさわしいことを”Back to The Future”で時間旅行を試していたRobert Zemeckisはわかっていた - というくらいに堂々と揺るがない決定版、のタイム感。
50年代のアメリカの田舎、クリスマスイブの晩、どうにも寝つけない少年がいて、サンタクロースなんてどうせ親がやるのだろうし、それなら欲しいものなんてくれるわけないし、と思えば思うほど寝れなくなってきたところに轟音が響いて、見れば庭に巨大な列車が止まっていて、乗るのか乗らないのか、車掌が聞いてくる。
少し悩んであまりよくわからない状態で乗り込んでみると自分と同年代の少年少女たちがいっぱいいて…. ここから先はいいか。
この列車が本当にサンタのいる北極まで連れて行ってくれるのか、半信半疑の彼を試すかのようにいろんなことが起こり、いろんな人が出てきて、見ている我々はそれを少年の目をと体験していく。人さらいや監禁もののホラーになるわけがないからものすごく安心して見てしまうのだが、止まらない抜けられないゴースト・トレインになりそうな紙一重のところをうまく抜けつつ不思議の国に運んでいく、そのめくるめくなかんじがよいの。
列車自身がずっと高速で動いているのと、少年の学びと成長がテーマであることもあるのだろう、各アクションがいろんなうねりを作って連鎖していくふうにならないのはしょうがないか。
とにかく北極点にたどり着くと大量のサンタがうようよびっしり湧いて群れてて、えらいこったねえー、となる前にこいつら一匹残らず全員♂でやっぱりおかしくない? になった。20年前は気にならなかったのかも知れんが、いまは絶対確実におかしいわ、って。
Kraven: The Hunter (2024)
↑の清らかなのに続けてよいのかしらんが、12月23日、月曜日の夕方、Leicester SquareのVueっていうシネコンで見ました。ここは客のマナーがものすごい - 予約指定した席に座れたことがない等 - ので滅多にいかないのであるが、それくらいもう他ではやっていなかったの。
Sergei (Aaron Taylor-Johnson)は、男は男らしくなきゃいかん、ってうるさい父 (Russell Crowe)に無理やり連れてこられた狩りでライオンががぶーってやられて血がどくどく死にかけたところにアフリカ産の謎の液体をかけられて、気がついたら身体がぶりぶりのハンター(でも獣は味方)になっていた、と。
で、いろんな悪い奴らを引っ掻いたり噛みついたりでやっつけていって最後にはやはり父が立ちはだかってくるのであるが、ややストーリーラインがあっさりしすぎていたかも。
大コケした”Madame Web” (2024)などと同じ、スパイダーマンのフランチャイズらしいのだが、当たらなさすぎてもうやらなくなってしまうかも、って。もったいないー。みんなせっかく噛まれて強くなってきたのにー。妖怪大戦争でもよい(しかない)ので見たかったのにー。
みなさまよい年の瀬をー。
12.29.2024
[film] Grand Theft Hamlet (2024)
12月22日、日曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。
LFFの上映時にも話題になって、IMAXでの上映回もあったりしたのだが、オンラインゲームというものを見たことも触ったこともないので、と少し躊躇して、でも車やバイクを運転したことなくても、山登りやダイビングをしたことなくても、それらの映画は見るじゃん? と。他方でオンライン・ゲームというのはそれ自体まるごとがひとつの世界としてあって、そこで過ごす感覚や判断思考も含めて没入させるものである、という点において、その「没入」を踏みとどまらせるなにか、がないこともないのよ、など。
画面は最初からGrand Theft Auto (GTA) というonlineゲームの中にあって、その外側に出ることはない(最後のパートを除いて)。このゲームに関する説明がまったくないので最初はなにがなんだかわからず、ここに入ってくる人は自分のアバターを作ってやってきて、赤の他人を殺しあいをしたりする.. の? .. というレベルの老人でも、映画のなかで起こることを通してここがどういう場所なのかが見えてくる - 映画のテーマとは別に - という楽しさがあったりする。それを楽しいと思うかどうか、個人差はありそうだけど。
コロナ禍のロックダウン中、ゲーム以外に特にすることがなかった役者のSam CraneとMark Oosterveenは、毎日やってくるこの場所でシェイクスピアのハムレットを上演してみてはどうか、と思いたつ。ここはゲームの世界なので、ゲームのルールにないことはやったらいけないのでは? と思うのだが、ゲームのルールとして特に書いてなければ、やってはいけないことなんて特にないみたい。まあ、人をばりばり殺したって許されてしまう世界であるから、演劇くらい当然やってもよいのだろう。
こうしてゲーム内の掲示板に告知を出して役者のオーディションから始めるのだが、演劇をしたくてここに来る人なんてそんなにいないから変な連中ばかり現れて、しかもいきなり殺しにきたりして、SamとMarkも何回も殺されるし、殺してしまったり、その突拍子もない、誰が演出しているわけでもない、なすすべもないアナーキーな驚き - 制作している側でも - がたまらなくおかしい。そしてそのうち、実世界での演劇が構築しようとしている世界も、これと同じような荒唐無稽な物語だったり強引極まりない世界 - 例えばあまりに簡単に人が死んだり狂ったりしていく - だったり、なのかもしれないな、と。我々が生きて、生きるためにコントロールしたりされたりの世界があり、そのなかでコントロールのありようを悲劇だったり喜劇だったりのドラマとして組成する演劇の世界があり、それらをまるごとバーチャルに再構成した(はずの)GTAのゲームの世界があり、この「ハムレット」は3つの世界を跨いだ何かとして訴えてくるものがあったりするのかどうか。
想定外のことばかり起こることのおもしろさ - それがなんでこんなにおもしろいのか? を考えるのもおもしろいし、これら想定外のことを除いたときに、ここで上演されたものは果たして「ハムレット」と言えるのか? を考えるのもよいし - など、ものすごくいろんなことを吹き出しのようにわらわら掻き回してくれる作品で、こんなシンプルな暇つぶし思いつき企画が掘り下げてくれたことって思っていた以上に収穫だったのではないか。
すでに誰かがどこかでやっているのかも知れないが、ここにAIを介入させたらどんなことが起こるのか? 想定外のようで実は薄っすらわかっていた、ようなことが起こるだけでおもしろいおもしろくないでいうと、あんまし、になってしまう気が…
この「ハムレット」はおもしろくなったけど、例えば、”Avengers: Endgame”をやります! と言ったらどんなことが起こるだろうか? とか。 あれこれ考えてみるだけで十分におもしろいかもー。
SONYがスポンサーになってGTA内でのシェイクスピア全作上演とかやってみればよいのに。歴史に名を残せると思うよ。
あと、じゃあGTAでもひとつやってみるか、になるかと言うとそこまではいかなかったかも。
12.28.2024
[film] The Cherry Orchard (1981)
12月21日、土曜日の午後、BFI SouthbankのRichard Eyre特集で見ました。
映画としてではなく、BBCのTV放映用に制作されたもので、だから画質は白っちゃけたビデオ画像のそれ(残念)で、撮影監督のクレジットもない。2時間10分。
原作はチェーホフの最後の戯曲 - 『桜の園』。テレビ用であることを意識したのかどうなのか、冒頭でマダムRanevsky (Judi Dench)が戻ってくる屋敷の様子も桜の園もそれらがどんな姿かたちをしているのか、最後まで映しだされることはない。それらはすべて失われるもの、奪われてしまうものとして彼らの目の奥に、過去の栄華や追憶のなかに、そこにしか存在しない。絶望、は見たくない、認めたくないので、彼ら(追いたてられる側)の目線はいつもそこの、目の先数メートルの辺りを漂っている。
そんな見えない象徴的な - 貨幣や地位と同様の - ものとして、桜の園も屋敷もなにがなんでも手に入れたいと思うLopakhin (Bill Paterson)と理想しか見ようとしない学生Trofimov (Anton Lesser)、その彼に憧れるAnya (Suzanne Burden) など、メインの家系図があり、旧勢力、新勢力、若いもの、老いたもの、などの間にわかりやすい矢印や点線が引かれていくが、例えば善 - 悪のような構図は描けず、旧地主勢力の衰退〜没落に向かう運命を描く、という強いドラマにもなっていない。すべては最後の引越し - 引き払いのシーンと共に彼方に片付けられてしまう。か、切り倒される桜の園とともに…
わらわら沢山いる俳優たちはJudi Denchは勿論、いかにもなそこにいたような存在感で、最後に屋敷に取り残されて冷凍されてしまうかのようなFirs (Paul Curran)まで、全員がはっきりとそこにいて忘れ難い。 あと、小間使いのEpikhodov役でTimothy Spallが出ていた。
Suddenly, Last Summer (1993)
12月23日、日曜日の午後 - Chichesterから戻ってそのまま、BFI Southbankで見ました。 これもRichard Eyreの特集から、BBCの”Performances”というTVシリーズで制作・放映されたもの。なーんでこんな(すごい)の… と思うし、こんなのがお茶の間に流れて見れるのってどんなにか。
原作はTennessee Williamsの戯曲 (1957)。監督Joseph L. Mankiewicz - Elizabeth Taylor - Katharine Hepburn - Montgomery Cliftによる1959年の映画版は見たような見ていないような.. 曖昧。
車椅子と杖のViolet (Maggie Smith)が医師のRob Loweに食虫植物の話をしているのが冒頭で、そこから彼女の亡くなった息子Sebastianの話になる。彼女がどれだけ息子の、その才能を愛おしく思っていたかがやや偏執狂的に語られ、医師は彼女の混乱と喪失感の根にあるものを見て解したり癒したりするために呼ばれたのだということがわかってくる。
やがて、やはり介護のシスターに付き添われて憔悴、というか錯乱した姪でSebastianの従姉妹のCatharine (Natasha Richardson)が現れ、その後ろにはSebastianの遺言に記された金額の一部をどうにかぶんどりたい彼女の母と弟George (Richard E. Grant)が付いていて、死者と狂気に苛まれた人を真ん中に置いた金と欲にまみれた醜い争いが勃発するのだが、口汚ない喧嘩はなんで彼は酷い死に方をしたのか、去年の夏突然に、なにが? という一点に集約されていって、医師から自白剤を注射されたCatharineは..
ホモセクシュアリティが近しい家族の一員の記憶 - それもその最後の記憶に刻まれてしまった時、家族にどんな困惑や痛みをもたらしてしまうものかを息詰まる会話劇の中から浮かびあがらせようとする、というとてもTennessee Williamsな作品。
亡くなられたMaggie Smithのここ10年くらいというと、穏やかで時たま鋭いところを見せる味方のおばあちゃん、のイメージが強かったように思う。ハリポタでも一瞬、学校を守るために凄んだことがあったりしたが、それもこの延長で、でも本作での息子への愛ゆえに錯乱し、とてつもない怒りをぶちまける老母の姿は圧倒的で、Natasha Richardsonもそうだが本当に修羅場に修羅が現れる迫力のすごいこと。
そういうのをただカメラに収めているだけ、になっても十分におもしろいので…. これはこれでよいのか。
[art] Vanessa Belle - A World of Form and Colour
12月14日、土曜日の昼、Milton KeysにあるMK Galleryで見ました。
Milton KeynesはロンドンのEuston駅から電車で1時間くらい北に行ったとこにある郊外の町で、ロンドンには通勤圏だと思う。電車を降りてそこからバスで20分くらいか。
Vanessa Belle (1879-1961)はVirginia Woolfの姉で、画家で、やはり画家であるDuncan Grantのパートナーで、Bloomsbury Group - 文芸サークルの真ん中に溜まり場としてあったCharlestonの農家をリフォームしたお家は何回か行った。アートと生活、そのありようを見るのにあの家の間取りとか調度とか光の入り方、あと庭のレイアウトとか、も含めて自分にとっての理想形だったりする。冬はとても寒そうだけど。
彼女の個展は2017年にDulwich Picture Galleyでやった時のが自分にとっての出会いで、ものすごくよくてびっくりして、そこからBloomsbury Groupに関する本を探したりCharleston に行ってみたりするようになった。始めてみると研究書からフォトアルバム - 最近、”The Bloomsbury Photographs”という決定版のようなのがでた - から料理本から、結構いろいろ出ていることを知るし、小規模の展示も結構あちこちであったり。
Dulwichでの個展は絵画のみだったが、今回のは絵画の他に家具(でっかいリス2匹が踊っているテーブル!)とか屏風とか陶器とか装丁本まで、生活全般をデザインしようとした - その野心で丸めこむというより絶妙なバランスを持ちこんで調和をもたらしてしまうセンスのよさに改めてびっくりする。誰もが思い浮かべるであろうマティスなんかよりもずっと足のついた(光に頼ったりしない)一貫した色使いや輪郭の柔らかな丸み、トーンがあると思うし、ずっと見ていて飽きないし。今回の展示では、最晩年の、死を意識し始めたであろう頃の作品の宗教的とも言える落ち着きが印象深かった。
彼女が表紙のデザイン(木版画)を手がけてVirginia Woolfと夫のLeonard Woolfがやっていた出版社Hogarth Pressから出されたVirginia Woolfの本たち、状態のよい初版だと軽く£2000〜3000する(そうでないやつで£400〜800くらい。自分の持っているのもこの辺)のであるが、いつの日かきっと。車とか買うよりはぜんぜん安いから。
Dora Carrington - Beyond Bloomsbury
12月22日、日曜日の昼、ChichesterにあるPallant House Galleryで見ました。ChichesterはロンドンのVictoria駅から南西に下って2時間くらいのところにあって、なーんでまたこんなところで? なのだが往復4時間ならパリよりは近いし、しょうがないな、になる(東京からポーラ美術館に行って1時間いて帰ってくるかんじ?)。朝8:32発のが始発で。
Dora Carrington (1893-1933)のことは、割と最近に彼女の弟のNoel Carringtonの書いた”Carrington”ていう古本を手にしたり、へーと思っていると評伝本が(古本屋に)落ちていたりして、いろいろ重なったりがある - この展示もそうかも。
長く一緒にいたLytton Stracheyも含めて彼女の家族もまた文芸の人々で、Emma ThompsonがDoraを演じた映画”Carrington” (1995)も見ていないのだが、彼女の落書きのような - なんでもそこらじゅうに描いていってしまうスケッチはなかなか味があっておもしろいの。
展示は若い頃に書いた大きめの油彩もあったり、割と有名なLytton Stracheyの横顔、E.M.Forsterの肖像画などもあるのだが、やはり面白いのは - 悪いけど - 日常を描いた落書きみたいなスケッチの方 - 猫にひどい格好をさせられているLytton Stracheyとか。それをもって”Beyond Bloomsbury”とはあんま言えない気がするのだが、それでもいいじゃん、になってしまうのだった。
帰り際にお土産でも、と、このGalleryのShopに寄ってみたら本のコーナーが、古書も含めて異様に充実していることに気付く。 師走に散財するわけにはいかないし、戻る電車の時刻が近づいていたので身をひっぺがして戻ったのだがあのままいたら危なかった..
[film] Meet Me in St. Louis (1944)
12月21日、土曜日の昼、BFI Southbankのクリスマス映画特集で見ました。
もう何回も見ている。監督はVincente Minnelli 、邦題は『若草の頃』。Sight and Sound誌のFilm Makerが選ぶFavorite Christmas Film特集ではWes AndersonがこれをFavoriteに選んでいた。
最初に見たのは確かNYのLincoln Centerで、テクニカラーの世界を紹介する特集 - 当然ぜんぶフィルム上映 - だった。他にかかったのは”Pandora and the Flying Dutchman” (1951)とか”Bonjour tristesse” (1958) とかいろいろ。
St. Louisの一軒家でわいわい暮らすSmith家の四季のいろんなこと、隣家の気になるboyのこととか、パパが持ってきたNYへの転勤話とか、ただこれらが映画の大きな軸や幹をつくるかと言うとそんなことはなくて、これらのうねりを巻き起こして騒ぎにもっていく家族ひとりひとりの豊かで変なおもしろさと、それらを束ねてオーケストラとして鳴らしてしまう監督の演出の力が際立っているような - Wes Andersonの作品たちと確かにこの辺は似ているのかも。
でも、それでも、NYへの引越し前夜にむくれてぐずぐずしている末娘のTootie (Margaret O'Brien)にEsther (Judy Garland)が”Have Yourself A Merry Little Christmas”を歌ってあげるシーン - 歌いあげるかんじではなくやや声を抑えて言い聞かせるように歌うところ、そこからTootieが家の外に出て泣きながら庭の雪だるまたちをぼこぼこにしてしまうところは、何度見てもこっちがオートマチックでぼろぼろに泣かされてしまう。 理由はよくわかんないけど、周りもここは結構ずるずるしていたので、そんな何かが仕込んであるのではないか。
あと、最初の方に出てくるケチャップの仕込み、とても味見したくなる。
It’s A Wonderful Life (1944)
12月21日、↑のに続けてBFIの同じシアターで見ました。
この2本を続けて見る、というのは時間のそれだけじゃなくて結構重いのだが、この季節はそういうことを考える時だし、クリスマスにはそういうところもあるのだ、あるべき、くらいに思う(← うざい)。
監督はFrank Capra、主演はJames Stewart。これも何回も見ていて、今年はBFIだけじゃなくてふつうに封切りをやっているシアターなどでも結構かかっている。
小さな町の人気者George Bailey (James Stewart) のこれまでの生涯を天使の目で追いつつ、大事なお金を無くしてしまった同僚の責任をひっかぶって絶望し、自分なんてこの世からなくなっちゃえばいいんだ、っていう危機的な叫びを聞いた二級天使が、そんなに言うならGeorge Baileyが始めから存在しなかった世界を見せてやろう、って見てみたらあまりに酷いものを見てしまったのでやっぱり戻るわ、って言うの。そうして戻ったら町のみんなが彼のためにお金を持ち寄って助けてくれるの。
ギブアンドテイクと自己責任論がふつうになり、たとえだれそれがいなくなったところで替わりはいくらでも(用意しておかないと怒られる)、の時代にGeorge Baileyになることはむずかしい、けどクラウドファンディングだってあるからだいじょうぶ、などにこの作品が求められてしまう今の背景や事情 - お金も情もだいじ - が見えてくるのだが、自分がいなくなったところでどこにも、なんの影響も及ぼさない生き方だってあってよいし、この論理の線上に例えばガザの子供たち - 自分の見えない、手の届かないところにいる弱者をどうするのか、という地点に天使はいない気がするのだがどうなのだろう? という辺りをいつも考えてしまう。
それなら”It’s A Wonderful Life”なんていつまで経っても言えないんじゃないの? については、自分は言えない気がする… と反省してお祈りするのがクリスマスなの。
12.25.2024
[theatre] A Midsummer Night’s Dream
12月17日、火曜日の晩、Barbican Theatreで見ました。
今年の初めにStratford-upon-AvonのRoyal Shakespeare theatreで上演されて評判のよかったEleanor Rhode演出によるシェイクスピアの『真夏の夜の夢』がロンドンにやってきた。
このお芝居、ロンドンでは四六時中いろんなところでいろんなバージョンのをやっているイメージがあって、どれから見たらよいのやら、でもあったのだが、最近見れるのから見ていけ、に自分のなかで方針を変えたのと、冬至も近いのでとにかく見ておこうか、と。
最初から幕は開いた状態で暗い夜?の中に蝋燭が一本、左右の木の上みたいなところに7人くらいのバンドが分かれて入っていて、上演が始まる少し前からパーカッションとかシンセが静かに鳴り始める。
舞台は現代で、貴族 - 職人 - 妖精だった気がした登場人物は、The Court – The Mechanicals – The Forestに分かれていて、The Courtでスーツを着込んだいかにも富裕層な人々が結婚の話をしている。
Hermia (Dawn Sievewright) は親の決めた結婚相手Demetrius (Nicholas Armfield) ではなく自分の好きな相手Lysander (Ryan Hutton)と駆け落ちしたくてその計画を親友Helena (Boadicea Ricketts)に話したら彼女はDemetriusが好きだったので乗ってきて、なんだかんだ4人で森の中に逃げ込むの。
森では言い争いをしている妖精たちが目覚めた時に目にした相手を一瞬で好きにさせてしまう魔薬を召使のPuck(Katherine Pearce)に探させて、その薬のかけたかけないで属性区分をぐしゃぐしゃにした恋模様が炸裂してしまうことになり、けっか妖精の女王Titania (Sirine Saba) がロバの耳の生えたBottom (Mathew Bayton)を好きになってしまったりするのだが真夏の夜だし誰にも止めることなんてできやしない。
ひと通りぐしゃぐしゃになったところで妖精の王Oberon(Andrew Richardson) がしょうがないか、って魔法を解いて全員正気に戻ってああすべては夢だったのね、になるのだが醒めても夢が露わにしてしまったなにかもあったりして、でもそれはそれでよいか、になる真夏の夜のー。
人を好きになってしまうこと → 夢を見ること → 夢から醒めること → やっぱり人を好きになること → 結婚、人だろうがロバだろうが妖精だろうが、これらの懲りない循環のどこに焦点を置くのかで芝居のトーンは変わってくると思うのだが、この芝居では大量の風船のような提灯がぶわぶわ降ったり浮いたり、すべての通路がここに繋がっているような夢のなかが圧巻、というかすべてで、そこに没入して芝居の世界に浸れるかどうか。
で、この芝居については、登場人物がいっぱいで誰が誰やら - あまり妖精や魔物たちがそれらしい風体をしていないのはよいかんじ - になりそうになりつつも、夢のどこかで絶えず(変な)人々が行ったり来たり騒いでいるのを見るのが楽しくて、これなら英語わかんなくても、子供でも楽しめるかも。みんなが夢から醒めたあとで上演される芝居の強烈にタガが外れて狂ってしまった世界、いま思い出してもおかしい。
あと、当たり前だけど俳優がみんな魅力的で巧いよねえ- 特にPuckとBottom。我々をああいう劇の – 夢の向こうの世界に引っ張りこむのって、最後はやはり演技の力だと思うのだが、全員がすばらしいと思った。
外に出たらとても寒くて、夢が醒めるのもあっという間だったが、それはそれでー。
クリスマスの日はバスも電車も止まって殆どのお店が閉じてしまうので、30分くらい歩いてSt. Paulの聖堂に行ってお祈りしてきた。 帰りにサザークの聖堂(猫がいるの)にも寄ってみたのだが閉まっていた。
明日から1泊でウィーンに行ってきま。
[film] The Brighton Strangler (1945)
12月16日、月曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
ここで定期的にやっている”Projecting the Archive”っていうここのアーカイブに眠っていて上映される機会の余りなかった作品を - もちろんフィルムで - 上映するよ、というプログラムより。 BFIでも最後に上映されたのは1979年だとか。日本公開はされていない模様。
これも季節はクリスマス〜年末にかけての悲劇、戦争映画で、舞台は英国だけどアメリカ映画でVal LewtonのいてB級ホラーとかをやろうとしていた頃のRKO Radio Picturesの制作。
上映前のイントロでは監督Max Nosseck (1902 ‑ 1972) のちょっと変わったキャリアについての紹介があった。 現在のポーランドで生まれ、ドイツの映画界で仕事を始めたがユダヤ人だったので国を追われてフランス、スペイン、オランダ等を渡りつつ映画の仕事をし、キートン作品の監督などもして、アメリカに落ち着いた。その間、監督だけでなく俳優もしたりバンド活動などもしていた - どのパートか明らかではないが監督作中にピアノ演奏シーンがよく出てくるのでピアノだったのでは、とか。本編上映前にキュレーターの人が編集したMax Nosseckについてのスライドも上映された。
第二次大戦戦時下 - 頻繁に空襲されていた頃のロンドンで舞台に出ていた俳優のReginald Parker (John Loder)はずっと主演している芝居が終わった直後に建物の爆撃にあって落下物で頭を打ち、なんとか立ちあがるのだが自分が誰なのか一瞬わからなくなっていて、ああ自分はEdward Greyだったかも、と思いこむのだが、それは彼が直前まで演じていた芝居 “The Brighton Strangler”の絞殺魔のキャラクターだったので、彼は頭に入っていた芝居の筋書きの通りに行動して人に会い、連続殺人をリアルに実行していってしまうの。行方不明になって亡くなったと思われていた彼がそんなことをしていたことが判明し、最後の方で警察にビルの上に追い詰められて人質に手をかけようとした時に、彼の恋人が警察の方に「撃たないで、拍手するの!」と言って拍手すると彼はその手を緩めて、でも…
最初の方のやや緩めの展開から突然どす黒く生々しい犯罪ドラマに切替わり、最後にどうにか現実の方に戻ってくる緩急のつけ方が見事 - 人によってはB級という - なのだが、全体を眺めて見ると主人公はまったく悪い人ではなかった、という描き方が俳優の巧さもあって見事に演出されていて、戦争に巻き込まれた俳優の悲劇、犠牲者を描いているのだと思った。
このクリスマス・イブ 〜 クリスマスはひとりだしすることもないので早起きして8:00からやっているBorough Marketに行ってNeal's YardでスティルトンとウェールズのチェダーとSt.JudeのチーズとSan Danieleのプロシュートとイチジクとチェリーとバゲットを買い、HarrodsのロティスリーでPoussinのロースト(£10)を買って、これだけでこの2日間は - これなら一年でも - じゅうぶんやっていける。スティルトンって、なんであんなに深いのか。
映画は1本だけ - BFIのIMAXでお昼にやっていた”The Polar Express” (2004)を3Dでようやく。
みんなによいクリスマスが - クリスマスじゃなくても - 辛く悲しいことが起こらない日々が訪れますようにー。
12.24.2024
[film] Queer (2024)
12月15日の午後、Curzon Bloomsburyで見ました。Wallace & Gromitのあとに「おかま」を見る。
監督はLuca Guadagnino、William S. Burroughsの同名小説(1985)をJustin Kuritzkes(”Challengers” (2024)の脚本もこの人)が脚色している。音楽も(”Challengers”と同様)Trent ReznorとAtticus Ross組。 英国では18禁指定。
やはり一番の話題はDaniel Craigが「おかま」のWilliam Leeをやる、ということで、でも本人がプロモーションのフロントに立っていろんなところに顔を出していたので、彼自身がやりたかった役なのだと思う。
1950年代 – 戦後のメキシコで、アメリカ人のWilliam Lee (Daniel Craig)がなにかの駐在員のようなふうで日々をふらふら過ごしていて、最初は彼の主に酒場とそこでの出会いを中心とした日々がどんなふうか、を追っていくだけ。
Daniel CraigがかつてJames Bondとして寄ってくるどんな敵でもどんな女でも落としてみせる(←前世紀の仕草) 強い男として、それがその人を輝かせる魅力となる時代を生きた人であることは誰もが知っていることだと思うのだが、ここでのBondじゃないLeeは好みの男Eugene (Drew Starkey)を見つける(狩る目の強さは変わらず)なり寄っていって、でも力強く仕留めるというよりは、見つめられたらあたふたおろおろシナをつくってしゃなりとお辞儀してしまう、テーブルで向かい合っても妄想(の腕が生えて)で相手の顔をなでなでするだけで精一杯、のようなそんな情けない男 – 80年代当時の表現では「おかま」野郎として日々をカゲロウのよう薄く生きていて、それでも構わないかんじ。
どうにかEugeneに顔と名前を憶えてもらって、一緒に飲んだり部屋に入ってもらったりキスとかできるようになるまでで喜ばしくてそれで充分かと思ったら、おどおどとテレパシーを可能にすると言われる植物yagéを探しに南米の方に一緒にいかないか、って誘ってみて、後半はふたりでジャングルの奥に分け入っていく「地獄の黙示録」展開になるかと思いきやそこに王国らしきものも植物もなくてものすごく怖い思いをして泣きながら帰るの。でも地が空っぽのへなへななのであんましこたえないの – ちょっと泣いたりしてみせるくらいで。
そんな彼と対照的なのが後半に登場するジャングルで原住民のように暮らす植物学者Dr. Cotter (Lesley Manville)の - 最初は誰だかわかんなかったわ - 強烈さ。山姥とか鬼婆とか、昔の邦画だったら千石規子あたりがやっていたようなものすごいあくの強い演技でしばらくぼーっと見てしまった。
でも全体のトーンは軽め粗めに仕あげてあって、”Challengers”のリズミカルにバトルに向かっていく軽快なトーンとはぜんぜん違うものになっているところがおもしろい。テレパシーを極めてずっと繋がっていたいと言いながら実はぜんぜん別のことをやっている/やってしまうウロボロスな変態の哀しい性みたいなのが滲んでくる。
あと、なんだかんだ言ってもやってもDaniel Craigが真ん中にくるDaniel Craigの映画なので、どうしてもここでのクィアは「Daniel Craigの」クィアネス、のようになってしまうのはしょうがないのか。もうちょっとあのおじいさんが言っていた変態性みたいのにフォーカスしてもよかったような。
音楽は担当ふたりの本領もろ、のようにがさごそじゃらじゃらしたオリジナル以上に挿入歌もよくて、最初にSinéad O’Connorによる”All Apologies”が流れ、Nirvanaの”Come as You Are”(他に”Marigold”も - Nirvana多用はCurt CobainとWilliam S. Burroughsの関係を意識しているのか)、New Orderの”Leave Me Alone”、Princeの”Musicology”とか。
あと、後で知ったのだが、オリジナルの”Vaster than Empires"ではTrent ReznorとCaetano Velosoの競演なんて、自分としてはとんでもないことが実現していたり…
あと、”Emilia Pérez” (2024)の時にも思ったけど、メキシコの描写の薄っぺらなかんじはあれでよいのか。
”The Sheltering Sky” (1990)みたいなのにならないかしら… って思ったのだが。
12.23.2024
[film] Wallace & Gromit: Vengeance Most Fowl (2024)
12月15日、日曜日の昼、BFI Southbankで見ました。
本公開前にしたPreviewで、上映後に監督Nick ParkとアニメーションスーパーバイザーのWill BecherとのQ&Aつき。
9月にもここで”The Curse of the Were-Rabbit” (2005)の上映と監督たちとのトークがあったのだが、何回見ても楽しいし好きだからよいの。Wallace & Gromitのシリーズとしては16年ぶりの新作、になるそう。
日曜日の昼なので、当然子供連れの家族などで賑やかなのだが、アクションが始まると大人も子供も同じ場面で同じようにわーぉ、って笑って手を叩いて喜んだりしている。要はキートンやロイドのサイレントと同じ効果があるのってすごくない?
日本でも既に『ウォレスとグルミット 仕返しなんてコワくない!』というタイトルでNetflixで見れている、の?
特別にクレイ・アニメーションが好き、とかわけではなく、見れるのであればー、程度なのだが、このWallaceとGromitの1人と1匹については、なんも考えなくても目から入ってきたものが頭の中で動きだす、その自在で自動で勝手なかんじが好きで、そういうのであればなんでもよいかというとそうではなくて、彼らの動きとか小競り合いのもたらす - 多分に英国的な阿吽のような - なにかが好きなのだと思う。
今回、冒頭でWallaceとGromitが彼らの家に押しいった黒目無表情のペンギンを捕まえて警察に突き出して、前科たっぷりの凶悪犯であるらしいこいつは表情を変えない/見せないのだが何かを企んでいそうなことはわかる。
Wallaceは小人(庭によく置いてあるとんがり帽子の-)型のロボット - Norbotを開発して、こいつはこれまでGromitがやっていた何でも屋サービス - 特に庭木の剪定やガーデニング - を横から効率よく片付けてしまうのでGromitは面白くないのだがWallaceはご満悦で気にしていない。
他方で復讐に燃えるペンギンは獄中(実は動物園)のTVでその様子を知るとリモートでNorbotを乗っ取り(パスワードが…)リプログラミングして稼働モードを「極悪」にセットする - Norbotの目も白から黒に変わる - とNorbotは自分のクローンを量産し、その軍団がWallaceの顧客の庭をずたずたにして、怒った住民たちがWallaceのところに押し寄せ、定年手前の警察署長と新人婦警なども動きだすのだがどうしようもなく、こうなるとやっぱり頼りになるのはGromitしかいない。
ロボット社会やハッキングの恐ろしさも、警察や市民たちの愚かさも、Wallaceの小手先しかない愚鈍さも、なにひとつ目新しいところはなくて、それらをすべて見通して無言でペンギンに立ち向かって解決に導いてしまうGromitだけが聡明で、彼がいるのなら007もTom Cruiseも英国にはいらないよ、っていうお話しなの。あと、喋らない悪ペンギンがものすごく魅力的なので、レギュラーで出てきてほしい - *今朝のBBCでこいつはレギュラーだったことを知ったので訂正します。
彼らの世界では事件が収束して元に戻ると本当に何事もなかったように元に戻ってこれまでの暮らしが反復される。英国はこうして何百年もほぼ何も変わらずに or クレイアニメの制作スピードでずっと保たれてきたのだなー、って。
この後でWallaceは変わらず忙しそうだし、ロボットも悪くないかも、って思ったGromitは、通販でロボットを買ってみることにして → “Robot Dreams”の世界に…
*あと忘れていたので追記。今回のGromitはウルフの“A Room of One's Own”とミルトンの『失楽園』を読んでいる。
上映後のトークでは、撮影に使われた実物たちが持ち込まれて、ものすごく小さいのでびっくりした。てっきり人や犬のそのままの大きさだと思いこんでいた。これらを1週間動かし続けてフィルムでは5分、とか映画の中の100倍狂った世界があった。
[theatre] The Importance of Being Earnest
12月14日、土曜日の晩 - BFIで”The Shop Around the Corner”の終わったのが19:20、そのまま隣の建物に移動してNational TheatreのLyttelton Theatreで見ました。開演は19:30。
原作はOscar Wilde、彼が最後に書いた戯曲で、初演は1895年。演出は(こないだ”Macbeth”を見たばかりだわ、の)Max Webster。ポスターやビジュアルは原色ピンクで演劇のそれには見えない。日本語題だと『真面目が肝心』 。「真面目が肝心」というからには真面目であるとは、不真面目であるとはどういうことか、をきちんと示す必要がある。そういうとこを押さえつつバカなことばっかやっているのですんごく笑えておもしろかった。
オープニングは真っ赤なドレスで女装したAlgernon (Ncuti Gatwa)がグランドピアノを叩きながら絶唱する、その周りで金魚のようなダンサー(登場人物?)たちが舞うディナーショーの演出で、モダンでキッチュでクィアでゲイで、何重ものひらひらで目眩しにあって、そんな二重のアイデンティティを維持していくことに生の歓びを見出している(この生き方は”Bunburyism”と説明される)彼が、田舎ではJack、都会に出るとErnestと名乗ってやはり二重のIDを使い分けて平気な顔のJack (Hugh Skinner)と出会って、それとほぼ同時にそれぞれが運命ぽい女性Cecily (Eliza Scanlen)、Gwendolen (Ronkẹ Adékoluẹjo)とぶつかって、なんだか結婚したいかも、ってなったりするものの、素の本性をリアルにさらけ出さないわけにはいかない婚活において彼らの信条である”Bunburyism”のありようが揺さぶられて、こんな奴らに結婚なんてできるのかしら? という辺りで巻き起こる互いの足を引っ張りあったり互いにカバーしあったりのどたばた喜劇なの。
表の顔(名前) - 裏の顔 (名前)と共に生きる、みたいなことについて、なんでわざわざそんなことを? になってしまう子供にはちょっと難しいかも。わたしは80’sを通過してきたので、この辺の真剣なバカバカしさ(オルタナでEarnestという名前をもつことの重要さ)、しょうもないと思いつつも止まらない衝動と虚構を滑っていく紙一重のスリル、あーなにやってるんだろ? がものすごく腑に落ちてきてたまんなかった。
実際にはSNLのスケッチみたいな(Eddie MurphyとWill Ferrellが激突しているような)ショートコントがメインの連中からも脇役からもボケvs.つっこみではなくボケvs.ボケのノンストップで繰り出されては炸裂し転がっていくのでどうやって決着つけるんだろ? と思うのだが、そのうちこれらの応酬はぐしゃぐしゃの混沌に向かうのではなく、全てが結婚という制度の過剰さ、滑稽さに繋がっていること、これを通過してもなお個が個として生きるには、という割と真面目なテーマに向かっていることがわかってくる。
そして真ん中の2組のカップル以外の脇役- 牧師Canon Chasuble (Richard Cant) とかMiss Prism (Amanda Lawrence - SWのEP8〜9に出ていた嘴鼻のひと!)とか、Gwendolenの母Lady Bracknell (Sharon D Clarke) - 宇宙のすべてを束ねているかのようなドスのきいた貫禄 - も混沌に拍車をかけにくるのだが、あ、それ言っちゃうのか… になっても別の変人がきれいにカバーしたりひっくり返してくれたり、全員がなんか引っかかるけど、ま、愛しあってるならいいか(あんまりそうは見えないのだが)になって、最後はパレードのように羽根をばさばさ、みんなくるくる回っていくの。幸せになれるよね! って。
このプロダクションが10年前に実現できたかというと、やはりちょっと難しかったのではないか、という気がして、縁談〜結婚も含めた人との関わりかた - “Social”のありようが結構変わってきたのでは、とか”Bridgerton” (2020-) - シーズン1しか見てない - の登場とヒットがもたらしたものって小さくなかったのではないか、とか。
にっぽんでも夫婦別姓や少子化テーマにこんなおちょくり劇をやっちゃってもいいのにな。やるなら今だと思うなー。
12.21.2024
[film] The Bishop's Wife (1947)
12月14日、土曜日の午後、BFI Southbankで見ました。
今年もクリスマス映画の季節がやってきて、シアターが複数ある映画館は、必ずどこかでクリスマス映画のクラシック - 古いのから新しいのまで - を上映してくれるの。
“It's a Wonderful Life” (1946)なんて絶対絶対どこかでかかるし、TVでもやるし、それで実際に人々はシアターに家族や友人と一緒に見にいく - 自分もまたしてもなんとなく取ってしまった – のってすごい。
今年のBFIは“It's a Wonderful Life” (1946)とか↓のとか、”Meet Me in St. Louis” (1944)とか、”Carol” (2015)とか、いろいろで、たまにこれまで見たことがなかったのもあったりして、これもそんな一本。 邦題は『気まぐれ天使』だって。
監督はHenry Koster、原作はRobert Nathanの同名小説(1928)、脚本にはuncreditedでBilly WilderとCharles Brackettの名前がある。撮影はGregg Toland。 96年に“The Preacher's Wife”としてDenzel WashingtonとWhitney Houstonの主演でリメイクされている(未見... いやTVで見ていたかも)。
司教のHenry (David Niven)は地元の教会の大聖堂建築のための資金集めにひとりでいらいらきりきり苦労していて、妻のJulia (Loretta Young)と娘のDebby (Karolyn Grimes)とでっかい犬はやや放っておかれてかわいそうで、そんな彼らの前にDudley (Cary Grant)という男が現れて、Henryに向かって自分は天使である、という。
そんなの信じるか、って疑って相手にしようとしないHenryの脇で、Dudleyは簡単にJuliaやDebbyの心を掴んで魅了して、大学教授とかスポンサーになる裕福な婦人とかを虜にして寄付金を出させて…
David Nivenの度量があるんだかないんだか微妙な - 結果としてそこらにいるただの善人になってしまう巧さと、なんといってもCary Grantのとてつもなく怪しい、けどチャーミングで、どう取ればよいのかわからない謎の笑顔が宙を回りだして止まらなくなる天使 – 悪魔ではないし怪人でもないし、やっぱり天使としか言いようがない彼の存在が際立っていて、このお話しがクリスマスに起こることについて、なんの疑いもなくなってしまう、それ自体が魔法のような。
Gregg Tolandの、なにをどうやったらあんな絵が撮れるのか、ちょっとした「魔法」ぽいシーンもあるのだが特撮でもなんでもないように落ち着いて見える、リアル魔法使いは彼なのではないか。
終わると拍手が起こるのもクリスマス映画で、明るくなると隣のひとと目を合わせて「すばらしかったねー」って言い合ったりする。だからクリスマス映画特集って必要なんだと思った。
The Shop Around the Corner (1940)
12月14日の夕方、↑のあとに見ました。
これはもう何十回も見ているErnst Lubitschの問答無用のクラシックRom-com、と言われているしそうだと思うし。ブダペストの街角にある革製品屋でクリスマスに向かってちょっとした騒動が持ちあがり、クリスマスの日に冗談のように解消してしまう、それだけのあっという間の。
文通だけで盛りあがって互いの外面も名前も知らない、けど実は同じ職場にいるKlara Novak (Margaret Sullavan) とAlfred Kralik (James Stewart)の恋の行方と、彼らが勤めるお店のパワハラ店主Hugo Matuschek (Frank Morgan)の妻が浮気していた、というお話。途中でAlfredは文通の相手が同僚のKlaraであることを知ってしまうし、Hugoは妻の浮気の相手を知ってしまうし、情報を握ってしまった男性が話を優位に進めていってしまうとこがちょっと気に食わないのだが、これはサンタクロースが男性であることと一緒なのであろうか、とか。
これも終わると拍手が。デートで見たとしたら、あのふたりはあの後どうなったのか、そのまま延々話しこんでしまいたくなるやつ。
12.20.2024
[music] Gig for Gaza
12月13日、金曜日の晩、O2 Academy Brixtonで見ました。
Paul WellerがガザのためにFundraisingのライブをやる - チケットもグッズも売り上げはすべてMAP (Medical Aid For Palestinians) and Gaza Foreverに寄付 - と聞いて、デモなどにぜんぜん行けていなかったごめんなさいもあって、発売日にチケットを取った。フロアのスタンディングは体力的にきついので2階の椅子がある方で – どこまでも後ろ向きでしょうもないのだが。
主催者側からは18:45から始まるよ、という通知があったので、早めに行ったのだが、入口のセキュリティ・チェックがものすごくて(まあそうよね)、入れたのは18:50くらい。すでに最初のLiam Baileyは始まっていた。 会場全体の雰囲気はすごくポジティブで暖かくて、彼の歌に気持ちよく揺れている。
アクトの合間にパレスチナの惨状を見てきた医師や学者のひとがスピーチしたり現地の動画やグッズを買って支援しよう、等が流れて、その始まりや終わりには度々デモのシュプレヒコールが起こる。今回出てくる個々のパフォーマーのファンというより、はっきりと今のGazaをなんとかしたい、と強く思ういろんな人たちが集まってきているような。
最初のメジャーなアクトであるKneecapが出てきて、これがよい意味で大物感とかゼロで、はじめはPAをセットしているあんちゃんかと思ったらそのまま毛糸帽を下げてDJをはじめて、そこに客席からそのまま来たのではないか、というくらい素の若者ふたりが混じって落ち着きなくおらおらがなり始める。ヒップホップのライブは久しぶりだなあ、と思って前に見たのはいつくらいかしら? と思うと、たぶんBeastie Boys... ?
俺らもベルファストっていうちょっと荒れたところから来たんだけど… っていう言葉がなんか切なくて、それとは別にとげとげ跳ねまわってどこにも収まらない - 捕まってたまるかの音が気持ちよい。 最後が映画の終わりの方で流れていた”H.O.O.D”で、これは見事にかっこよかった。 映画の”Kneecap”もぜったいおもしろいので、日本でも公開されますようにー
会場に来て最大の驚きはトリが発起人のPaul WellerではなくてPrimal Screamだった、ことかも。なんか、なにに遠慮しているの? とか。
彼のライブを最後に見たのはNYでの"Wild Wood" (1993)の時のツアーだったので、もう30年前かあー。こないだの映画”Blitz” (2024)で久々に彼を見て、なんだかよりかっこよくなった気がしたのだが、その感触をそのままそのとおりーってハン押ししてくれるような見事に締まったよい音だった。
ギターの坊や(って歳でもないはずよね、もう)は変わらずSteve Cradockで、曲によってドラムスが2人、鍵盤とサックスと。Curtis Mayfieldがやっていたような70年代のコンボ・セッションバンドのようで、彼がずっとそういうのに憧れてきたのは知っているが、ようやく中味がついてきた(なんて失礼な)というか。
“Shout to the Top”をやって、かつてのまだ見えない高みに向かってわめく、というよりそこまでの段差も見据えて訴えているし、数曲おいての“My Ever Changing Moods”も、ふわふわきょろきょろしていたあの頃の自分をどつきつつ、安着のようなところだけは回避しようとしている - あの頃になんでこんな曲をだして、今もどうしてこの曲をやるのかをぜんぶ歌いながら説明してしまう。これがPaul Wellerなんだよ。
あと、”Blitz”で、日だまりのなか、猫と一緒にピアノを弾いていたあのおじいちゃんが.. っていうのもなんかたまんなくて。
Primal Screamをバンドとして見るのはたぶん初めてで、でもBobby Gillespieだけは結構いろんなライブのゲストで歌ってたり客席にいたり、なので初めてのかんじがしない。女性ヴォーカルが2人、ベースはもうマニではないのか。眩しい純白のスーツで出てきてそれを脱いでも小綺麗でひょこひょこカッコつけてて、これならトリもしょうがないか、って。
2曲目で”Jailbird”をやって、”Loaded”をやって、”Movin' on Up”をやって、これらってもうクラシックの部類に入ると思うのだが、所謂70’sのクラシックとはぜんぜん違う枠だよねえ、とか(だからどう、ということではなく)。 最後の”Rocks”ではPaul Wellerがギターを抱えて入ってくるのだがぜんぜん楽しそうに上げて盛りたてるお祭りジャムにはならない/しないところもまた…
うん、今宵はお祭りで盛りあがって楽しんじゃえ、のノリにしなかったのはとても正しいような気がした。 Ceasefire Now! しかないからー。
12.19.2024
[film] Soundtrack to a Coup d'Etat (2024)
12月12日、木曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。
日本公開されるのかどうか不明だが『クーデターのためのサウンドトラック』。 監督はベルギーのJohan Grimonprez。LFFでも結構話題になっていたドキュメンタリー作品。2時間半とやや長いが見応えはある。
音楽の政治利用を異様に毛嫌いする傾向にあるらしいにっぽんの若者にぜひ見て貰いたい。政治は音楽を利用するし、音楽は政治に介入する - Louis Armstrongの歌っていた "What a Wonderful World" なんてそんなもの。
植民地の時代の終わりと冷戦の始まり、その間に勝手に板挟みにされてずたずたになってしまったアフリカのコンゴ共和国の悲劇 – ここに公民権運動が内戦のように立ちあがり始めたアメリカの事情と当時の音楽が重ねられて、最初は視点がどこにあるのか、視野はでっかいのか狭いのかよくわからず、すべてが繋がって全体が見えてくるのに時間が掛かるものの、わかってくると”Dahomey” (2024)と同様、植民地支配の恐ろしさと不条理、なんなのこれ? がじっとり大量にやってくる。
1960年、独立化によってコンゴの天然資源(ウラニウム)を失いたくない支配国ベルギーは、アメリカのアイゼンハワーに泣きついて、これを横で見ていたソヴィエトのフルシチョフがふざけんな、って(核のパワーゲームに影響がでるから)国連の演台に靴を叩きつけ、盛りあがり始めていた独立運動をなんとしても軟化させたいアメリカ政府はLouis Armstrongの楽隊を現地に送りこみ、という四方八方からなんでも飛びだしてくる展開。 自国で人種差別への抵抗の音楽として立ちあがり広がっていったJazzが、植民地支配を継続させるための宣伝のように使われてしまうという皮肉、ディレンマに直面するNina Simone, Duke Ellington, Dizzy Gillespieといった音楽家たち。
音楽による軟化・懐柔施策がうまくいったのかいかなかったのか(たぶんうまくいってない)、最後の方はやけくそとしか言いようのない現地での悲惨な虐殺やサボタージュが横行して、正当な選挙で選ばれて独立コンゴの初代大統領となったPatrice Lumumbaも簡単に暗殺されて、それを受ける形で国連の議場でAbbey LincolnとMax Roachたちが大暴れした件で幕を閉じる。いまのイスラエルと同じ、なぜそこまで?の「?」が何重にも渦を巻く。こうやって眺めてみると戦後のアメリカって自国の外ではほんとろくなことをしていないし、そんな国の忠犬になって尻尾を振りまくるにっぽんも相当なー。
そしてこの資源を巡る醜い争いは、iPhoneの原料確保~寡占、を巡って未だに続いていて、経済が絡むのでより見えにくくなって(誰かが見えないようにして)いるけど、とても歪で出口がない、という点、あるいはいろいろ絡みあって積もった不幸の総量、という点では何一つ解決していないのかもしれない。先はどこまでもしょうもなく暗い。
これと”Dahomey”にあったような現地からの略奪、盗難の視点を重ねてみると、文化(的なもの)がいかに酷い目にあっていいように使われてきたか、を改めて見渡すことができる。伴奏するサウンドトラックではなく、突端を切り崩す革命の音楽がやっぱりほしい。
ニュース映像を重ねていきながらストーリーを浮かびあがらせていくスタイルで、少しだけ欲を言うと、史学者や当時の音楽関係者からのきちんとしたコメントが欲しかったかも。ミュージシャン当事者のは少しあるのだがー。
12.17.2024
[film] Nightbitch (2024)
12月11日、水曜日の晩、Barbican Cinemaで見ました。
脚本・監督は”Can You Ever Forgive Me?” (2018)や”A Beautiful Day in the Neighborhood” (2019)のMarielle Heller、原作はRachel Yoderの同名小説(2021)。 London Film Festivalでも上映されていたがチケット取れなかった。
名前で呼ばれることがない母(Amy Adams)がいて、ずーっと2歳の小さな息子(これも名前がなかったかも)の面倒を見ている。起きて冷凍のハッシュブラウンをフライパンで転がして、公園に連れて行って放牧して昼寝させて、スーパーに買い物に行って、一緒に遊んであげて、たまに図書館で輪になって歌おう、みたいな集まりでママ同士の会話をしたりするが、それで新しい友達ができたり世界が開けたりするわけがなく、どこまでもその繰り返しで休んでいる時間がない。やはり名前のない夫(Scoot McNairy)は仕事で家にいないことが多く、でも育児や家事に非協力的だったりDVだったりすることもなく、割と傍にいてくれるほう、であるとしても結果的に母が休んでいる暇はなくて、休むというより疲れてぼーっとして終わる類のあれで、冒頭からしばらくは、それ(育児)がどれだけ大変でめんどくてやってらんなくてしんどいか、が延々描かれていく。
彼女はもともとはアーティストで、子供がいなければアートの道に進んでいきたかった、のだが今はなにをどうしたってこの状態から抜けることはできない。
疲れきった状態で、ある日どんより自分の体の状態を眺めてみると、お尻に長めの毛が生えてきたり、歯が少し尖ってきたように見えたり、匂いに敏感になったり、でもそんなこと気にしている暇ないし、気にしてどうする? ってやっているうちに体の変化は…
元のきっかけというか狙いは、育児という誰もがなんの疑いもなく母親の役割・仕事と世間に思われて押しつけてくる作業- オフィスの仕事の数倍の献身と集中力と気苦労をもたらす、けど誰からもまともに評価されず報われることがない – が母親をモンスターにしてしまう – そりゃモンスターにだってなるよね、というところから、モンスターだと難しいけど犬なら… ということだったのではないか。でも映画は夫に冗談で”Nightbitch”と呼ばれた彼女が犬になって、他の犬と一緒に夜の町をばうばう走り回って、ほぼそれだけで終わってしまう。
犬になってしまったのだったら、他の犬(母たち)と群れて荒れて夜の町の脅威となってほしかったし、BitchならBitchとしてケツまくって蹴散らすものがあったはずだし、でもそこまではいかない。 図書館の司書(Jessica Harper – すばらし)だけに正体を見抜かれて、なでなでしてもらうくらいで、そんなに小さな、疲れた母の妄想でした.. みたいなリアルなとこに落としちゃってよいのか? って。
もちろん彼女は悪くないし、誰も悪くないし、育児って昔からずっとこういう大変なものだったのかもしれない、でもだからと言って彼女の疲労や喪失感をぽつんと放っておいてよいものとは思わない – というところに、こんなふうにやっちゃったりして、という太くて強めの何かが出てくればー だったのだが。
Amy Adamsはすばらしい。積もっていく不満と溜まっていく不安を無表情とかボディの放置〜無頓着も含めて見事にやわらかい丸みとテンションで伝えてくれる。そんな彼女の姿を見るだけでもー。
他の動物への変態、というと”Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance)” (2014)あたりに近いのかしら。
彼女が結婚せずにアーティストになっていたら、Kelly Reichardtの“Showing Up” (2022)のMichelle Williamsのようになっていたのかもしれない、とか。
あと、やっぱり犬なのか。猫ではないのか、とか。
猫だとCatwomanのイメージがあるから? Avengersとまでは言わないけど、Thunderbolts*あたりに入れてあげればよいのに。
[art] Paris -
12月6日~7日、金曜日から土曜日にかけてパリに行ってきました。遊び。観光。
パリは11月7日に日帰りで行っているので約一ヶ月ぶりで、今回のきっかけはオランジェリー美術館でやるというゴダールの遺作« Scénarios »の上映で、予約が必要とあったので11:30に予約して、でもその時間だと朝一のEurostarだとぎりぎりになる可能性があることに直前で気づいた、ので前日に入ることにした。パリなら何十泊しても(したことないけど)へっちゃらのはず。
そしたら、オランジェリーのゴダールは壁にプロジェクターでタイマー投影しているだけのしょうもないので、展示物も含めた同じ内容かそれ以上(同時上映作を多数含む)のがこっちのICAでかかり始めたので憮然としている。
以下、主なところをー
Corps in-visibles @ Musée Rodin (ロダン美術館)
ロダンの「バルザックのドレスのための習作」と題されたデッサン数点、石膏彫刻の習作からロダンが格闘していったバルザックの不格好でみっともない身体 - 当時のモードやら慣習やらが覆い隠そうとしていた彼の肉の置き場所・覆いようを示して、それは彼の小説が描き出そうとしていた世相や社会の様相ともどこかで繋がっていたのではないか、など。バルザックの身体の、変てこな生ハムのようにも見えるそれの考察として、なんとおもしろいことだろう、と。
ここの常設展示も庭園も何年かぶりだったが、いつ来てもしみじみよい。秋から冬に変わろうとしている頃の光と。
Olga de Amaral @ Fondation Cartier pour l'artcontemporain(カルティエ財団現代美術館)
コロンビアの織物作家のヨーロッパで最初の回顧展だそう。
自分は布とか糸を使って織ったりした作品が好物なのかもと思ったのは2018年、Tate ModernでのAnni Albersの企画展示で、こないだ日本に行った時も大倉集古館での志村ふくみ100歳記念展に痺れたのだったが、しかしこの化け物のような滝のようなでっかい創造物にはやられる。怪物の皮膚のようだし、どこかで発見された鉱物や化石のようだし、風に飛ばされてどこかに引っかかったり干されたりした植物のようでもあり、それらが屋外の、室内の光で浮かんだりなびいたり、その表情を刻々と変えていく美しさときたら。
ここの庭の隅に建てられたAgnès Vardaの猫小屋(La Cabane du chat)もようやく見れた。フィルムがずっと回っていて、お墓のところに猫の姿が浮かびあがるの。
Nadia Léger. An avant-garde woman @ Musée Maillol
Fernand Légerの二番目の妻 - Nadia Khodasevich Légerの作品を集めた展示。Malevichのワークショップにいたそうで、構成主義の影響が濃い素朴な前衛アート。Fernand Légerのそれとも繋がる。
Surrealism @ Centre Pompidou
先月きた時はすごく混んでいたのと、常設展示を見れなかったのでそこも含めてもう一度(しかしどっちにしても混んでた)。「超現実」の世界を見る、作るためには、やはり目の前の現実がどう見えていてそれがどう変容するのかを狙って追えていないと難しいよね、というところにこの展示の各セクションのテーマ設定はとても適切なものに見えるのだった。
Barbara Crane @ Centre Pompidou
地下の写真展示のところで。シカゴの写真家Barbara Crane (1928–2019)の小規模だがよく纏まった展示。現実っぽいところと宙に浮いたように見えるところをうまく組み合わせて、数を束ねていくことで見えてくる不思議な(リアル)アメリカの像。
翌日7日の土曜日はオランジェリーからで、久々だったのでMonetの睡蓮からちゃんと見ていった。
睡蓮、ぼーっと見るのは好きなのだが、絵(壁)の前でポーズとって動画を撮影している人たちが多すぎてなんなの?だった。そんなに「絵の前に立つ自分」を見てもらいたい?目の前の絵を見るのじゃなくて? 自撮り棒が廃止になったように、はっきりと迷惑なので廃止すべき。
ゴダールのは、1時間くらい見ていたけど、やはりがっかりで追悼のしようもない - そこが狙い? - のだった。
Heinz Berggruen, un marchand et sa collection
ドイツの画商の、主にピカソとクレーを中心としたコレクション。ピカソもクレーもとても幅が広いし、ずっと変わっていった画家たちなので、並べかたがやや乱暴な気もした。素敵な絵はいくつもあったのだが。
Pierre Bonnard - Bonnard au Cannet
パリ市立現代美術館(Musée d'Art Moderne de Paris)の常設展示の一部で。
テキサス州フォートワースのKimbell Art Museumからボナールの”Paysage au Cannet” (1928)を持ってきて、そこにÉdouard Vuillardが描いたボナールがアトリエでこの絵を描いているところ(この絵であることははっきりわかる)の肖像を並べていて、おもしろい。他に並んでいたボナールの大きめの絵2点もよくて、常設なのでタダで見れる。ここの常設ってすごくよいのね。藤田のヌードとかも。
Ribera - Shadows and Light @ Petit Palais
先月来た時に見れなくて悔しかったJusepe de Ribera(1591-1652)の展示。やたらドラマチックなヘビメタみたいな画家かと - 黒が多用されていると勝手に - 思っていたが、そうではなくて、子供、婦人、老人などの表情の造りとかとてもおもしろくて飽きない。Caravaggioが一枚の闇の奥にすべてを込めてしまうのとは対照的に、Riberaの絵の登場人物たちは、それぞれのストーリーを背負って絵の中にやってくる - 絵の外に繋がっているような。 カタログ買ってしまった。
Bruno Liljefors - Wild Sweden @ Petit Palais
同じとこで、スウェーデンの画家の動物の絵。猫とかウサギとか、みんな動きがあってかわいい。日本画からの影響も指摘されていた。
Christofle, une brillante histoire @ Musée des Arts Décoratifs(パリ装飾美術館)
食卓のナイフ・フォークといった銀食器だけでなく、花瓶から時計からシャンデリアから鎧まで装飾全般なんでも。ティファニーとかより日々のいろんなのに関わっているんだなー、って。ティファニーもそうだけど、まるごと揃えないとあんま意味ないような(だから結局関係ないって)。
Mon ours en peluche @ Musée des Arts Décoratifs
英語題は”My Teddy Bear”。テディベアの成り立ちと歴史、そこから派生したアートまで縫われ熊のすべて。サーカスの熊から入って、PoohとかPaddingtonとか、お話しを経由してぬいぬいへ。解説とか見ないでひたすら熊をみる。 横になれる休憩コーナーにはでっかいのが転がっていて…. 熊好きには相当やばいかも。ショップになんかあったらどうしよう… だったが、そこはだいじょうぶだった(商売へたねー)。
あとは本屋でYvon LambertとL'INAPERÇUに行った。後者ではMartin ParrキュレーションによるBest of British - 英国を撮った写真集(含.古本)ベストの展示・販売をやってて、散々悩んで重いのを買ってしまった。
ここの外に出たら雨がきて、この後にShakespeare and Companyに行くついでにノートルダムでも見ようと思っていたのだが、バスとかぜんぜん来ないし天気も荒れてきたので、La Grande Épicerieで食べ物買って帰った。北駅までの地下鉄は地獄のように混んでいた。クリスマスなのにシャンゼリゼも見なかったわ。
[film] Iris (2001)
12月8日、日曜日の晩、BFI Southbankで見ました。邦題は『アイリス』
ここで今月、”Richard Eyre: Weapons of Understanding”という特集をやっていて、上映前に監督Richard Eyre とJudi Dench、Jim Broadbentによるイントロがあった。当初の告知にJim Broadbentは入っていなかったのだが。
Richard Eyreというとやはり演劇の人、というイメージがあって、映画的な意匠・スタイルがどう、というより演劇のドラマ(的ななにか)をどう映像に持ちこんでおとしていくのか、それを実現するためにまず舞台出身の俳優がくる、とか。それを通して映画と演劇の違いも見えてくるだろうか、とか。でもまず見ないことには。
音楽は”Titanic” (1997)で当時波に乗っていたJames Horner。
作家Iris Murdochの夫John Bayleyのメモワール”Elegy for Iris” (1999)を原作に彼がIris Murdochと出会って結婚してから晩年までの42年間を描く。
Kate WinsletとHugh Bonnevilleが若い頃の彼らを演じていて、Hugh Bonneville → Jim Broadbentはよく似ているのでわかるけど、Kate Winslet → Judi Denchはどうなのか。イントロでJudiさんは「身長がちがうのよね。彼女でっかい..」って。169cm → 155cm - そんなに縮んじゃうのか…
若い頃、ふたりが出会った頃、ものすごく活発で勝手に前に引っ張っていくIris (Kate Winslet)と見るからに奥手の年下でガリ勉くんのJohn (Hugh Bonneville)の組み合わせと、アルツハイマーを発症して全てに懐疑的になり内に籠って次第に暴力的になっていくIris (Judi Dench)と彼女をどうにか抑えて抱きしめようとするJohn (Jim Broadbent)の奮闘・ぶつかりあいの対比 - エピソードのどれもが大変だったんだろうなー、と思いつつも、あくまでもJohnの視点からのものでしかないので、ぜんぶその通りに受けないほうが… というのは少し思った。
ただ、中心の4人の、ずっと愛と敬意を込めてお互いを見つめていって止まらないかんじ – これらが場面ごとにランダムに切り替わっていく構成はよくて、これが時間軸を跨いで無理なく機能しているのは俳優の力だねえ、と思った。
あと、Iris Murdochの作品とか思想に殆ど触れていない –ここで描かれた彼女の行動を見よ、なのかもだけど。
いきなり、久々にTVにテレタビーズが出てきたので少し動揺したり。
Play for Today: Comedians (1979)
12月1日、土曜日の晩、↑と同じ特集で見ました。イントロに監督Richard EyreとJonathan Pryceのトークつき。
BBCの”Play for Today”という1970年から84年まで14シリーズ、300以上のエピソードが制作されたTVシリーズがあって、ここのシリーズ10で放映された一本。作品によって長さはばらばらなのだが、これは94分、こんなのをふつうにTVでやっていたってすごい…
原作はTrevor Griffithsの戯曲で、Richard Eyreがノッティングヒルで演出していた舞台をそのまま持ってきて、Jonathan Pryceは舞台版でも出演していた - ので制作は割とスムーズだった、と。
夜学で、コメディアン養成クラスのようなのがあって、そこに集まってきた6人のコメディアン志望の若者とかおじさんとかと、彼らに教える老いた先生のやりとりを中心としたドラマ。最初は教室でディスカッションをして、そこから実際のパブのようなところでのスタンダップの晩の顛末と、その後再び全員が教室に戻っての先生からの講評とこれからについて…
誰も彼も口先だけは達者だし自信あるので始めはでっかいことを言っていたのが、ライブではぜんぜんうまくいかなかったりで、最後はしょんぼりしんみり、ひとりひとり教室からいなくなっていく。コメディの笑えたり楽しかったりマヌケだったりのノリはほぼなくて、これからの(先の見えている)人生の嫌な重さが夜の暗さと共にやってくる…
Jonathan Pryceさんは最近の大御所の漂うふうはまったくなく、白塗りメイクだったりまだ元気いっぱい、というか不気味な得体の知れないかんじがとてもよかった。
12.14.2024
[theatre] All’s Well That Ends Well
12月5日、木曜日の晩、Shakespeare's Globeの中にある小さい方のシアター - Sam Wanamaker Playhouseで見ました。
Shakespeare's Globeは、ツアーで施設とかを見たことあったが演劇を見るのは初めて。ようやく。
シェイクスピアの『終わりよければ全てよし』。 演出はChelsea Walker。コスチューム等もすべて現代ふうに焼き直してある。シェイクスピア劇のなかでは喜劇、でも問題劇、とカテゴライズされるやつ。
身分の低い女性が身分が高くて届きそうにない男性を賢く陥れて強引に結婚してしまう、という建て付けのしっかりした物語、というよりどこかから流れてきた噂とか小噺、のような。
シアターは小さく縦に長くて、かぶりつきのようなPitがあって、バルコニーの1階(ステージより少し上の高さ)と2階と、席の境界も背もたれもなくて結構ごっちゃり詰まっていて、舞台も2階建てで2階には楽隊と歌手が、一階のステージの床には(この舞台では)ガラスが張ってあるので全体が宙に浮いているように見える。上演が始まると上にあがっていくシャンデリアにいっぱい刺さった蝋燭はほんもので、昔の芝居小屋はこんなだった、ということなのか。人がいっぱいで暑かったのを除けば、雰囲気はとてもよい。
冒頭、登場人物全員がモダンな黒服で、サングラスをしてファッションショーのように隊列を組んで現れる。そんな宙に浮いたランウェイの真ん中で起こってしまった事故のような – あれも終わりよければ全てよし … だから?
若くてイキっている貴族のぼんぼんBertram (Kit Young)がいて、彼にはりついている維新の政治家みたいにきらきら悪賢そうなParoles (William Robinson)がいて、中味ゼロっぽいのに俺らに恐いものなんてないぜ、って好き放題していてしょうもない。
孤児のHelen (Ruby Bentall)がBertramに思いを寄せているが身分の違いもあるので彼は振り向いてくれなくて、それでもHelenは健気にパンツ一丁でうろつくフランス国王の病気を治してあげたり、Bertramの母(Siobhán Redmond)からも理解を得たり、Bertramが寄っていったDiana (Georgia-Mae Myers)にも手伝って貰ったりしつつ自分の周りをしっかり固めて、もともと高慢ちきで承認要求まみれのバカな若者ふたりは戦争で舞いあがった状態で仕掛け網に簡単に引っかかって、赤ん坊と指輪の決定的な証拠を突きつけられて全面降伏するしかなくていい気味、しかない。
「終わりよければ全てよし」の終わりを「よし」とするのも全てを「よし」とするのもHelenを中心とした(主に)女性たちで、「終わり」を結婚と妊娠にしてしまってよいのか問題はあるものの、そういうゴールやルートマップを作った男性たちは戦争に行ったりやりたい放題なのでちっともかわいそうじゃないし、これで終わったと思うなよ、くらい言ってやれ、と思った。
などと思いつつも、Helen、ほんとにあんなクズ男と一緒になりたいの? 幸せになれると思う? というのも出てくる。どこだって似たり寄ったり - これより酷くなる可能性のが高いのだ、と言われてしまうのだろうか。(この問題は今でもリアルにありそう)
お芝居自体は舞台上の方で優雅に奏でられる謡曲と、戦争で荒れ放題になった下の方から客席までずかずか割りこんでくる軍の人たちまで、現実と華とが紙一重のレイヤーで重ねられていて、この「問題劇」のありようを正しく示しているように思えた、とこはおもしろかった - 昔の「問題」とはちょっと違うみたいだけど、これもまた終わりよければ… ということにして。
12.12.2024
[film] Miséricorde (2024)
12月8日の昼、Institut Français内のCiné Lumièreで見ました。
ぜんぜん追えてないまま終わっていたFrench Film Festival、気がついたら最終日手前で、Arnaud DesplechinのもLeos CaraxのもSophie Fillièresのもかかったし、Mathieu Amalricもゲストで来ていたのに、とってもがっくりきた。パリで遊んでいる場合ではなかった。
作・監督は“Stranger by the Lake”(2013) のAlain Guiraudie、今年のカンヌでプレミアされてQueer Palmにリストされ、Cahiers du cinéma誌の2024年のベスト1に選ばれている。英語題は”Misericordia” - タイトルをそのまま訳すと「慈悲」? - “Mercy”。
冒頭、フランスの田舎道をぐるぐる走っていく車から。”The Shining” (1980)の冒頭みたいにただ走っているだけなのに滲んでくる不穏さと不安。
車に乗っていた男 - Jérémie (Félix Kysyl)が一軒の家に入っていくと、そこにいたMartine (Catherine Frot)とVincent (Jean-Baptiste Durand)が少し驚いたように立ちあがり、Martineは彼を奥の遺体(きれい)が安置されている部屋に連れて行って対面させる。最初は関係が見えにくいがMartineとVincentは母子で、亡くなっているのはMartineの夫でVincentの父で、Jérémieは彼のところに雇われていたパン職人で、この村には葬儀のために久々に戻ってきたらしい。
葬儀が終わったらすぐ帰ろうとしていたJérémieをMartineは引き留め、かつてVincentが使っていた部屋に泊まるようにいうが、結婚して妻子もいるVincentはどうしてもJérémieが気に食わないようで沸騰してキレる手前でMartineが間に入る。
この村に久しぶりに戻ってきたらしいJérémieはVincentの飲み友達でだらしなくうだうだしている独り者のWalter (David Ayala)のところでパスティスを一緒に飲んだり、山にキノコを採りに行っている神父のPhilippe (Jacques Develay)と話したり、Martineには亡夫の写真を見せて貰って焼き増しを頼んだりしつつ、少し滞在を延ばしたい、と言ってくる。彼らとの間に過去どんなことがあったのか、滞在を延ばしたJérémieがなにを考えているのか、その時間でなにをしたいと思っているのかは不明だが、Jérémieがホモセクシュアルであるらしいこと、それで過去なにかがあって村を去ったこと、VincentのJérémieに対する憎悪もその辺に起因していることがわかってきて。
ここから先はネタバレになるかもなのであまり書きませんが、ある殺人とその死体の居場所を巡るじりじりとしたクライム・サスペンスに変わって、でも驚愕の展開やどんでん、などはなくて、前半にもあった誰がなにをどう考えているのかまるでわからない、「ふつう」の市民のあまりいない、全員がStrangerの掴めないトーンを維持しつつ、それがわかったとしてどうなるというのか、という不敵さ不穏さが冬に向かう暗い光のなか充満していって、その上にキノコがー。
秋の森の赤と橙、そのざわざわのなかを進んでいくカメラがすばらしくて、森のつながりから濱口竜介の『悪は存在しない』に対して『悪は存在する』と言ってしまいたくなる、そんな景色の置かれかた。守られるべき鹿の水場に対するキノコの…
ひとは他者をどうやって受けいれるのか or 排除するのか、について、受けいれる側も受けいれられる側も双方が何を考えているのかわからない and わかろうとしない状態に置いた時、そこで例えばクイアネスはどんなふうに作用するのか、など、深く洞察するというより軽くおさえてみました、くらいか。
俳優は全員 - 警官も神父も、どいつもこいつもすばらしく得体がしれなくて動きも不審で目が離せない。全員すでにゾンビだったとしても驚かない、そんな存在感をもった人々。
12.11.2024
[music] Helmet
12月10日、火曜日の晩、CamdenのElectric Ballroomで見ました。
この時期はクリスマスパーティとか忘年会が面倒なのであるが、こっちの呑み会のよいところは、みんな立って適当にわーわーやっている(or 食べたいひとは隅で適当に食べている)だけなので抜けようと思えばいくらでも抜けられることなの。
というわけで、20時半くらい - 前座が終わる頃に会場につく。こんどは転ばないように注意しつつ。
会場はやはり年寄りだらけか、年寄りに付きあわされてやや迷惑そうな若者とか。リリース当時、生まれてもいない連中がこんなのに来たって楽しいはずがあろうか。
Helmetの3rd. “Betty” (1994)の30th Anniversary Live。2019年にはバンド結成30周年のライブ(30x30x30)をIshlingtonで見ているが、それ以来。
“Betty”はリリース時のライブをNYのRoseland Ballroomで見ていて – Sick of It Allが前座だったので2周目だったのか – この後にバンドからJohn Stanierが抜けてやがてBattlesを作って .. 前作”Meantime” (1992)の成功の後、前のめりの鋭角線を刻んでいた音が面とかブロックとかマス(塊り)とかを形作るようになる少し手前、完成度云々よりもこれらの外延を探っていく手ごたえのようなものがダイレクトに感じられる。 彼らの技量をもってすれば“Meantime”の線で、House of Painと一緒にやった"Just Another Victim"だってあったのだし、あのまま大メジャーに行くこともじゅうぶんできたはずなのに、行かなかった… – これも自分にとってはとても1994年的な。
最初のセットは1曲目の"Wilma's Rainbow"からほぼ喋りも入れずに通しで。
会場の音がよいのか、バンドとしてよい状態になってきたのか(メンバーは変わらず)、30x30x30の時よりも断然よい鳴りで気持ちよいったらない。
あとはぶっとばしていないところに滑りこませてくるJazzみたいなフレーズとか遊びとか。音を消してPage Hamiltonがギターを弾く姿だけ見たらジャズの人みたいに滑らかにしなやかに見えるのではないか。
ひと通りやった後に15分休憩を入れてその後に”Betty”以外から8曲。こうやって並べられると”Betty”がいかに特異な - 美しい、と言ってよい? - 世界を作っているか、よくわかるのだった。
終わりのほうで、トランプの再選について、真剣に怒ってぼろかす言っていた(なんでよりによってあんなくそったれをふたたび? など) いいぞーもっとやれー。 その流れで、イギリスはいいよな、って。さらにバーミンガムっていう街があるだろ、そこはすばらしいバンドを生んだとこでもあってな、ってBlack Sabbathの“Symptom of the Universe”を。カバーだとぜったいかっこよくなってしまうSabbath。
アンコールは(本編でやらないのならぜんぶアンコールまわし、が露骨すぎる)”Give It” - “Unsung” - “Just Another Victim” - “In the Meantime”で、30x30x30の時にも思ったけど、これらは懐かしいとかそういうのじゃないよなー。
Cursive
11月13日、水曜日の晩、Camden Assemblyで見たのを書くの忘れていた。
会場に行く手前の車道でなかなか派手に転んで、ジーンズの膝のところが切れて、ライブ中にそこらじゅう痛いし出血してべたべたなのをううきもちわる、とか思いつつ見たのであまり集中できなかったのだが、それはもちろんバンドのせいじゃないから。
ここでは2 daysやって、初日は新譜 - ”Devourer”の全曲披露+αで、この日が通常のセットで。 それにしても会場が小さすぎて、Feverよりも、O-Nest(ってまだあるの?)よりも小さい。バンドに失礼ではないか、というくらい。なのでもともとガタイのでっかいベースとギターで両脇ぱんぱん抜け道なし、ドラムス、キーボード(&管)、チェロにTimが入るとステージがステージと呼べないくらいのモッシュになっていた。
2曲目で”The Ugly Organ” (2003)から”Butcher the Song”をやって、あのイントロだけでみんなざわざわして - 後からTimにその様子をからかわれていた – とにかく、00年代前半の音楽はNYのポストパンクと、オマハのSaddle Creekでまわっていたのだし、Tim Kasherが稀代のメロディメイカーであることはみんな知っているので、何がでてきても、わおーってなって楽しい。でもやっぱり”The Ugly Organ”からの曲が抜きんでている気がしたのと、これは昔からだけどTimが元気に声を張りあげているのを見るだけでなんかよいの。
どうでもいいけど、”The Ugly Organ”の頃のメンバーでチェロをやっていたGretta Cohnさんて、今はMalcolm Gladwellが作ったPodcastの会社のCEOなのね。
最後は、これも名曲の"Dorothy at Forty"で、でもこれももう20年前.. とか思うといろんな傷が疼くのだった。
そしてもういっこ疼いていた膝のかさぶたは3日前にとれた。
[film] Christmas in August
BFI Southbankで先月からやっている特集 - “Echoes in Time: Korean Films of the Golden Age and New Cinema”からあれこれちょこちょこ見ているのだが、ちゃんと感想を書くことができていない。この特集、2023年にNYのLincoln Centerであった特集”Korean Cinema’s Golden Decade: The 1960s”- (ぜんぶ未見)と被っているのも多くあるのだが、そうでもないのもあって、NYのほうのリストにあった怪獣映画がないのがちょっとかなしい。
Goryeojang (1963)
12月2日、月曜日の晩に見ました。作・監督・制作はキム・ギヨン。邦題は『高麗葬』。リストア版。
貧しい山間の村に男の子を連れた女性が、その子を養うために後妻としてやってきて、でもそこには既に少年の異母兄たちが10人くらい – 太っているのもいるので本当に飢えていたのか? いっぱい群れてて、村の巫女がこの子は村を滅ぼすだろう、などと予言したので男の子は蛇に噛まれて足に障害を負うことになり、時が流れて彼が大人になっても彼らに対する吊るしあげと虐めの構図は変わらなくて、最後には雨乞いをすべく彼が老いた母を背負って山奥に捨てにいって... という悲惨な姨捨山の話 – 鳥に食べられちゃうの - と、それに続く息子の凄惨な復讐劇が展開されて、どこまでも底抜けに酷くて暗い。当時の政治状況を反映した寓話のようなものらしいが、ここまで... 擦れてぜんぶ廃品のようなモノクロの画面がゴヤの暗い版画みたいで。
Christmas in August (1998)
12月4日、水曜日の晩にBFI Southbankで見ました。
邦題は『八月のクリスマス』(これが『8月のクリスマス』になるとこれをリメイクした邦画作品 – があるなんてことすら知らなかったわ - になる、と)。
Preston Sturgesの名作コメディ”Christmas in July”(1940) - だいすき - に関係あるのかと思ったら、ぜーんぜんないのね。
監督はこれがデビュー作となるHur Jin-ho。
30代でひとり町中の小さな写真屋をやっている男 - Jung-won (Han Suk-kyu)がいて、持ちこまれたフィルムのプリントをする他に店内のスタジオで近隣の人の家族写真や肖像写真も撮ったりしていて、結婚はしておらず、結婚している姉か妹も含めた家族と一緒に特に問題なく暮らしているように見える。
彼のところにくるいろんな客とのやりとりと、なかでも駐車違反の車を取り締まる女性警官Da-rim (Shim Eun-ha)との日々ゆっくり縮まっていく距離をゆるやかに追っていく。
途中で彼が具合悪そうになったり入院したりする場面があって、難病モノなのか、って身構えてしまったりもするのだが涙の洪水や雪崩は起こらず(起こさず)、日々の瞬間を淡々と切り取って像にする写真屋の仕事とその周りの柔らかめのエピソードを重ねていって、なんでこんなことがぁー?という悲嘆で染め抜くようなことにはならない。
真ん中のふたりのやり取りもどこまで行っても小学生みたいな雨宿りとか彼が何も告げずに病院に入ってしまった後も店に手紙を落としておくくらいでじれったくてしょうがないのだが、そういう日々を通して彼が何を見て想っていたのかが最後、彼の遺した手紙で明かされるとああー って(みんな泣いてた)。
クリスマスのいつまでも待ちきれないかんじとやってきた時の歓喜とずっと行ってほしくないかんじ、それは縁側でスイカの種をぶーっとかやっている時の夏のだらだらとはぜんぜん違うやつだったねえ、って。
いわゆる難病モノが嫌なのは、残された/残される人のためにすべてがセットアップされている押し売りの貧しさ、なのだが、この映画は他人事のような、他人の写真を撮っているかのようなしらじらしさが底にあるようでよかったかも。
12.10.2024
[film] Conclave (2024)
12月3日、火曜日の晩、CurzonのBloomsburyで見ました。とにかく音のよいところで見るのがおすすめ。
原作はRobert Harrisの2016年の同名ベストセラー小説。 監督は(共同脚本も)Edward Berger。ヴァチカンでのConclave - 世界中から枢機卿が集まり、次の教皇を決める儀式 = 選挙の内部の模様を描いていく - サスペンス x コメディ? .. いろいろ。
それまでの教皇が心臓発作で突然亡くなって、涙をふく余裕もなく枢機卿を束ねるThomas Lawrence (Ralph Fiennes)が教皇選挙の準備をはじめて、世界中から自薦他薦のいろんなの – というか、各教区ではちゃんと修行して徳や実績が認められているそれなりの宗教者たち - がやってきて、最初の方は彼らの紹介も兼ねて厳かに物々しくじりじりと進んでいって、外界との蓋が閉ざされて、投票が始まると、規定数に達する候補者がいなくて – 数が達するまで=教皇が決まるまではずっと閉じこめられたまま - その状態のなか、候補者たちの表の顔、裏の顔いろいろが露わになっていく。 選挙というよりは生々しい捨て身の権力抗争の場に変貌していくのがおもしろい。世界を救うミッションを担う宗教の中枢にある人達がそこまで自己の保身や昇進に執着してしまう理由って… 候補者の枢機卿たちにはStanley TucciとかJohn LithgowとかSergio Castellittoとか、演技に関してはものすごく安定している。 演劇でやってもスリリングになったかも。
実際に集まって顔をあわせてみると、Thomasのところにはふさわしいのは自分だ、とか、自分がなりたい、ってはっきりと言いにくる人とか、昔女性に手をだして子供を作っていたのが判明する人とか、お金の出入りに不審なところがある人とか、そして亡くなった教皇そのひともまた… Thomasからすれば、どいつもこいつも状態がざぶざぶ押し寄せてくるのだが、ブチ切れたり投げ出したりすることはできないししないし。神に一番近いところにいた教皇が亡くなって、すべての統制が効かなくなって地獄の淵が見えてきたのかなんなのか。
これを一身に引き受けるRalph Fiennesのものすごく抑制され統御された演技が、最初の教皇への別れの涙一筋の後は、どこまでも無表情 – というか眉や口元の数ミリの歪みだけですべてを表現してしまう、その凄まじさ。同じくあまり喋らない -でも邪悪な権力者を演じた”The Menu” (2022)のシェフの演技とは180度方向の違う透明さのなかにあって、でも彼の頭のなかにある悲しみ、怒り、慈しみ、焦り、絶望、などは正確に伝わってくる。
そしてThomasと並んでもうひとり、同様の研ぎ澄まされた目でこの儀式を見つめているのがSister Agnes (Isabella Rossellini)で、彼女の揺るがない姿と表情も見事だと思った。思いだしたのは – これとは真逆方向の凝り固まった不気味さを全身で表していた”Small Things Like These” (2024)のEmily Watsonであった。
そういうようなこと(頭のなか)が把握できる位置で聖職者をとらえている(少しだけ頭上に置かれた)カメラ、その神経のひだひだを撫でたり潰したり弦で引っかいたりするようなVolker Bertelmannの音楽もまた精緻にデザインされていて、屋外のテロで天井からガラスが割れて落ちてくるシーンの宗教画みたいな描写はやりすぎな気もしたけど。
最後に誰が選ばれたのか、については賛否あるのかもしれないが、最後は徳が勝つ、ということでよいのかしら?
あと、あの亀は…
[film] Wicked: Part I (2024)
12月1日、日曜日の昼、BFI IMAXで見ました。
上映時間を見たら2時間40分とあったのでびっくりして、さらにこれが”Part I”である、というので、更にびっくりした。 元となったミュージカルには忠実らしいが、そちらは見ていない。Gregory Maguireによる小説 - “Wicked: The Life and Times of the Wicked Witch of the West” (1995)と”The Wonderful the Wizard of Oz”のWicked Witch of the Westのお話しを緩くベースにしている、と。
監督は”Crazy Rich Asians” (2018)のJon M. Chu、楽曲はStephen Schwartz。
導入は悪い魔女が退治されて - あの帽子が捨てられている - すべてがきらきらの平和が訪れているらしい現在で、そこからやはりきらきらのGalinda (Ariana Grande)がここにくるまでにあったことを語り始める、というものでちょっと混乱する。これまで散々予告で見せられてきたElphaba (Cynthia Erivo)とGalindaの仲のよさそうだったあれらは… ?
ごく普通の夫婦にみえた知事のところに突然緑色の肌の女の子が生まれてきてみんなざわざわ困惑して、成長したその娘は車椅子で大事にされている妹と一緒にHogwartsみたいなShiz Universityに入学するのだが、彼女Elphabaは初日から肌の色ゆえにくすくす後ろ指さされて、でも校長のMadame Morrible (Michelle Yeoh)はElphabaになにかを認めて、ひとり鼻高でなんか得意気なGalindaとの相部屋を命じる。
最初の方は学園もの定番の見た目重視によるElphabaへの差別〜虐めと、そういうのに負けずに何かを持っていそうな彼女がほぼひとりで反撃したり静かに周囲から認められていってGalindaとも友達になり、やがてエメラルド・シティからの招待を受け取るまで、なのだが、Elphabaへの虐めとかヤギ先生の拘束とか、前世紀からあるあれらって、まだ(Universityだというのに)ふつうにあるの? という困惑に近い違和感が。進歩してなさすぎでは。
という流れと、昔は沢山いた動物の先生たちが排除されている、という理由がよくわからないヤギ先生の件とか子ライオンの虐めとか、遠いのか近いのかの世界で何かが起こっていることが示唆されるのだが、Elphabaにとっては精進あるのみ、の強さ頼もしさが力強い楽曲に乗って歌われる。 でもあまり響いてこないのは彼女があまりに堂々としてて揺るがないから? かしら。
ElphabaとGalindaがエメラルド・シティに行って、大親分ぽいWizard of Oz (Jeff Goldblum)と会ってからは、ここまで見てきたカラクリが - Elphabaがそこに呼ばれたワケも含めて明らかになるのだが、たぶんそんな単純なわけないよね、とか思って、でもとにかく、彼女がホウキで空を飛ぶ(飛べるようになる)シーンはばさばさいう風と衣の音とかすばらしくかっこよくてしびれるので、そこだけでも。
Part2はどんなんなるか見当もつかないが:
① 見るからにぼんくらで存在感のなさそうなあの王子とElphabaが恋におちて、でも王子の母親が実はMadame Morribleで、結婚なんて許しません、て立ちはだかってきて最後は麻雀で決着をつけるの。
② 最後に羽がはえて飛んでいった猿たち(豚さんにすればよかったのに…)が一大勢力になって、そのリーダーはシーザーっていって帝国を築こうとするの。
③ Wizard of Ozが闘技場を開いて、そこにはやはり緑色のあいつが…
長かったけどだれることはなくて、歌のシーンも大人数で重ねまくってよい曲なのか噛みしめる余裕も与えてくれないけど最近のミュージカルってみんなそうだしたぶんきっとドラマチックで素敵な曲たちで、公開1週間過ぎていても拍手が起こったりしていたので、子どもも楽しめるやつなのではないか。
12.05.2024
[film] All We Imagine as Light (2024)
11月30日、土曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
作・監督はPayal Kapadia、最初の長編映画(フィクション)が今年のカンヌでグランプリを受賞して、今出ているSight and Sound誌の表紙にもなっている。とにかくすばらしくて、終わってからしばらく立たずにじーんとしていた。
舞台は人と光と音がごちゃごちゃ溢れているムンバイで、病院の看護婦として働くベテランのPrabha (Kani Kusruti)がいて、まだ若い同僚のAnu (Divya Prabha)がいて、ふたりは一緒に暮らしているのだが、Anuは金使いがルーズなようで今月の家賃払っておいてくれない? って頼んだりしている。Anuにはムスリムの恋人Shiaz (Hridu Haroon)がいてふたりだけで会える場所と時間を探しているのだがなかなかうまくいかない。もうひとり、彼女たちのいる病院の食堂で給仕をしている少し年長のParvaty (Chhaya Kadam)がいて、彼女は夫を亡くしている。
ある日、Prabha宛に小包が送られてきて、送付元はドイツで、中味を開けると炊飯器が入っている。結婚して間もなく出稼ぎでドイツに行ってしまった夫からのものだと思われるがメッセージがないので確証はなくて、これが彼の変わらぬ愛を示すものなのか、さよならに近いなにかなのかはわからない。Anuからは互いのことを十分に知らない状態で結婚するなんてありえない、と言われるのだが、Prabhaの結婚は親が決めたそういうもので、それがもたらしたのが炊飯器ともはやはっきりと思いだせなくなるくらい離れてしまった夫の顔で、これからどうなるんだろう? になっている彼女のところに、真面目で誠実そうな医師がおどおど言い寄ってきたりする。
Parvatyは夫の死後、彼が居住証明を遺していなかったので住んでいる処から立ち退きを強いられ、病院をやめて田舎に帰ることになって、彼女へのお別れもあるのでそこへの向かう途中、海辺の小さな町までPrabhaとAnuもついていくことにする。Anuはこの機会に、とShiazを呼んで森の隅でこっそり会ったり、Prabhaは突然浜辺で出くわした水難事故にあった人の救助をして感謝されて、自分の仕事も少しは役に立ったりするのか、になったり。
人が溢れるムンバイの雑踏、いろんな光がこぼれては消える夜の景色、毎日の通勤電車、突然の土砂降り、それらを背景にいつも無表情でちょっと恐くみえるPrabha、柔らかく温かい印象のAnu、ちょっと疲れてみえるParvaty、三様の彼女たちの日々の不安やうんざり、少しの、少しづつの安堵や段差超えが小さなエピソードとして重ねられていって、それを街の光、雨の湿気、最後は浜辺の潮風が包んでいく。これから自分は、近しい人たちはどうなっていくのか、どこにいくのか? という止まらない思いと感情が渦を巻いてゆっくりと溶けだしていく – 朝になっても消えることはないのだが – そんな夜、とその持続と。
海のほうから浜辺のビーチハウスをとらえたラストシーンが泣きたくなるくらいよいの。海からこっちを見つめているのはだれなのだろう?
多くのひとがSatyajit RayやEdward Yangにあるやさしさを指摘しているが、成瀬の過酷さとApichatpong Weerasethakulのマジックも少しあると思った。
まだぱらぱらしか見れていないSight and Sound誌では、お気に入りの監督としてAgnès Varda、Chantal Akerman、Lucrecia Martel、Federico Felliniを挙げていた。
お願いだからしょうもない邦題つけないでほしい。
A Night of Knowing Nothing (2021)
12月2日、月曜日の晩、BFI Southbankで見ました。↑のを見てすぐにチケットを取った。
Payal Kapadiaの最初の長編ドキュメンタリーというかフィクションも混じったエッセイのような作品で、同年のカンヌでThe Golden Eye - The Documentary Prizeを受賞している。
後でところどころカラーになったりするが、古め暗めに見える過去の記録映像も含めてモノクロが殆ど。
インドのフィルム・インスティチュートで映像を学んでいた”L”という女性が残した、カーストのせいで別れなければならなかった彼に宛てた手紙を落ち着いた女性の声が読みあげていき、そこに過去からのいろんな映像 - 雑踏、マーケット、お祭り、等が重ねられていく。一番時間を割かれているのが2016年の学生デモの様子で、そこではパゾリーニをひいて、学生と対峙する警察側の目線についても考察していて、ここは自分もデモの都度いつも思うことなので、そうだねえ、だった。
それにしても。デビュー長編でこの落ち着きぶりはなんなのか。”Knowing Nothing”だったからー、とかしれっと言うのだろうか。
[film] Girls Without Nerves
11月30日の土曜日、昼間に”The Brutalist” (2024)を見て、心地よくぐったりになって、夕方には”All We Imagine as Light” (2024)を見る予定だったのだが、間に隙間ができて、ちょうどアクション映画特集からサイレントの2本立てをやっていたので見る。
キートンもロイドも、なにをいつどれだけ、何回見ても楽しいし動いた気になれるし、ライブのピアノ伴奏は名手Neil Brandさんだし。
One Week (1920)
25分の短編、Buster Keatonが作・監督・編集・主演・スタント、ぜんぶやっている。邦題は『文化生活一週間』。文化… ?
月曜日に結婚した新婚カップルのところに火曜日に組み立てキットハウス一式がやってきて説明書き通りに組み立てようとするのだが、彼女にふられた求婚者がこっそり部品の番号を書き換えちゃったので、歪にゆがんだ変てこな家ができあがって、それでも負けずに金曜日に新築パーティをしてみたらそこを狙ったように嵐が襲って… という最初の一週間のおはなし。 説明書き通りにやったらあんなふうに複雑怪奇な – でもそれなりに機能してしまう - ものができあがる、というのもおかしいが、そこでふつうに生活してしまうのもすごいし、台風でくるくる回っていくのは楽しそうで天才としか言いようがない。 そして最後のオチで、住所が違っていた、と。ヤドカリみたいになれるのもうらやましい。さっき見たThe Brutalistの人が見たらめちゃくちゃ怒りそうなやつだが。
そして、これらの家を相手にしたアクションをぜんぶスタントなしのライブでやってしまうキートン、変わらずすごい。
Safety Last! (1923)
73分の中編。邦題は『ロイドの要心無用』。 高いところの時計にぶら下がりのアクションは有名よね。“Safety First”– 「安全第一」の標語をもじったやつで、安全が最後でも生きているのなら…。
最初は獄中らしきセットで、鉄格子があり、母親と彼女らしき女性が不安そうな顔で、上のほうから縄が垂れていて、厳かに神父が現れるので絞首刑か、と思うのだが、実はただの駅だったと。ここの、死んでいておかしくないシーンに見えたけど実はぜんぜんそうじゃなかった、というお茶目なのが基調で、なおかつこれは、都会に行って成功するんだ & 彼女と幸せに暮らすんだ、というところに向かっていくrom-comなの。これがあるからどんな危機も乗り越えることができるしへっちゃらだし、すべての説明がついてしまうのだから最強なんだってば。
ビルの外側の下から素手で上にあがって(あがらされて)いく、それだけなのに、なんであんな大ごとになっていくのか。キートンだと、外からいろんな脅威が降りかかってくるかんじだけど、ロイドは自分からひっかぶるべく何も考えずに首をつっこんでいく。両者の技を身につけておけば世の中なんも怖いものなくなる。
客席の家族連れの子供たちもきゃーきゃーおもしろがって、やたらでっかい声で笑うおじいさんとかもいて、こんなふうにみんなが楽しんでいるのを見るのはよいなー、って。
Girls Without Nerves: Action Women of the Silent Era
少し戻って、11月17日、日曜日の午後、BFI Southbankで見ました。
これもアクション映画特集の出しもので、「神経のない女性たち」ってひどいタイトルだな、って思って、実際に見てみると、そうとしか思えなくなるのだったが、英国でニュースリールとして上映された時のタイトルだったのか。 今回上映されたのは以下の短・中編で、どれも公開当時は評判になってヒットしたものだった(だから残っている)と。
▪️ The Wife’s Revenge (1904)
▪️ Girl Without Nerves. Topical Budget 545-2 (1922)
▪️ Hazards of Helen: The Girl at the Throttle (1914)
▪️ Daredevil of the Movies (1925-29)
▪️ Vittoria o Morte! (1912)
内容は夫の替わりに腕まくりして決闘に向かう、という勇ましいものから、機関車の後ろにぶら下がったり、飛んでいる飛行機の上に立って笑っていたり。Helen HolmesやEmilie Sannomといったスターも生まれた、と。
彼女たちの命知らずのアクションは賞賛や感嘆の対象としてある、というより、見世物小屋の見世物(親の因果がぁ~)とか、ゲテモノのような扱いで、「女性なのに」あんなことやる(やらされる)なんてかわいそうに、という目線があるようで、まだそういう時代だったのだな、というのと、でも映像のなかの彼女たちはどう見ても楽しそうでやらされているかんじゼロだったりするので、この辺りからあれこれ叩いたり嘲笑ったりが始まっていったのだな、って。そしてこんなにかっこよいのに、神経がないとかバカにしたように言われるのって、いまだに続いたりしているねえ。
12.03.2024
[film] The Brutalist (2024)
11月30日、土曜日の昼、BFI Southbankで見ました。
日本から戻った翌日で、チケットはずっとSold Outしてて、朝にオンラインで少しは出るかと思ったがぜんぜんその気配がないので、BFIで並ぶことにして、11時20分くらいに着いたらゲストリスト(previewだからか)とキャンセル待ちの列がものすごくて、開始の12時になっても列があまり動かなくて、ほぼ諦めたのだが、なんでか入れた。しかも3列目の真ん中くらいで。
監督、制作、共同脚本はBrady Corbet、なかなか見事にやかましい音楽はDaniel Blumberg - Yuckにいた人か。
3時間35分で、上映は70mmフィルム、途中で15分の休憩が入る。撮影はVistaVisionをフルで使って、アメリカ映画でこれをやったのは63年ぶり、とIMDBにはあった。
2部構成にプロローグとエピローグ。タイトルやエンドロール(←斜めに流れる)はどう見てもバウハウス仕様でかっこよい。ベネチアでプレミアされて、銀獅子を受賞している。
超大作のかんじはそんなになくて、印象としてはPTAのそれに近い - 陰影とかカメラへの執着とかも。 あと、70年代頃にスピルバーグやスコセッシが撮っていた「大作」のかんじも少しあるか。
1947年、ブタペストのLászló Tóth (Adrien Brody)がホロコーストを生き延びて戦後の混乱のなか船でどうにか海を渡ってアメリカ合衆国につく - そこで目に入ってきた倒立した自由の女神のイメージ。 そこからフィラデルフィアに渡って、家具屋をしている従兄弟のところに世話になっていると、富豪のVan Buren(Guy Pearce)の息子Harry(Joe Alwyn)から自邸の書斎のリフォームを任され、腕をふるってすごいのを作ったら – あああんな本棚があったらなあ!の世界 - Van Burenが勝手になんてことするんだ!って怒鳴りこんできて、材料代とか払わんから、て言われて従兄弟のところにはいられなくなる。 のだがVan Burenはあとで謝ってきて、彼の家に暮らして彼の依頼で建築の仕事をやっていくことになる – ここまできてLászlóがバウハウス - デッサウ出の建築家であることが明かされる。
第一部はこうして合衆国で後ろ盾を得て建築家として認められのしあがっていく - 反対側で酒やドラッグで擦り切れはじめるLászlóの姿が描かれて、第二部は冒頭で現地に置き去りにされていた妻Erzsébet (Felicity Jones) – 車椅子 - と姪のZsófia(Raffey Cassidy) – ほぼ喋らない - がやってきて一緒に暮らし始めるのだが、なんでか仕事でも社交でも社会的、文化的な衝突やそれに伴うパニックがあちこちで起こって、なにひとつ休まらないし、寧ろ混沌や困惑が飽和状態になっていって…
移民が現地民の求めに応じて自分の意匠で現地の建物を作っていく際に想定されそうな苦労や軋轢がぜんぶでてきて、それでもというかそれだからこそ、なのか彼の建築は自然に抗うBrutalな異物として強く根を張って屹立して、その威容がアメリカにどうやって浸透していくのか。いつものようにAdrien Brodyの演技がすごすぎるので苦労した(アメリカ人からすれば成功した)移民のお話しに見られてしまうかもだが、これはやはり「アメリカ」のお話しなのではないか。 アメリカの富豪や成金が何でできていて、どんなふうに戦後を渡って乗り越えてその結果として「野蛮な」アメリカのランドスケープを作っていったのか、についての。ブタペストもホロコーストも、そもそも割とどうでもよかったのではないか、とか。
3時間半はちっとも長く感じなくて、それは地を這っていく彼らの生がきちんとそこにあるから、というか。撮影のLol Crawleyがすごいのかも。
本棚とか書斎に興味があるひとは前半パートだけでも見るべし。
これ、Wes Andersonが取りあげてもおかしくなさそうな人とテーマだと思うのだが、彼が撮ったらどんなふうになったか、想像してみるのも楽しいかも。
あと、最後に”Dedicated to the memory of Scott Walker” って。もう一回見たくなった。
[film] ナミビアの砂漠 (2024)
11月23日、土曜日の夕方、ポレポレ東中野で見ました。
この日の午前に東京都写真美術館で『秀子の車掌さん』(1941)を見て、80年も経つと女性の像って随分変わるもんだなー、と。
今年のカンヌの監督週間で上映されて、国際映画批評家連盟賞を受賞した作品。 という他に、どんな映画なのかは一切知らずに見る。 監督はこれが長編第一作となる山中瑶子。音楽は渡邊琢磨。
21歳のカナ(河合優実)はエステサロンに勤めていて、でも正社員なのかバイトなのか、仕事は割とどうでもよさそうで、そのどうでもよくなさそうなものってなんなのかはっきりしなくて、恋人のところに同棲していて、その長髪の恋人はやさしそうで面倒見もよさそうだけどちょっとうざいところもあり、もう一人別のクリエイターぽいヒゲの男とも付き合っていて、気がつけばそっちの男のアパートに一緒にいたりする。 この辺の転々とその経緯について、特に彼女の口からも、他の誰からも語られることはなく、なんとなく猫っぽく飼い主右から飼い主左に移っただけ、っぽい。
すべてがその調子で、彼女の好き嫌いや行動や世界観が彼女の言葉や会話のなかで語られることも、それらがこうだからこう、と第三者から具体的に語られたり示されたりすることもない。少し離れたところから野生動物をとらえるかのように、でもカメラの中心に彼女がいることは確か。ショートカットで、鼻にピアスしているごくふつうに見える若い女性。
そのうちヒゲの方と暮らしていくなかでふたりの言い争いや小競り合いが少しづつ増えていって、その衝突はカメラを見る限りでは彼女が突然キレたりして、その理由もよくわからないのでなんだこの娘は、になり、その暴れっぷりと理不尽さがだんだんひどくなって車椅子の生活になったりもして、そこから回復しても彼女の行動原理は変わらないようなので映画としては殺し合いみたいな方に向かっていくのかしら? と思っていると突然彼女とカウンセラーらしき人の会話で「双極性障害が... 」とか出てくるので、あ… ってなる。 自分の頭のなかで起こるここの転換が鮮やかで、やられた、までは行かないけどそういう転換をもたらしたのははっきりと映像の力でもあるので、すごいな、って。
男女(でなくてもよいが)の関係を描いたものを見るとき、彼も彼女も互いがそれぞれの想定とか慣習とか見えないルールとかコードに基づいて行動すると思っていて、それは映画の場合でも、というか映画の場合だと普段のそれより強調された形のものが、(それぞれの内面で思っていることは別として)提示されると思いこんでいる。というのが本当にただの思いこみに過ぎないのだな、となった時に見えてくる愛の姿とは。を結構冷めて突き放して眺めているかんじ。
カナがひとりでいる時にスマホでぼーっと見ている動画 - 水たまりのある砂場に鳥などが集まってだらだら勝手に過ごしている光景 - があって、これがたぶん「ナミビアの砂漠」なのかしらと思うのだが、ここには誰が何をしていようと気にしないし介入しないんだからほっとけ、というのと、それが「ナミビア」の「砂漠」だったとしてそれがなんだというのか - どっちにしてもほっとけ、というのがあると思って、それが愛だろうがケアだろうが - でもDVまで行くとちょっと違うけど - 別に知ったこっちゃないから、と。
邦画でいちばん嫌いで気持ちわるい絆、とか、わかってくれる人が、とかを砂漠の彼方に蹴っとばしてくれるだけでうれしくて、すき。
12.02.2024
[film] Gladiator II (2024)
11月21日、木曜日の晩、109シネマズ二子玉川のIMAXで見ました。 邦題はしらん。
日本には出張で、つまりお仕事目的で帰って、後半は病院通いだったりしたので、その間映画は4本しか見れなかった。しょうがないったらしょうがないのだが、そんなに見たいのもなかったのね(除.神保町シアターの田中絹代特集)。フィルメックスもやっていたけどー。
これの”I”って見ていなくて、鎧つけたり血と涙の仰々しい命懸けの決闘ものとかが好きじゃないから、なのだがどうして見ることにしたかというとPaul MescalとDenzel Washingtonが出ているから、というのと、あと決闘ものを避けるというより自分のなかでそれらが割とどうでもよいものとして見れるようになってきた、というのもあるか。Ridley Scottって、このシリーズで底辺から勝ちあがって生き延びる男性の過酷さを描いて、Alienのシリーズで凶暴な異生物からとにかく逃げて生き延びる女性の強さを描いて、セットがでっかく仰々しいスペクタクルとして見せるのと血が飛び散る生々しさがリアルであればあるほど盛りあがるので凄そうだけど、中心は結構空っぽで単純なゲームみたいなもんなのだと思う。
妻と農家をやって平和に暮らしていたLucius (Paul Mescal)の島が海からやってきたローマ軍に襲われて妻を殺され、彼は奴隷としてローマに連れてこられて、奴隷プロモーターのMacrinus (Denzel Washington)に見込まれてコロッセオのエンタメ闘技の見世物としてサメとかサイとかヒヒとかヒトとかと闘わされて、負けずにのしあがって名をあげると、あの子はひょっとして… と前作の終わりに涙の別れをしたおっかさんとかも出てきて揺れたりするのだが、でもLuciusの目はカラカラ (Fred Hechinger) とゲタ (Joseph Quinn)の皇帝たちが好き放題に支配して腐りきってしまったローマ帝国をぶっ潰すことにあった、と。
(そうじゃないかと思っていたけど)我こそがローマ皇帝の正統な後継者である、というのと、でも今のローマはすっかり腐れてしまって自分の理想とするローマじゃなくなってしまった – もうぶっ壊すしか道がない、というのに挟まれた小学生みたいな悩みも、自分が頂上に立てば(うう恥ずかし)になってがんばればよいのだ –じゃあがんばりなー しかない。
この線に沿って、Paul MescalもPedro Pascalも、ひたすら甘くやさしく強い - 一見ぜんぜん強そうではないし殺陣もアクションもスカスカなの - けど決してやられない - 「男」を演じて、その反対側でやりたい放題やりまくる頭のおかしい – でも権力だけはたっぷりあるカラカラとゲタと小猿がいて、その中間にひたすら不気味で妖艶でNYアクセントの英語を喋るDenzel Washington - 一番強そうに見えるのはこの人 - がいて、わかりやすいプロレスみたいな史劇が展開されていく。
こんなに簡単に単純に国とか政権がひっくり返る、ひっくり返せるのであればこんな楽なことはないわ、ってウクライナとかガザを見ているとしみじみ思うし、トランプみたいのもやって来るし、なんだか腹がたってきたり。 こんなの見てうっとりしたり喜んだりしててよいのか? それこそ帝国の思う壺ではないか、とか、こんなふうにお金かけて精緻に「再現」? というか表象される光景っていったいなんなのか、プロジェクションなんとかと同じようなあれではないか、とか。(ぶつぶつ)
11.30.2024
[film] No Other Land (2024)
11月15日、金曜日の晩、Curzon BloomsburyのDoc-Houseで見ました。
今年のベルリンでプレミアされ、Panorama Audience Award for Best Documentary Filmを受賞している。
その際にパレスチナのBasel AdraとイスラエルのYuval Abraham、共同監督のふたり(あともう2人クレジットされている)が同じテーブルで会見できないことが話題になったりしたのを憶えている。
監督のBaselが、子供の頃からずっと住んでいたWest BankのMasafer Yattaの家を軍の戦車によって潰され、家族親戚揃って問答無用で追い出される様子が描かれる。Baselはその様子をカメラで撮る。何度撮るのをやめろ、軍の訓練用に使うことになった土地だから、と執拗に陰険にやってきて彼らを追い払い、抵抗する住民に銃を向け - なんの躊躇もなく撃ったりするイスラエル軍の様子を、Baselは何度でも、カメラを取り上げられそうになっても逃げて、撮り続ける。
「ここからどけ、他に行け」というイスラエル軍に対して「他なんてない」 - “No Other Land”だ、というやり取りが延々繰り返されていく、それだけの映画である。
人は生きている限り住む場所を必要とする。どこそこに行け・移れ、と言うのではなく、その場所から出ていけ、というのは、お前なんて消えてなくなれ、と言っているのに等しくて、イスラエルのやっていることはそういうこと、彼らにこの地上から消えてほしい、と明確に告げていて、これは彼らがガザでやっている虐殺とも整合することなので驚きはない。
最後の方で軍の訓練で使う土地だから、とイスラエル側の理由づけも彼らのウソだったことがわかり、そんなウソをついてまで他者に向かって消えてくれ、と言う - なんでそんなことを言えるのか、は本当にわからないし、わかりたくもない。過去に同様のことをされて土地を追われた - そんなことが理由になってよいわけがない。
少しだけ救いなのはどれだけ追われても暴力をふるわれても、岩だらけの土地に住処を拵えて水や電気を引いてこれまでと変わらない暮らしを続けていく彼らの強さと、どこからどうしてやってきたのか彼らと寝食を共にして撮影に参加してくるイスラエルの若者Yuvalと、そんな彼がそこにいることを許すBaselたち、だろうか(日本人だったらみんなで袋叩きにするのではないか - 既に起こっているようだが)。
自分がこれまで見てきた映画の多くは、「ここではないどこか」へ移ること、移れることを自明の理として、その前提に立って展開されるものだった(拘束されたり閉じこめられたりの不条理・非現実も含めて)。この映画で描かれるリアルは本当に、実際にそういうことが起こるとどうなるかを淡々と示す。ポスターには岩場に寝転がっているBaselの姿があるが、本当にそれしかできないのだ、ということ。そうなった時に映像には何ができるのか、それでも何をすべきなのか、を問う。
いまの世の中は、どれだけ酷いことになっても誰も助けてくれない状態 - 司法は機能しないし正義や倫理が成り立たない状態 - が十分にありうる、ことを嫌と言うほど見せてくれる。自分の周囲で本当にこういうやばい状態になった時への備えも含めて、まずは異議を唱え続けるしかないのか…
11.29.2024
[film] Bird (2024)
11月17日、日曜日の晩、BFI Southbankで見ました。
監督はドキュメンタリー”Cow” (2021) がよかった英国のAndrea Arnold - 他には”Wuthering Heights” (2011) とか - で、これはフィクション。
Barry KeoghanとFranz Rogowskiという、英独を代表する肉の痛みとうねり剥き出し系男優が一緒に出ているので、ものすごく肉体として痛そうな描写とかあったらやだな、だったのだがそれはなかった。 そんなことより、小さい作品だったけどすごく沁みてよかった。予告を見たときは、またこういうの(とは?)かー、って思ってしまったことを反省。
12歳の女の子のBailey (Nykiya Adams)が主人公で、郊外の廃屋のような集合住宅に父親のBug (Barry Keoghan)と暮らしていて、彼のタトゥーだらけの上半身はいつも裸で、近所をスクーターですっとばしていてご機嫌に変なダンスを踊ったり歌ったり、とっても機嫌がよいのでなぜ?と聞いたら、ここんとこ一緒にいるKayleyと結婚するんだおまえも式にでろ、衣装も買ってきたからほれ、って。頭にきた彼女が家に戻らず、異母兄で自警団をやっているというHunterと会ったりしていると、草っ原の真ん中で浮浪者みたいに怪しげなBird (Franz Rogowski)と名乗る男と出会う。彼はかつて住んでいた家とそこにいた母親を探している、というのだがそれらしいアパートに行ってみてもいなくて…
Birdの持っていた住所が自分の生母のいるところと同じアパートだったので、彼女なら何か知っているかも、と訪ねてみると幼子たちを連れた彼女はしょうもないDV男と暮らしていて、どいつもこいつもー になる。「家族」が嫌で、そこから弾かれたひとりの少女が日々表情を明るくしたり暗くしたりしながら家を、家族を探して彷徨うお話しなのだが、どこに行っても解決できそうな状態なんてなくて、みんな家畜や鳥や虫と同じようにそこらを移ろいながらどうにかしていくしかない。でもよく見てみれば鳥だって虫だってふつうに強いし。
どうやって生計を立てているのか謎のBugもちんぴら稼業のHunterも、まあ雑な、政治とかどうでもよいし金が入って日々楽しく過ごせればの、今の典型的なうざくて厄介で関わりたくない男性像そのもので、誰もBaileyのことをわかってくれない状態だったところにきょとんとした鳥顔で現れたBirdは、そのぽつんとビルの屋上に立つ姿も含めてBaileyに鳥の目の高さと自由を示してくれるようで、でもBirdは最後まで鳥の気高さを失わずになんかかっこよいの。
カメラはずっとひとりぼっちのBaileyに寄り添い、ゴミ箱に捨てたくなるどーでもよいゴミ男たちをてきとーに流して、Birdの、彼の家族に対する思いとBaileyのそれを並べてみせる。どれだけ酷く扱われて棄てられても、「彼ら」と自分らがいることは動かしようがなくて、そこから飛ぶことも渡ることも還ることもできる。
Barry Keoghanは相変わらず余裕ですばらし - この人の幅の広さって独特 - いのだが、やはりFranz Rogowskiのすごさ。Michael Keatonの”Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance)” (2014)を軽く超えて鳥にしか見えなくなる。
音楽は監督がPVを撮ったりしているFontaines D.C.の鳴りっぷりがパンクでかっこよくて、こいつらよいかも、って今更…
というわけで、おうちに飛んで帰ります。
ばたばたすぎてぜんぶだめだった…
11.28.2024
[dance] Exit Above - after the Tempest
11月12日、火曜日の晩、Sadler’s Wellsで見ました。
8月にEssenのMuseum Folkwangでのインスタレーション”Y”を見て以来となるAnne Teresa De Keersmaeker / Rosas作品。Folkwangのは絵画の展示スペースで演者も見る方もランダムに動きまわっていく通常のとは違うやつだったが、これはステージ上で客席と会い対するやつ。初演は2023年の5月。どこかしら”Bagavond”ふう - マンガじゃなくて映画のほう - の衣装はAouatifBoulaich。休憩なしで80分くらい。
がらんとした舞台の隅にはギターが数本立ててある、だけ。最初に男性のダンサーによるストリートダンスぽいソロの後、ギターを弾く坊主頭のCarlos Garbin、それに合わせて歌を歌う小柄なMeskerem Mees、彼らもダンスには加わって計13名がこちら側に向かって直線的な集合離散を繰り返していく。
自分が知っているRosasのダンスはダンサーの束がひたすら流れを作ってその流れに乗って乗られてという滑らかな流線の縁に沿って進んでいくものだったが、この作品のテーマはRobert Johnsonのブルースを起点とした歩くこと、彷徨うことにあるという。ギターの人が琵琶法師のようにじりじりとアーシーなギターを鳴らし、そこに小さな女性がよく届く澄んだ歌声を乗せ、それにのっかるダンスはてんでばらばらのようで垂直方向(Exit Above)への突破というか抜け道を探しているような動きを見せる。 “after the Tempest” – すべてがなぎ倒されてしまった嵐の後に人が向かうのは、動くのはあんな角度の、あんな速度の群れ - になるのだろうか。やはりどこかしらコロナの後、という印象が強く、まとまった全体・総体を見せる、というよりはこれからこっちの方、という予兆のようなもの見せているような舞台だった。
上演後、Anne Teresa De Keersmaekerを交えたQ&Aがあり、彼女が喋る姿をはじめて見たかも。
これまで約45年間で65作品を作ってきて、コロナもグループ内の虐め問題も経て、落ち着いて今とこれからを見据えている、そんな印象を受けた。
MaddAddam
11月14日、木曜日の晩、Royal Opera Houseで見ました。
翌週の出張の日程を考えると、この日を逃したら見れなくなることがわかったので、当日にチケットを取って見にいった。
原作はMargaret Atwood - 本舞台のコンサルタントとしても参加している - のMaddAddamトリロジー (2003-2009-2013) - 未読、振付はWayne McGregor、音楽はMax Richter(のオリジナル)、ナレーションで声をあてるのはTilda Swinton。初演は2020年のカナダで、これがヨーロッパでの初演となる。
スクリーンがあり、プロジェクションがあり、ライティングは滑らかに制御されていて、人の倍くらいの大きさの被り物クリーチャーが出てきて、衣装(by Gareth Pugh)はやや近未来風で、まずは↑のと比べると(比べるな)ものすごいお金がかかっていることはすぐにわかる。 パンデミック後の荒廃したディストピアで、でっかい組織のコントロールとそこからの遺棄や逃走~再生、生物・非生物をめぐる壮大な愛と絶望(と希望?)の物語 – らしきものが展開されていることはわかるのだが、自分がダンスに求めているのはその種のでっかい物語的な何かではないので、ちょっとううーむ、になった。Oryx役のFumi Kaneko、Crake役のWilliam Bracewell、Jimmy役のJoseph Sissensなど、個々のダンサーもダンスもアンサンブルも申し分ないレベルなので、ややもったいなかったかも。この原作が表そうとしていたのかも知れぬ権力やコントロール、ひとに対する制御のありようと、コンテンポラリーダンスの(おそらく自分が求める)向かうところがなんか噛みあっていないような。
Wayne McGregor & Max Richterだと、”Woolf Works”がすばらしくよかったので、ここで示された過剰さ、てんこ盛りのかんじってなんなのだろうか、って少しだけ。
11.25.2024
[theatre] OEDIPUS
11月11日、月曜日の晩、Wyndham's Theatreで見ました。
古代ギリシャ悲劇をRobert Ickeが翻案し、演出もしていて、2018年にオランダで初演され、2019年にエジンバラの演劇祭でも再演されたもの。休憩なしで約2時間。
冒頭、幕が下りた状態で選挙キャンペーン中のOedipus (Mark Strong)のプロモーション映像が流れる。結構長めに有権者の発言から彼自身の揺るぎのない言葉と自信に満ちた立ち姿、そんな彼を支える妻Jocasta (Lesley Manville)まで、出生証明書? 勿論ちゃんと出しますよとか、どこの代理店が作ったのか政治家として申し分なさそうな好い印象を与えて、幕が開くと選挙戦が終わって後は開票結果を待つばかりの彼の事務所になる。
舞台の右手には開票結果が出る迄の時間だろうか、デジタルの文字盤が舞台上で経過する時間とシンクロしてカウントダウンしていって、頭の切れる実践者としてのOedipusと現実を見て漏れなくカバーしていく庇護者としてのJocastaのコンビは勿論、彼の子供達にずっと一緒のスタッフたちからキャンペーンを仕切っていた義兄のCreon (Michael Gould)まで、人々が慌しくざわざわ行ったり来たり、事務所を片付けたり宴をしたりしつつも最後まで感触が悪くなかったせいか皆一様に明るく騒がしく既に緩やかなお祝いムードで、それでもこれまでとこれからについてCreonとの間でちょっとした波風が出ては消え、ひとりぽつんとやってきたOedipusの母Merope (June Watson)がどうしてもあなたに言っておきたいことが、と何度か出てきて、いまちょっとバタバタだからごめん、と脇にどいてもらっていた彼女が最後に…
開票直前のこんなタイミングになんでどうしてそんなことを?というドラマとしての強引さのようなものはあるものの、これがいろんなレベルで「政治」の根幹を揺るがすスキャンダル - どころではない大ごとであることは確かなので客席のほうは「ひぃ」って固まって悲劇が転がっていくのを見ていることしかできない。
全くだれることなく張り詰めた状態のままに(選挙)戦の熱狂からどん底の最後までじりじり持続させていく構成は見事だし、ギリシャ悲劇のテーマをこんなふうに現代の選挙戦に織りこんで見せるのっておもしろいと思いつつも、これを現代の選挙/政治のありように接続して語るのであれば、あのエンディングの後を見たいし、見せるべきではないのか、とか。せっかくあれだけの俳優を揃えたのだからさー
Lesley Manville は、2018年にJeremy Ironsと共演したRichard Eyre演出の”Long Day's Journey into Night”の舞台を見て、ただそこに立っているだけ、その背中だけでも.. のすさまじい存在感に圧倒されたし、Mark StrongはNTLの”A View from the Bridge” (Arthur Miller)でやはりすばらしい輪郭線だったし、そんなふたりの激突なのでなにが起きたって大抵のことは、でだから猶のこと、あと少し… これが演劇だ、みたいな瞬間はいっぱいあるけど。
悲惨な結末であることは確かで、でも他方でこれがなんで現代の悲劇として成立しうるのか、については人によっていろんなことを言えたり考えたりする余白、のようなものを与えてくれたりもする、という点では、よい意味で開かれている気もして、いろんな人に見られてほしいな、って。
11.23.2024
[film] Red One (2024)
11月10日、日曜日の午後、Leicester Squareのシネコンで見ました。
クリスマス映画で、ポスターの真ん中にあんなようなでっかい白熊がいて、Dwayne JohnsonとChris EvansとLucy Liuが並んでいたら、これぜったい見なきゃ、ってふつうなるよね。
“Red One”と呼ばれる超人のようなハイパフォーマーであるサンタクロース(J. K. Simmons)がいて、Dwayne Johnsonは彼のガードを含む警備隊長をずっとやってきたのだがもう引退することを考えていて、でもクリスマスイブを控えたある日、Chris Evansのチンピラハッカーが厳重に管理されていたサンタの場所を漏らしてしまったので、悪の組織がサンタクロースを誘拐・監禁して、世界中のクリスマスを混乱させて真っ暗にしようとして、Dwayne JohnsonとChris Evansがどつきあいながら救出作戦に乗りだすの。サンタはプレゼントをイブの晩に配達することができるのか? って。 設定もストーリーもぜんぜん悪くなさそうなのに、ぜんぜんしまらない展開になってしまったのは、白熊がフロントに出てこないのと、巨大トナカイ戦隊を自在に働かせなかったのと、Lucy Liuにちょっとしかアクションさせなかったからではないか。 どうせならFast & Furiousのシリーズみたいに、だいじなのは家族と筋肉と車、みたいに吹っ切ってぶっ飛んだどんぱちにすればよかったのに。
というか、サンタがあんなマッチョな超人で、あれだけ厳重装備と組織で守られているのに、なんでプレゼント配りしかしないの? 子供たちの願いをかなえてあげるのが、仕事なんじゃないの? って、“Elf” (2003)に出てきたサンタのすばらしさを改めて思った。
『ダイ・ハード』の約10倍の予算を使った作品だそうで、あーなんてもったいない、そのお金で子供たちになんかしてあげた方がどんなにか、っていうアンチ・クリスマスの方に行ってしまう危惧すら。
Christmas Eve in Miller's Point (2024)
11月17日、日曜日の昼、ICAで見ました。
これもクリスマス・イブを描いたコメディで、↑のの100倍くらいよかったかも。
作(は共同)・監督・プロデュースはTyler Thomas Taormina、今年のカンヌでプレミアされている。
出演もしているMichael Ceraはプロデューサーとしても参加している。
クリスマス・イブの晩、Balsano familyの夫婦や子供たちが代々から続く一軒家にどこからか集まってきて、Michael Ceraは車の中でスピード違反とかを監視している警官(この後も何度か出てくるがほぼむっつり何もしない)で、家では料理作るのが大好きなおじさん(よくいる)が大量の料理を作っては盛大に並べていて、仲良い親戚 - よくない親戚 - 知らない親戚たちはとにかく朗らかにキスしてハグして子供たちは床とか隅とかにわらわら散っては固まり、とにかく意外な光景は何ひとつない。お正月、盆暮れで見慣れた動物たちの群れを見事な編集で繋いでいくなか、誰が誰なのか、どういう関係や過去があったりするのか、などがぼんやりと浮かびあがってくる。飽きずにいくらでも見ていられる絶妙な滑らかさ。
いつの間にか宴が始まってからも老人、夫たち、妻たち、子供たちのサークルは群れては解れを繰り返し、小さな波風は立つものの見知らぬ誰かのとんでもない狼藉が何かをぶち壊すことはなく、寧ろその輪郭を強く温かく固めていって、そのうちみんなで恒例らしいイブの晩の消防車のパレードを見に行って、そのうち女子ふたり - Matilda Fleming & Francesca Scorseseがそこを抜け出して車で夜遊びにでて行ったり、大人たちはおばあちゃんが亡くなった後のこの家をどうするかについて議論していたり、それでも… (以下延々)
みんなの定番”Love Actually” (2003)や、こないだの”That Christmas” (2024)のように無理しなくても、誰かが誰かを抱きしめたいと思ったり願ったりする、それさえあれば、その兆しが見えるのであれば、クリスマス映画なんてこんな金太郎飴でよいのだ、というのを確信させられてしまう。そしてそこに魔法も筋肉もいらない。
そして、ラストにThe Ronettesの”Baby, I Love You”が大音量で流れるので、それだけでもう何も。
11.22.2024
[art] Paris -
今回は(前回も、か)主要美術館など、いくつかを走り抜け。
Figures du Fou - From the Middle Ages to the Romantics
Musée du Louvreでの「愚者の形象」展。中世の写本から始まって、愚者や道化や狂気はどんなふうに表象されてきたのか、彫刻から絵画からいろんなシンボルまでExpo的に並べてある。日本のお化けや妖怪に近い - 日常の言葉やコードが通用しないなにか、非日常への畏れと誘い、と落としていくと民俗学的な展示になりがちなところをうまく絵を繋いで見せていったような。
映画”Joker: Folie à Deux” (2024)とコラボしたと聞いて、えーあれとはぜんぜん違うんじゃねえの? とか。
ボッシュがあって、ブリューゲル(父子)はもちろん、ロマン派~ゴヤまで。彼らが描いていた当時、こんなふうなバカ博覧会でネタ化されて並べられるなんて思いもしなかっただろうなー。そして出口のところにぽつりとあったクールベのなんとも言えない不気味な孤独さ - この辺が転換点だったのか。
Revoir Watteau - An actor with no lines Pierrot, know as Gilles
同じくルーブルで、↑のと関連しているのかもだが、ヴァトーの『ピエロ (ジル)』(1718-1719) がその修復を完了して、その記念で古今のピエロや道化を描いた作品を特集展示している。ピカソとかフラゴナールのピエロとか、写真だとピエロに扮したガルボやサラ・ベルナールの肖像なども。
それにしてもヴァトーのピエロ、見れば見るほど不思議で哀しそうで引き込まれる。 あのロバさんとか。
これだけじゃなくてピエロのイメージって、↑の愚者のとは別に、エモに訴えてくる不思議なところがあるよね。
Apichatpong Weerasethakul - Particules de nuit
Centre Pompidouに移動してこれ。Apichatpongのインスタレーションは恵比寿や清澄白河で他の作家の作品と混ざった状態で見たことはあったのだが彼の作品のみ、しかも隔離された別館で開催されていて、ほぼお化け屋敷状態ではないか、と。
小部屋が7〜8つくらい? 座って見れるのも歩いて変化を見るのも、こちらが見る・見ていくというより向こう側がこちらを捕捉してくるような妖怪の不穏な動きでやってくるイメージとか光の粒たち。そこに人が写っていたとしてもそれはもう人ではない何かになっている。それがTilda Swintonさんであっても。
光が消滅していく夕暮れや消滅した状態の夜にカメラを持ち込んで、そこに写りこんでくるものを定置網みたいに好きに放っておくとあんなふうになる、の? そこから光とか闇とか陰って、一体なんなのか、何でできているのか、と。
Surrealism
Centre Pompidouでのでっかい展示。本拠地はここパリだから忘れんな、というめちゃくちゃ気合いの入った展示だった(えらく混んでいたが)。
シュールレアリズムというと、小学生の時に坂崎乙郎の新書の説明を - 教科書の他に家にあったのはあれくらいだったの - 何度も読んだものだったが、あれに掲載されていた作品の殆どが並んでいたのではないか、というくらいのてんこ盛り。Leonor Fini、Remedios Varo、Leonora Carringtonなど、女性作家も沢山。物量で歪んで圧倒されていく現実など。
カタログ、これは買ってよいかもと思って手にとったのだがガラス棚にあった重いやつの方を欲しくなり、そっちにしたらその後も重すぎてしんだ。
Chantal Akerman: Travelling
今回はJeu de Paumeでのこれを見に来たの。セクションごとに代表的な作品とその関連資料を並べてあるのだが、昨年のシネマテークでのアニエスの展示と比べるとそんなでもない気がしてしまったのは、Chantalは作品にぜんぶ出てて、出してあって、それで最初に街をぶっ飛ばしてしまっているので補足の説明とか経緯とかそんなにいらないのかも。他方で、アニエスは猫なので、猫の足跡はぜんぶ追いたくなる、というか。
カタログもJoanna HoggらによるRetrospective Handbookも既にロンドンで買ってあったので、ポストカードとトートを買った。
Harriet Backer (1845-1932) The music of colors
オルセー、カイユボット展は予約いっぱいで入れずー でもこれがよさそうだったので入る。
ノルウェーを代表する女性画家で、ピアニストだった妹がいたりピアノを弾いていたりする室内の情景を多く描いていて、それは同じく部屋にいる女性を描いたデンマークのVilhelm Hammershøi (1864-1916)ともフィンランドのHelene Schjerfbeck (1862−1946)とも微妙にあたりまえに違っていて、展示スペースにピアノ曲が流れていたように、音楽が聞こえてきて部屋の空気がうっすらと膨らんでいるように見えなくもない。
あと、最後に本がいっぱいになった本棚の絵があって、それだけですばらしいではないか(積んであったらもっとよいな)、とか。
Céline Laguarde (1873-1961) Photographer
20世紀初フランスの女性写真家の特集展示 - ”Étude”とだけ題された女性の肖像写真たちがただただ美しく、ピクトリアリズムとはこういうものかー、と。
Paris Photo
Grand Palaisでの展覧会 - ではなく、写真に関する見本市の初日。これまでLondon Photoには行ったことあったが、パリのは初めて。こんなにでっかい規模のものだとは思わなかった。みんな豪勢に商談などをしている異世界で、せいぜい上のフロアで出版社や書店の展示を見ていく程度。Spector BooksのブースでJonas MekasのNew York Diariesなどを買った(← 写真とあんま関係ない)。 あとTwin Palms Publishersで、”Fifty Books: 1981–2024”ていう記念冊子をただでもらった(彼らのサイトで$45で売ってる..)。
ここまでで十分よれよれになり、それでもLa Grande Épicerie de Parisで食材などを見たり買ったりしないと気が済まないので、カートを押してヨーグルトとかバゲットサンドとかハムとかを買いこんで、地下鉄で北駅に向かって、22時過ぎにおうちに戻ったの。
というわけで日本にきて、ようやく週末なのだがあれこれ苦手すぎてぜんぶしんどい。
11.17.2024
[film] Mediha (2023)
11月9日、土曜日の夕方、Curzon Sohoで見ました。
正式公開を前にしたドキュメンタリーのPreviewで、上映後に監督Hasan Oswald(とあと一名)とのQ&Aつき。Executive Producer はEmma Thompson。
昨年のDOC NYCでGrand Jury Prizeを獲っている。DOC NYCって、たまたまNYにいた時に第二回があって参加したけど、よい映画祭になってきたねえ。
2014年、ISISの侵攻〜虐殺によりYazidiの村が襲われ、父母、弟たちと平和に暮らしていたMedihaの一家は連れ去られ、家族は散り散りとなり、彼女は10歳で見知らぬ男に妻として買われ、そこから転売されて数年間、5年前に救出されて避難キャンプで別のところから戻ってきた双子の弟たち(末の弟は不明)と一緒に暮らし始めたところ。
監督がMedihaにカメラを渡し、カメラを手にした彼女は自分や弟たちにカメラを向けて自分たちが今いる場所について〜自分たち家族に起こったことを語り始める。なので、映画には監督がMedihaたちやISISの拠点から人々を救出するスタッフの姿を撮った映像、Medihaが弟たちやキャンプの生活を撮った映像、更には姉に教えられた弟たちが撮った映像の3種類があって、でもそれぞれに大きな段差はない。なんでこんなことになっているのか? の重い問いかけは3者に共通している。
話としてはとにかく酷くて陰惨で、父も祖父も行方不明のまま、母は後の方の調査で生きているらしいことはわかったが他の男の妻となり、その男の子供もいて名前も変わっているので救出/帰還の話を持ちかけても戻ってくるかどうか微妙、と言われるし、末の弟はトルコの方で別の家族に売られていて、買い戻した(!)あとにキャンプにやってくるのだが、ママがいないと寝れないなんで引き離した、って延々夜泣きがひどいし。
比較できるものではないが、やはり最もひどいのは現地で売られたMediha本人が語る自分の身の起こったことだろうか(注:具体的なところまでは語られない)。本人にそれを語らせるのって酷くない? と思ったが、上映後の監督の発言によるとMedihaの方からきちんと語りたいと言ってきたのだそう…
宗教とか原理主義とか見ている世界が違うとか第三者がいくらでも慮って言うことはできるだろう。けど普通に幸せに暮らしていた家族や一族や民族の生活をある日突然勝手に壊して潰してよいわけがない。許されてはならない。
ここだけじゃない、今の(いや、ずっとそうなのかも知れない)世界はこんなのばっかりで辛すぎて考えるのを止めたくなるけど、彼らが生きて晒されているのは考えたらどうなる、という世界ですらない。どうしたらよいのだろう…
終映後のQ&Aでも今のメディアはパレスチナとウクライナばかりで、現在の危機として重要であることは確かだけど、この問題もシリアのも、ずっと継続していて、なんの罪もない市民が理不尽に殺され続けている。報道の流行り廃りのようなことも問題、と。その通りではあるけど…
少しだけほっとした(でよいのか?)のは、Medihaは今はNYで暮らしていて、シティガールとして街にも馴染んで、人権問題の法律家になるべく勉強をしているのだそう。(アメリカの上映会には顔を出しているって)
地方選の結果を聞いて、ますます子供の頃に聞いた発展途上国の選挙みたいになってきたなーやだやだ、って思っているところに、少しだけ出張で帰国します。映画も音楽会もこっちで見たいのが山ほどあるのにー。
というわけで更新は少し止まる、か。
[film] Point Break (1991)
11月8日、金曜日の晩、BFI IMAXで見ました。
BFIのアクション映画特集の目玉 - ‘“Art of Action: Celebrating the Real Action Stars of Cinema”となるリストア版によるリバイバルで、その公開初日。それを記念してなのか土曜日の晩のIMAXでは”John Wick”ぜんぶをオールナイトでやるって(すごく疲れそう&ぜんぶ同じじゃないか)。IMAXで『七人の侍』が一度だけ掛かった際も、まだ完成はしていないが、という断りつきでこの予告編が流され、予告なのに拍手が起こったのだった。
監督はKathryn Bigelow、音楽はMark Isham、邦題は『ハートブルー』 …
“Bram Stoker's Dracula” (1992)よりも、”My Own Private Idaho” (1991) よりも前のKeanuがいて、これだけで一見の価値かも。
冒頭はJohnny Utah (Keanu Reeves)がLA警察に入る前のトレーニング風景で、射撃訓練とか完璧! って言われたり恥ずかしくなるくらいキラキラで、そんな彼がどことなくBoris Johnsonみたいな上司のPappas (Gary Busey) と組んで、神出鬼没の銀行強盗グループを追うことになる。 そいつらはレーガンとかニクソンの覆面をしていて、きっかり30分で済ませて逃げてしまうので足がついていなくて、でもこれまでの調査であるビーチにたむろするサーファーのグループである可能性が高い、と。
そこでJohnnyはサーフィンを習いたい、とその浜の売店でバイトをしていたTyler (Lori Petty) に声を掛け、経歴を偽って彼女と仲良くなりつつ、グループのリーダーのBodhi (Patrick Swayze)に近づいて、最初怪しまれていたグループの連中からも(運動神経はよいし根が素直なので)認められていって…
よくある潜入捜査で抜けられなくなっていってヤバいモノ、ではあるのだが、ありがちな仲間たちとの絆、というよりはJohnnyとBodhiの間のブロマンス、そして銀行強盗と同列に並べられるサーフィンやスカイダイビング、といった”100% Pure”アドレナリン放出系の死と隣り合わせのスポーツの快楽があり、それらを彼らと一緒に経験していくJohnnyは警察の顔を露わにして – 簡単に見抜かれる - 裏切るなんてことができなくなる。
そしてこの映画のBodhiは、わかりやすく邪悪なヴィランではなくそのような生をど真ん中に据えて堂々と生きる魅力的なアニキとして描かれていて、Johnnyが彼のと比べたら自分の仕事なんて… になることはわかっているし、BodhiもJohnnyの正体をわかってしまうし、彼が自分に惹かれていることも十分わかった上で、Johnnyを試すかのように最後の銀行強盗にうってでる。
どこかに『狼たちの午後』 (1975)と『ビッグ・ウェンズデー』 (1978)の変てこミックス、と書いてあって、確かにそんなふうなのだが、ここに70年代風の強いわかりやすさはなく、イノセンスが転がされ白とも黒とも言い切れない狭間で誰かが誰かを – 愛するのか殺すのか、という刹那。 例えば漫画の『バナナフィッシュ』にもこの感覚はある。 そういうのがあるのでアクション映画としては、大波ざぶーんで終わり、でやや大味、というか、アクションのもとにあるのは憎しみとか怒りとか、犯罪の動機になりそうなエモではなくただのアドレナリンではないか(動物か..)、という辺りにKathryn Bigelowの冷めた目があって、変な映画ではあるかも。
あと、きらきらのKeanuよりもPatrick Swayzeがすごくよいのでびっくりした。”Dirty Dancing”(1987) よかぜんぜんよいじゃん。
11.16.2024
[film] Heretic (2024)
11月6日、水曜日の晩、Curzon Aldgateで見ました。
A24制作、Hugh Grant主演によるホラー。作・監督はScott Beck、Bryan Woodsの共同。撮影はPark Chan-wookと一緒にやってきたChung Chung-hoon – とてもよくわかる。
怖そうなので見るか見ないか少し悩んだのだが、見ることにしたのは、Hugh Grantだから…? なぜ彼なら怖くないかも、と思わせてしまうのか。こないだの”Blink Twice” (2024)もそんなだったかも - Channing Tatumならいいか、とか。
熱心なモルモン教徒のふたり - Sister Barnes (Sophie Thatcher)とSister Paxton (Chloe East)が伝道のために一緒に戸別訪問をしている。Sister Barnesは力強く確信と使命感に満ちていて、Sister Paxtonはやや気弱で自信がなさそうで、そんなふたりが雨も降ってきたし、とっとと片付けましょう、とある家の入口に自転車を停めてロックして、ブザーを鳴らすとMr. Reed (Hugh Grant)が出てきて、英国人ぽいユーモアたっぷりのどうでもよい世間話をしつつ、妻がブルーベリーパイを焼いているから、とかなんとか、数回に渡って彼らを置いていなくなったりして、やがてSister Barnesがブルーベリーパイの匂いが蝋燭の贋物であることに気付いて、なんかこいつおかしいから出ようよ、ってなったところで鍵がかかっていて外に出られない状態になっていることを知る。
基本的にはHugh Grantの独壇場で、彼のすごいところは、なんで、なんのためにそんなこと – べらべら喋りまくるとか – をやっているのかぜんぜんわからない – 悟らせたり突っこませたりする隙を与えずに、その場を強圧的じゃないかたちでどんよりべったり支配してしまうことで、どう返したり対抗したりすべきか、と思い始めた頃にはもう遅い。
あとは、囚われたふたりとも宣教師なので力でねじ伏せるようなことは考えていない – それをやったら終わり、というのを自分も相手もわかっているので、でもそうやっているうちに気付いた時には泣いても騒いでもどうしようもなく無防備な状態にされていた、と。
しかもそういう状態にしてしまってからMr. Reedは宗教の話をふっかけてくる。すべての宗教の類似性とか根っこは.. とかなんとか、よくあるやつ。真面目な宗教者であればあるほど – ここではSister Barnesが食らいついて、でも落ち着いて蹴とばされて心証を悪くしたのはMr. Reedのほうだったようで、彼はますますこの娘にお仕置きしてやらねば、強く思ってしまったらしい。
時間までにどうにかしないと、とか、謎解きをしないと、とか、人質が.. とかではない、シンプルに、でもがっちりと幽閉されてあまり気持ちよくないものをいろいろ見せられて、先に何が待っているのか、なにをされるのかわからない、そういう種類の落ち着かない恐怖で、気の持ちようみたいなところで悲観も楽観もできて、その幅が結構広いので見ているほうはややしんどい(111分ある)。Hugh Grantが七変化したり、女性になって出てきたりすればまた別だろうが(ジャージャービンクスの真似はしてくれる)。
“Drive-Away Dolls” (2024)や“Love Lies Bleeding” (2024)にあったような邪悪な男(たち)に女子ふたりが立ち向かってぼろぼろにする・退治する、という最近の傾向を期待したのだが、そっちの方には向かわずトラディショナルで陰湿な監禁虐めサバイバルものになっていて、これが神学とかタイトルの「異教徒」の方に行ってくれたらもう少しおもしろくなったのではないか。
それにしても、クマを虐めて、今回は宣教師を虐めて、Hugh Grantはいつまでこんな小物感たっぷりの小悪党をやっていくつもりなのだろう… っておうちに着いてBBCをつけたら”Four Weddings and a Funeral” (1994) をやってて、なんだこれは… って思って気がついたらソファで落ちてた。
11.15.2024
[film] Emilia Pérez (2024)
11月3日、日曜日の晩、”Juror #2”を見たあと、Curzon Sohoで見ました。
LFFで見れなかったやつを順番に見ていくシリーズ。
監督はJacques Audiardなので、痛そうだし辛くなるかも、だったのだが、今年のカンヌでJury PrizeとBest Actress(女性のアンサンブルに対して)を受賞しているというので、見るしかないかー、と。原作はBoris Razonによる2018年の小説” Écoute”をもとにJacques Audiardがオペラ用の台本として書いたものだそう。
事前に情報を入れてなくて、なぜか中世ヨーロッパの女性ドラマだと思いこんでいて(なんで? どこで?)、現代メキシコのお話しだったのでびっくりして、更にミュージカルだったのでそれが更に倍にー。
冒頭、弁護士のRita (Zoe Saldaña)の上司もクライアントもなにもかもしょうもない女性(ではない男性)問題の訴訟とかいいかげんにして、の姿が歌と踊りで示され、そんな彼女が目隠しされてどこかに連れていかれ、悪名高い麻薬カルテルの大ボスManitas Del Monteと面談することになる。どうみてもラティーノのマチズモの大波をサバイブしてきて実際にそういうもの凄い風体と臭気を放つ彼は、ずっと間違った身体に生まれてきたことを苦しみ、その人生を後悔してきた(そういうタイプの人が犯罪組織の大ボスになれるかどうか、は少し考える) のだと。ついては、誰にも知られないように性別適合手術を受けたいので、しっかりした腕の外科医を探しだし、自分をどこかに隔離・失踪したことにして、家族(妻と2人の子供たち)も心配だからどこかに移す、この大作戦を企画・実行してほしい、報酬はたんまりいくらでも。
お話しとしてあまりに荒唐無稽で、それが突然Ritaのところに来たのも解せないのだが、あんな化け物みたいだった「男」が性別を変えたらどうなるのか? - ここにミュージカルの要素 - 歌とダンスを強引に突っこむことで、こんな世界ならこんなこともあるかー、くらいに思わせてしまおう、と。最近だと”Annette” (2021)がそんなふうだったのと同じように。
手術はうまくいったようで、Ritaも報酬を貰って解放されて、そこから4年後、再び呼びだされた彼女はどうみてもふつうの中年女性であるEmilia Pérez (Karla Sofía Gascón)と出会う。 それがかつてのManitasで、彼女は過去を隠した状態で自分の家族をこの家に呼んで一緒に暮らしたい、そして家族が失踪して悲しむ女性たちのためにできることをしたい、と言い出す。こうして再び動き出したRitaはEmiliaと一緒に失踪により生の時間が停止してしまった女性たちをケアし支援する団体を立ちあげて社会的なうねりを作っていくのだが、他方で夫Manitasが失踪した状態の妻Jessi (Selena Gomez)は悲しむどころかかつて付き合っていた男とよりを戻して、駆け落ちしようとしていて…
後半は悲劇の元を大量に作りだしていた過去の自分を、その性を反転させて、その結果のような形で多くの女性に救いと希望をもたらすのだが、自分の足下にいたex.妻だけは知るかそんなの、って突っ走り、その暴走が彼/彼女自身を... という極めてオペラティックな転換と階段おちがあって、構造としておもしろいなー、ではあった。けど、メキシコの悲惨な現実とも性適合手術のリアルともきちんとリンクしていないシュールなファンタジーとして見るなら、で、当事者からすればふざけるな、になるのではないかしら。メキシコでの反応はどうだったのだろう?
昨晩、Cursiveのライブに行く途中、道路を渡ったところで躓いて転んで膝と手数箇所を打って流血して、ライブはすごくよかったのだが、一晩寝たらすごく痛くなってきていやだ。なんでライブに行くと階段から落ちたり転んだりするのか?
11.13.2024
[film] Juror #2 (2024)
11月3日、日曜日の午後、Leicester SquareのCineworldで見ました。
94歳になるClint Eastwoodの新作。
どういう事情によるのか、なんか事情があるのかどうかすらもわからないのだが、Clint Eastwoodの新作って、駅やバスにそこそこの広告は出ているのに自分が普段行っている映画館のチェーンではかからなくて、カジノに併設された変なシネコンなどで細々とやっていたりするので、よほど意識していないと見逃してしまう – なので前作の”Cry Macho”(2021)も前々作の“Richard Jewell” (2019)も見ていない(←言い訳)。 英国での彼の扱いって、そんなものなの。理由はしらんけど。
原作はJonathan Abrams、撮影はYves Bélanger、音楽はMark Mancina。
ジャーナリストでアル中歴のあるJustin (Nicholas Hoult)には身重で出産間近の妻 Ally (Zoey Deutch)がいるのだが、ある事件の裁判の陪審員として召集される。
それはバーでカップルが喧嘩して、男性James Sythe(Gabriel Basso)の方が女性Kendall Carter (Francesca Eastwood)を殴って、女性は怒ってその場を去るのだが、男性はそれを車で追って、その晩、橋の下の河原でCarterは死体となって発見された、という殺人事件で、日頃から暴力をふるう傾向のあった男性が彼に反抗的な態度をとった女性を殺した、という一見、わかりやすいものに見えた。
出産前でいつそれが来るのかわからない妻がいるJustinにとって拘束時間の長い裁判に付きあうのは懸念もあったのだが、毎日18時には終わります、という説明を受けて陪審員をやることにする。 こうして彼は陪審員#2となる。
裁判は誰が見ても圧倒的に被告不利で進んでいくのだが、当時の状況を聞いていくうちに、Justinは自分が豪雨だったあの晩、現場の橋を車で通る時に何かにぶつかり、車を降りて確認したことを思いだす。なにも見えなかったので鹿かなにかかと思い、そのまま帰って車を修理に出したのだが、ひょっとして… という小さな疑念が審理が進むにつれて膨らんでいって止まらなくなり、ひと通りの聴取や尋問が終わり、陪審員同士の協議に入って、ほぼ全員が被告有罪で進んでいくなか、思い当ることがあるJustinはどうしても有罪、と言い切ることができず… 他の陪審員たちの「なにこの人?」を振り切って..
自分から見て無罪の可能性がある被告をどうしても有罪とすることはできず、その反対側で自分が有罪となることはなんとしても避けたい、という両極に引き裂かれたJustinの周りで起訴した地方検事補(ばりばり)のToni Colletteや、やる気がなさそうで証拠提示のミスをする公選弁護人のChris Messinaや、引退した警官で、Justinの妙な拘りをみて何かあるのでは、と勝手に調べ始めるJ. K. Simmonsなどが(彼から見て)禍々しく動きだし、結論が出ないので陪審員全員が現場に行って再検証するなど、平坦だった法廷ドラマが汗びっしょりのサイコスリラーに変わっていくところは見応えたっぷり。
陪審員の間では被告有罪が多数なんだし、子供も生まれて忙しくなるから早く切りあげたい、それなら目を瞑って有罪に入れてしまえば誰もなにも言わないのに、反対側でそちらに踏みきれない何かがあり、でもそれは善なるなにか、というものでもない。でもほんとうに鹿だったのかも知れないし… いや、彼は知っていたのだ、という方に淡々と追い詰めていくカメラの怖さ。そしてこれらが公正な裁きをすることを求められる陪審員の頭の中で起こっていること。例えば、と。
Clint Eastwoodがなんであんなにシネフィルやフランスで騒がれて讃えられるのか、ずっとあまりよくわからなくて、これを見てもそこは変わらないのだが、ものすごくおもしろくていろいろ考えさせることは確かかも。
Toni ColletteとNicholas Houltは“About a Boy”(2002)で母子をやっていたふたりで、そう思うとラストシーンがすごくじわじわくる。犯人(にさせられてしまう)役がHugh Grantだったら最高だったのになー。というおふざけを断固許さない気がするEastwood映画。
11.12.2024
[film] Paddington in Peru (2024)
11月9日、土曜日の午前10:00、BFI IMAXで見ました。
こんなの公開日に見ないでどうする、なのだが、8日の金曜日晩のBFI IMAXは”Point Break” (1991)のリストア版の公開日だったので、そっちに行った。
クリスマスシーズンが始まって、街の電飾も華やかになって、あちこちにPaddingtonが描かれたり置かれたりしている。
夕方は5時には暗くなって、誰もが早くおうちに帰りたくなるこの時期に、このクマ(なの?)はペルーに行くのだと。カリブでもマヨルカでもなく、ペルー?
冒頭、Paddington(Ben Whishaw)がLucyおばさん(Imelda Staunton)に助けられて育てられる経緯が語られ、大きくなったPaddingtonはロンドンに来て、Brown家の一員になるのが前2作。今回、Mrs BrownはSally HawkinsからEmily Mortimerに替わっていて、娘も息子もそれぞれ成長しているが、全体としてあの一家に大きな変更はない。監督は前2作を手掛けたPaul KingからDougal Wilson – John Lewis(こっちの百貨店)のCMなどを作っていた人 - に替わっている。 あと、Paddingtonは最初の方で英国のパスポートを手に入れている。前科のあるクマなのに。
Paddingtonはペルーの”Home for Retired Bears”で暮らすLucyおばさんから来てほしい、と誘われて、保険会社に勤めるMr Brown (Hugh Bonneville)はあんな危険なところにはとても.. って渋るのだが、新たにやってきたアメリカ人上司(Hayley Atwell)から“embrace risk!”って焚き付けられたこともあり、リスクマニュアルを携えて一家で行ってみることにする。
でも着いてみたら、歌って踊る尼で、”Home for Retired Bears”の所長のマザー(Olivia Colman)がLucyおばさんは少し前に行方不明になってしまった、というので、それなら探しに行かなきゃ、とブレスレットとか少ない手掛かりを元にジャングルの奥地に向かうことにして、観光船のキャプテンHunter (Antonio Banderas)とその娘を雇って連れて行ってもらうことにするのだが、このHunterはエルドラドの秘宝を探しておかしくなった先祖 – たぶんWerner Herzogの『アギーレ/神の怒り』(1972)に出ていると思われる - などに祟られていて、時々狂ったようになる。彼の周りを彷徨う他の先祖たちも他の呪われた先祖たちもぜんぶAntonio Banderasが演じている。こうして棄てられた船は壊れてみんなは投げ出されて、それを救出すべくMrs. Bird (Julie Walters)とマザーたちが飛行機で救出に向かう、などなど。
Indiana Jonesぽいアドベンチャーがてんこ盛りで、見ていて飽きないのだが、この河や大地を転がっていくアクションと、従来のPaddingtonが得意とする屋内でのピタゴラスイッチ的な玉突きアクションがうまく連動していかないので、やや中途半端で残念だったかも。 あと、これは狙ったのかどうか不明だが、ラピュタ(財宝~桃源郷探し)とトトロ(大切なおばさん探し)のミックス、というのもある。あのトトロみたいな咆哮、Ben Whishawがやっているのかしら? 英国のクマたち(含. Pooh)とジブリ系のは別種のモノとしておきたいんだけど…
相変わらず楽しいし、マーマレード・サンドイッチは食べたくなるし、家族で楽しめる映画になっていると思うけど、やっぱりPaddingtonはあの恰好でロンドンにいてほしいかも、というのを改めて確認する、ということなのか。 最後のところは移民の人々のありようについてのひとつのコメントになっていると思った – なんで彼の名はPaddingtonなのか、等も含めて。
あと、生物多様性の宝庫であるアマゾンのジャングルまで来て、なぜクマだけがあんな社会を形成してヒトと共存できているのか、ちょっとは言及あるかと思ったのに。“Puss in Boots”くらい出てくるかと思ったのに。出していいのに。
あと、Hugh Grantも最後にちょっとだけ獄中から顔を出す。 でも“Heretic”を見たばかりだったので、こいつほんと極悪でしょうもないな、しか浮かんでこないのだった。
[theatre] The Fear of 13
11月2日、土曜日の晩、Donmar Warehouseで見ました。
チケットはずっと売り切れでぜんぜん取れなかったのだが、当日の昼、ぽこりと空いた晩のが取れた。
アメリカのペンシルベニアで21歳の時に誘拐とレイプと殺人の容疑で捕まり、22年間死刑囚監房で過ごさなければならなかった冤罪事件 – その被害者であるNick Yarrisを取材した英国のドキュメンタリー映画 - “The Fear of 13” (2015) - 未見 - を元にLindsey Ferrentinoが舞台化したもので、Adrien Brodyはこれがロンドンの舞台デビューとなる。演出は”Prima Facie”を手がけたJustin Martin。休憩なしの約1時間50分。緊張で終わると少しぐったりするけど、だれることはない。
もともと狭いシアターで(StallはD列が最後尾)、折りたたみ椅子のA列はかぶりつき、というよりほぼ目の前にあり – そこの椅子の背に貼られた番号はそのまま独房の番号にもなっている。A列とB列の間には狭い通路が敷かれていて、そこも人が走ったり抜けたりしていく。
奥はガラス窓がはめ込まれた壁に重そうな扉があり、壁の向こうはしばしば監房の向こう側(の社会、連れだされて拷問されたりの部屋)だったり、その上のテラスのようになったところは、監獄映画にもよく出てくるような監視塔だったり。ごちゃごちゃしているようで、場面ごとにうまく工夫された見せ方をしていて、これが重苦しい牢獄の閉塞感をうまく救っている。
Yarrisの手記をベースにAdrian Brodyがナレーションで読みあげていく形で、若い頃にしでかした悪いこととか、どうやってあの晩のあの事故が起こって、それにどんなふうに巻きこまれて不本意に拘束されて – そこからの捜査ミスに誤認に手続きミスと偏見が重なり戻りのきかない雪だるまになって、全てがなんの根拠もない状態から歪んだ恐怖(The Fear of 13)に溢れた状態 - 牢獄に入って抜けられないようなことになったのか。牢獄での日々は、暴力的な看守や警官や囚人らが束になってのしかかってきて - 囚人役のひとが看守役も兼ねていたり – 変わり身が速い - その団子になったお先真っ暗の酷さに抵抗しようがないので自棄になるなか、調査にきた学生のJackie (Nana Mensah)と会話を重ねていくうちに仲良くなって獄中結婚して、でもやはり無理がきて別れることになったり、途中でDNAによる科学的捜査が可能となり、これが決定的に覆してくれる、とやってみたらここでもミス - 配送時にサンプルが破損する - が起こったり、ついていない、なんて言うのが憚られるくらい、全体として酷いしさいてーすぎて言葉を失う。
すっとそんなふうに、あらゆる出口と希望を塞がれ続けていくので、Adrian Brodyの、あの途方に暮れた表情や絶望で打ちひしがれている様子は重ね絵で当然のように見ることができるものの、あんまりの極限状態だらけなので、彼以外の俳優がやってもそんなに違いが出なかったのではないか、とか少しだけ。彼特有の軽み – なにやってるんだろう、ってふと洩れてしまう溜息のような巧いところ、見たいところをじっくり見ることはできなかったかも。 劇全体としてじゅうぶんに見応えあるのでよいのだが。
最後のカーテンコールの後に、Nick Yarris本人のメッセージが映像付きで流れて、日本でもついこないだひどいのがあったばかりだし、英国でも富士通の件が今だに話題になるし、なので、そうだよねえ二度と起こしてはいけない、しかないのだが、こんな劇を警察や検事たちが見るとは思えないし、こうして取り上げられるケースの方が稀なんだろうなあ… になる。こういう間違いや誤りはいつでもどこでも起こる可能性がある、という前提でどこかにチェックしたり救済できる仕組みがあるかどうか、なのだが、そんなの誰も作ろうとしないだろうし… ってぐるぐる。
11.11.2024
[film] Blitz (2024)
11月3日、日曜日の昼、Picturehouse Centralで見ました。
今年のLondon Film Festival のオープニングを飾ったSteve McQueen (作・監督)の新作。
“Blitz”とは第二次大戦中のドイツ空軍による英国本土への空襲 - 1940〜41年にかけて約8ヶ月間続いた - のことだそう。
冒頭、淡い日の射す部屋で生猫を横に置いてピアノを弾くPaul Wellerがいて、それだけでなんか.. "Shout to the Top!" (1984)のシングルの裏ジャケットで(たしか)髪をオールバックにしていた彼の40年間/後がなんのごまかしもなくそのままそこにあって、彼は”Grampa”と呼ばれていて.. ここだけでも見て。
主人公は彼の娘のRita (Saoirse Ronan)と孫のGeorge (Elliott Heffernan)で、Georgeだけ髪の毛と肌の色が違うのだが、その辺の事情はまだ明かされない。やがて空襲警報が鳴って、3人+猫は近くの地下鉄の駅 - Stepney Greenに向かうのだが、入り口にはシャッターが下ろされていて - これは今でもOxford Circusの駅とかでやってるよね - 中に入ることができず、市民がふざけんな、って殺到してどうにか開けさせて逃れる(当初、駅を避難場所にするな、と命じていたのは政府だって…)。 でもずっとこんな状態の繰り返しなので、RitaはGeorgeを疎開させることにして駅まで見送っていくのだが、彼はむくれて手を振るママに口をきかなくなり、列車がでてしばらく経ってからひとり飛び降りて、そこから反対方面に向かう列車に飛び乗って、ロンドンを - 母と祖父のいる家を目指す。
ストーリーはシンプルで、戦争〜空襲の混乱で引き離されてしまった母子がなんとか再会すべくいろんな人たちと出会ったり身の凍るような恐ろしい思いをしたりしながらサバイブしていく、というもので、どちらかというとGeorgeの目線で描かれていくことからも結末がどうなるかは見えているのだが、再会できてよかったねえ、というだけの話ではなくて、混血の少年の目から見た戦争 - 空襲にあう、というのがどういうことなのか、が極めて具体的に描かれている。最終的に戦争には勝利したが、その過程でGeorgeが経験したあれこれは現在の英国の意識無意識に根を張ったまま残っているのではないか。
“Occupied City” (2023)で戦争を挟んだオランダの町の変わりようをドキュメンタリーとして描き、”Small Axe” (2020)のミニシリーズで時代の変わり目にあった英国の移民や有色人種の苦難や絆をドラマとして描いたSteve McQueenにとって、これもどうしても描きたかったテーマだったのだと思う。70年代の子供だった頃に、彼が周囲の大人たちから聞いた戦時中の話。 戦争のありようがどう人や町を変えたのか、だけでなく、(それは人が引き起こすものだ、という認識に立って)戦争を通して人 - 例えば市民として変わったもの、変わらなかったものはなんなのか? を掘りさげる。この映画で英国の勝利は最後まで描かれることはない。 日本人の美徳を語りたがる人達が敗戦に触れようとしないのと同じように - 方向は真逆だけど。
ロンドンを彷徨うGeorgeは迷子として警察の世話になったり、壊された商店や遺体から金目のものを盗んでまわる盗賊団に使われたり、Ritaは女性を中心とした弾薬工場で仲間たちと働きつつ、行方のわかっていないGeorgeの父と出会った頃のことを振り返ったり。そして最後に描かれるシェルターだった地下鉄の駅が爆撃により浸水する事故は1940年、実際に起こったことだそう - ものすごく怖い。
印象に残ったのは、Georgeがよい警官 Ife (Benjamin Clémentine) - 彼も移民 - に連れられて沢山の人々が避難しているシェルターに入ったとき、隣のインド人家族との間にシーツで壁を作ろうとする家族に対し、Ifeが、そんなことをしたら我々はヒトラーと同じになってしまう、そうじゃないやり方で一緒にやっていけることを示さないといけないんじゃないか? って。その通りだよ、って泣きたくなった。
一瞬、街角でお説教をしているひょろっとした人が映り、ひょっとしてあの方は… と思ったらLinton Kwesi Johnsonだった。
この戦争が終わり、50年代になるとジャマイカ等から移民がやってきてダブやパンクの基層となるコミュニティやマナーが作られていく。全て連なり繋がっている一連のことなのだ、と。80年代初のUKの音楽に触れて、これは正しいなにかだ、と直感した人々は見てほしい。
ラスト、The Style Councilの”Walls Come Tumbling Down”(1985)でも流れないかしら、と思ったが、ちょっとしゃれにならないのだった…
[film] Small Things Like These (2024)
11月2日、土曜日の昼、”Anora”の前にCurzon Bloomsburyで見ました。
原作は“The Quiet Girl” (2022) - 『コット、はじまりの夏』の元となった短編”Foster" (2007)を書き、本作の原作『ほんのささやかなこと』(2021)も邦訳されているアイルランドのClaire Keegan。監督はTim Mielants、主演のCillian Murphyがプロデューサーも務めている。今年のベルリン映画祭でプレミアされた。
クリスマスに向かう1985年のアイルランドのNew Rossという町でBill (Cillian Murphy)は自営の石炭運送業をしていて、自分で小さなトラックを運転し、暗くなるまで働いて真っ黒になった手を石鹸で擦って - 手のクローズアップ - 洗って、妻のEileen (Eileen Walsh)や3人か4人いる娘たちに囲まれていて、それだけだと幸せそうに見えないこともないのだが、クリスマス前なのにずっと浮かない顔で笑顔がなく、窓の外ばかり眺めている。
夕暮れ時の町を車で走っていて、ひとりで棒を拾っている少年を見かけて、心配になって車を停めて声をかけたり - 少年の方がびっくりして怯えたようになったり、子供の頃、突然倒れてそのまま亡くなってしまった母のことが脳裏に浮かんで苦しくなったり、所謂midlife crisis的な何かなのかも知れないが、辛い思いをしている人たちの反対側で、自分はこんなふうに日々を過ごしていってよいのか? の問いに目の前を塞がれて動けなくなる - とてもよくわかる。
ある日、配達先の教会の隅でぐったりしている少女を見かけて、なんとか助けてあげた彼女の名は自分の母と同じSarahで、それもあったのか気になって次に行った時も教会関係者に聞いてみると奥から責任者らしいシスター(Emily Watson)が現れて問題はないし教会としてきちんとケアするのでお引き取りくださいと言われるのだが…
これがアイルランドで実際にあった - 18世紀から続けられてきたMagdalene laundriesというカトリック教会による少女たちへの組織的かつ継続的な虐待と隠蔽 - 2013年に政府が正式に謝罪 - を描いていたことを最後の字幕で知る。
というわけなので画面は最後までどんより曇って湿って暗くて、主人公は笑わずほぼ喋らず、これがCillian Murphyが”Oppenheimer” (2023)でオスカーを受賞した後の第一作と聞くと(あまりに地味すぎるので)感心してしまうのだが、どうしてもこれを作りたかったのだ、という彼の熱、というかもどかしさのようなものは伝わってくる。過去の事件に対してだけではない、世界中にまだいるであろう言葉を発することができない状態で苦しんでいる彼ら子供たちをどうにかしなければ、という思いは。 そして、この辺のもどかしさや悲嘆を演技に落としてこちら側を引き摺りこむCillian Murphyのすばらしさ。
これもまた”The Quiet Girl”の話ではあるが、こちらははっきりと虐待され隔離されて声を出せない状態にあった少女たちの話で、こんな”Small Things”を重ねていくしかない、というやりきれなさはある。あのバカのせいで腐った男どもが噴きあがっているようだが、そんなの全無視で、彼女たちの声を聞き取れるように耳をたてておきたい。
あとはEmily Watson。登場するシーン、姿が見えなくても声だけで彼女の声はそれとわかって、その声が法衣を着た彼女の姿に重ねられたとき、そこにある仮面の笑みの恐ろしさときたらそこらの尼ホラーが軽く吹っ飛ぶくらいの強さで、健在だわ… って。
11.09.2024
[film] Anora (2024)
11月2日、土曜日の昼、Curzon Bloomsburyで見ました。ここからしばらくはLFFでプレミアされたやつの後追いシリーズが続く。
カンヌでパルムドールを獲ったSean Bakerの新作。(世間一般からすれば)隅っこの方で暮らす人々のちょっとした機微やごたごたをナイーブかつヴィヴィッドに、痛快に - そのよさ・痛快さってなんなのか、も含めて - 捕らえてきた彼がパルムドール、と聞くとちょっと驚くが、ものすごく評判がよいと聞いて。
Anora "Ani" Mikheeva (Mikey Madison)はNYの高級めのストリップクラブで働いていて、客としてやってきたロシアの富豪の息子 - 若くて明るい以外になんの取り柄のなさそうなバカっぽい子 - Vanya (Mark Eydelshteyn)に、ロシア語が少しできるから、という理由で引き合わされて、べたべた営業していると彼は彼女のことを気に入ったようで、翌日Briton Beachのほうの豪邸に彼女を呼んで、更に気に入った、ので$15,000で一週間一緒にいてもらうことにして、その流れで仲間たちとプライベートジェットでベガスに行ってどんちゃん騒ぎして、その酔っぱらった勢いに乗って、Aniと結婚してしまう。Vanyaからすれば、Green Cardも貰えちゃうからよいか、程度で。
すべては酒とドラッグとセックス、その快楽があり、Vanyaはそれをお金(大金)で買う、Aniはそれを売る - 仕事/サービスとして応える。互いにそれで十分だと思っていたのだが、「結婚」 - 紙の契約によってそれらの色というか扱いが変わってしまう - ことをボンボンのVanyaはわかっていない、けど、セックスワーカーであるAniは十分にわかっていた… これにくっついて指輪とか毛皮とか…
やがてVanyaが「結婚」なるものをやらかしてしまったらしいことを知った富豪の手下でVanyaのお目付役のおじさん(Karren Karagulian)とその部下 - どう見てもちんぴら - 2人(Yura Borisov, Vache Tovmasyan)が彼らの「結婚」をキャンセルさせるべく乗りこんでいって、Vanyaはその現場から逃亡していなくなり、豪邸にひとり残されたAniと彼らの必死の、必死であればあるほどばがばかしくておかしい戦いと消えてしまったVanyaを探して寒そうなBrooklynの盛り場に出ていく彼らの、これもばかばかしい彷徨いが物語の中心にきて、やがて猛り狂ったVanyaの両親がプライベートジェットに乗って現れて…
全体としては、言われているようにスクリューボール・コメディ形式のPretty Woman、ということになるのだろうが、結末は結構苦くてせつない。最後にいつもの現実に戻る、夢から少し醒めてアザとかカサブタに気づく、という辺りはいつものSean Bakerだと思うけど、こんなにもそこらに転がっていそうな世知辛い結末にしなくたってさー、というのが少し。 “Home Alone”みたいにAniが家に侵入しようとするちんぴら達をぼこぼこにする話にしてもよかったのに。
あとこれ、愛とセックスをめぐるお話しのようで、ふつうの職場の労使関係でも起こりそうなお話しで、要はお金があって人数固めて支配している側がいつも勝つ、っていういつもの、と思って諦めることもできるか。
だだっぴろい豪邸で、ふりかえる度に犬のように交尾しているふたりの姿などがたまんなくよかった。
あと、既にいろんな人が言っているようにMikey Madisonの強さ、しなやかさがすばらしい。反対側に出てくる男性たちはみんなむかつくくらい普通でちっちゃく固まっていて、いちいちあったまくるのだが、手下のひとりとして出てきたYura Borisovは、“Compartment No. 6” (2021)に出ていた彼よね?
11.08.2024
[music] Big Star “Radio City” 50th Anniversary
10月31日、木曜日の晩、Hackney Churchで見ました。
Laura Marlingのライブ 4 Daysの間に1日だけ割り込んでいたのがこのライブ。7月からアメリカ〜欧州を回ってきた寄せ集めバンドのツアーの最終日。
最初に告知を見たときはなんだこれ? だったのだが、このメンバー - Jody Stephens, Mike Mills, Chris Stamey, Jon Auer, Pat Sansone が揃って同じステージに立つというのであれば見にいくしかないではないか。
彼らが所属していたバンドのライブはぜんぶ行った - Big Starは90’sの再結成版だけど、R.E.M.は初来日もNYでも行ったし、The dB’sは2005年のHobokenでの再結成に通ったし、The PosiesもWilcoも日本とアメリカで何度も見ている。 9月のElvis CostelloやNick Lowe以上に自分の根っこに深く刺さっているバンドの人達が、Big Starの3枚の中では一番好きな2nd “Radio City”をカバーするなんて、こんなの(以下略)。
入口はLaura Marlingの時の10倍くらい空いてて、フロアは暴れなさそうな老人だらけで、スタンディングがきつそう(自分も)で、でもSold Outはしたのかな? 前座はなしの2部構成だという。
20時過ぎに全員が出てきて、最初から”Radio City”かと思ったら”Feel” - 1stの1曲目だったので、へえ、になり続けて”The Ballad of El Goodo” - 1stの2曲目 - がきたので、このまま1st 〜2ndをフルでやったりして、と思ったがそれはなかった。
ステージ上の人たちは、みんなギターもベースも鍵盤もできて、ヴォーカルは全員がAlex Chiltonのkeyでリードを取れる、ということで、曲毎に担当楽器とリードが替わっていってせわしない。Jody Stephensもたまに前に出てきて歌ったりする(”The India Song”とか)。どうやって曲毎のパートを決めていったのか聞いてみたいところだが、どれも見事にはまっているので異議なし、にはなる。 それにしても、楽しそうにベースを弾くMike Millsの隣にギターを抱えたChris Stameyがいる、ってなんという光景であろうか、と。(R.E.M.の初期のプロデューサーだったMitch Easterはthe SneakersでChrisのバンド仲間だった、など)
5曲目から”Radio City”のセットになって”O My Soul”から順に演っていく。レコードでモノラルの録音しかないこの曲が、カラフルに突っ走っていくことの爽快なことったら(この曲でのベースはChrisだった)。 その先はどれも名曲だらけなのでみんな隅から隅まで歌えるのだが客席側はそれぞれ各自の口もとだけに留めているのが微笑ましく、でもさすがに”September Gurls”は大合唱になっていた。
“Radio City”を最後までやってから休憩、その後の第二部は、自分たちのバンドのレパートリーをカバーしていけばおもしろいのに、って思ったがそんなはずはなく、3rdの曲まで含めた回顧となって、“I am the Cosmos”までやる。Big Starの3rdがなんであんなに巷で評価されるのか、自分にはあまりよくわからなかったのだが、この流れのなかで聴いてみると複雑さとかも含めて曲の構成とか、格段に進化していることがわかる。
50年代ふうの、60年代ふうの、70年代ふうの、ハードなのからソフトなのから切ないのからポップに弾けるのまで、ほんとになんでもあるな、と改めて感心して、それは演奏している彼らが自分たちのバンドでやってきたことにもそのまま繋がっているよね、と気付いたり。
アンコールは一回、最後はこれに決まってらあ、の”Thank You Friends”で、そんなのこっちが君らに言うことだよ、って誰もが思ったに違いない。
この次はAlex Chilton没後15年(来年だよ)で再結集してほしい。すばらしいバンドの音になっていたから。
いろいろ辛くなったので会社を休んで日帰りでパリに行って、美術館いくつかとParis Photoとか見てきたのだが、トートひとつで軽く出たのが帰りは両手紙袋でよろよろ買い出しになってしまうのはどうしたものか。なんとかならないのか(ひとごと)。
11.06.2024
[music] Laura Marling
10月29日、火曜日の晩、Hackney Churchで見ました。
ここでの4Days(間1日あく)の初日。チケットはずっと売り切れで、3日くらい前にキャンセル待ち(スタンディング)のが取れた。
開場の19:00くらいに会場の教会に着いたら、すごい列が前の公園をぐるうーっと囲んでいて、こんなに入るのかしら? だったのだが入った。
教会だけどふつうにバーがあるし物販もやっている。新譜リリースにあわせたプリントもあったのだが、”Goodbye England”の – この曲好きなので - 手刷りサイン入りプリントを買った。
前座なしで20時過ぎに始まる。ひとりでギターを抱えて出てきて”Take the Night Off”から。彼女のライブを見るのは2011年のNYのWebster Hall以来だと思う – ロックダウン期間中に配信ライブはあったか - が、変わらずギターのストロークが力強い。かき鳴らすなんてレベルではなくブロックのようにどかどか落ちてくるかんじで、そこにあの澄みすぎてどこで鳴っているのか見えなくなる声が重なる。今回の新譜 – まだ聴いてない – は母になったことや育児の経験が反映されていると言われているが、多少滑らかになったくらいで、コアのがしゃがしゃ重層で揺らしてくるライブのギターの音色はハードコアとしか言いようがない。ライブで聴いてみてほしい。
”Goodbye England”まで演ったところで新譜のコーナーになって、左手に弦楽隊とベースの人、右手にはコーラス隊(名前はDeep Throat Choir…)が加わる。音は少しだけドリーミーな、滑らかな布団に包まるようなかんじでなだらかに高揚していくのだが、根本に横たわる違和、のトーンは頑固に変わらない。研ぎ澄まされればされるほど、のかんじはCocteau Twinsにあったものに近いかも。本人はそもそもフォークミュージックとはこういうものなのだ、と言うのだろうが。
一応言っておくけどアンコールはやらないのでー(昔からそう)、とあっさり告げてさらりと去っていった。
Iron & Wine
10月30日、水曜日の晩、London Palladiumで見ました。
イギリスのフォークの翌日には、アメリカのフォークを。数日前にチケット売れているのかしら? と見てみると前から4列目とかが出ていたので取ってしまった。
彼らを最初に見たのはCalexicoとの共同制作EP - ”In the Reins” (2005)のツアーの時で、これがすーばらしくよくて、Iron & Wine単独でのRadio City Music Hallでのライブも見て、アメリカで人気があるのはわかるのだがイギリスではどうなのか? フォーク的なものの質感からして結構違う気がする。イギリスのフォークって、アメリカだとブルースの方に近いのでは、とか。
バンドはSam Beamを中心に弦が2人、Key, Bass, DrumsでKey以外はすべて女性。Drumsとかすばらしく、豆を散らすようなよい音。
ステージの左手には、テーブルの上のOHP2台を操作する男女二人組 - シカゴのManual Cinemaがいて、切り絵とか影絵とかススキとかを駆使して月とかウサギとか落ち葉とかうっとりの幻燈世界を映しだす。ライブに合わせて手元でヴィジュアルを作って投影していくのって、むかしTown HallのBright Eyesで見たのが最後だったかも。
彼らのレコードは随分長いこと聴いていなかったのだが、Samの歌い方が少しアグレッシブに、力強くなったかも。昔は仙人みたいに静かで祈るように歌うかんじだったのだがとても気持ちよさそうに。だからどう、という話ではなくてこのバンドのどこで何をやっても - 自作だろうがカバーだろうが、均質に素敵に流れていくありようがよく出ている、と思った。
昨晩はTVつけないでスマホも見ないようにして寝て、起きたらほぼ決まっているようだった。
まっ暗。絶望。第2期ブッシュ政権の時よりも、ヒラリーが負けた時よりも(どちらの時もアメリカにいた)重くて暗いかも。だって犯罪者なんだよ。
たくさんのパレスチナの人たち、ウクライナの人たち、非白人の子供たち、なにも知らない動物たちが排除され、追われ、殺されていくだろう、森も氷河も無くなっていくだろう、これらすべてが「彼ら」白人の目先の利益追求のために正当化され、そのためのデマや隠蔽が茶飯事となっていくだろう。ぜんぶ正義の反対側の悪いことで、そうなるであろうことを十分にわかっていながら止められなかった。国の違いとか関係ない。悪いものは悪い。放置してはいけない。と言いたいけど今は力がでない…
イギリスにStop Trumpっていうトランプ阻止団体?があって、2017年頃、彼が渡英してくる時にデモとかやっていたのだが、昼過ぎに再起動したぞ、ってメールが来た。 あの風船人形とかまだ取ってあるのかな?
[film] The Train (1964)
LFFが終わったあとのBFIでは、12月までのでっかい特集として”Art of Action: Celebrating the Real Action Stars of Cinema”というアクション映画特集をやっていて(あと、”Echoes in Time: Korean Films of the Golden Age and New Cinema” - 韓国映画史を俯瞰する特集も)、サイレントの頃からキートンから『七人の侍』からジャッキー・チェンからターミネーターまで、なんでもありなのだが、特集の目玉は4KリストアされたKathryn Bigelowの”Point Break” (1991) - これまで権利関係で公開できなかったものが漸く、だそうで予告を見ると確かにおもしろそうかも。
そこから見た何本かを纏めて。見た順で。
The Long Kiss Goodnight (1996)
10月23日、水曜日の晩に見ました。監督はRennyHarlin、邦題は『ロング・キス・グッドナイト』。
小学校の先生をしているGeena Davisは小さな町で娘とBFと幸せに暮らしているのだが、8年前に妊娠した状態で浜辺で倒れているのを発見され、でもそれより前の記憶がないのが不安で、でもクリスマスパーティの後の自動車事故のショックで自分のなかの何かが目覚め、同時にTVで彼女を発見した悪そうな連中がわらわら追ってくるようになり、探偵のSamuel L. Jacksonと一緒に逃げたり戦ったり - 身体が反射して動く - しながら自分を取り戻していくうち、自分がCIAの凄腕スナイパーだったことを知り…
90年代、絶好調だったRenny Harlinと同様にドル箱脚本家だったShane Blackのコンビなので、なんの捻りもないどかどかと大味のアクション(これでもくらえ → どかーん)が繰り広げられていくばかりなのだが、どこか懐かしいし、これくらいで丁度よい(なにが?)のかも。ぼろぼろに引きずられた挙句、”Oh Shit..”って呻きながら彼方に吹っ飛ばされる定番Samuel L. Jacksonを見れるだけでもすばらしい。Geena Davisもかっこよいのだが、なんか、どこか無理しているかんじ – 眠らせていた女を目覚めさせたら怖いぞ、っていう強引なイメージ作りに貢献しているようなところとか、ね。
そして結婚していたRenny HarlinとGeena Davisはこの後離婚しました、と。
Captain Blood (1935)
10月27日、日曜日の昼に見ました。監督はMichael Curtiz、邦題は『海賊ブラッド』。35mmプリントでの上映。
まだそんなに有名じゃなかったErrol FlynnとOlivia de Havillandを主演に据える賭けに出て大成功した作品。
17世紀のイギリスで、外科医をしていたBlood (Errol Flynn)が逮捕されて死刑寸前のところを西インド諸島に流されて、そこのお嬢さんArabella (Olivia de Havilland)に買われてどうにか生き延びて脱走計画をたてるが、ばれていよいよやばい、ってなったところで横からスペインの襲撃にあって、そのどさくさで海賊になって名をあげて… という波乱万丈の巻きこまれ成りあがり海賊ロマンで、さくさく流れて2時間あっという間。終わってみんな大拍手で。
Bloodの何も考えていないふうでとにかく目の前の危機を乗り越えてなんとか生きていく能天気さと、同様に一切の湿っぽさを見せないArabellaの都合よい軽さ適当さが大恐慌の時代には必要だったのだろうかー。海賊のモンスターみたいに陰惨な、あるいは残酷で貪欲なイメージとは真逆のその場限り無責任男一代で、これなら自分も海賊になれる、って思った人は多かったに違いない。
当時のイギリス、スペイン、フランスとの関係もてきとーにわかって勉強になるけど、みんな英語で会話できたの? とかいつもの…
The Train (1964)
10月27日、日曜日の夕方に見ました。監督はJohn Frankenheimer。邦題は『大列車作戦』。こんなおもしろいのあったのかー、だった。
実話ベースの話ではないが、実際に絵画が運び出されそうになったことも、その手前で発見されたこともあるし、これをアメリカ軍の側から描いたGeorge Clooneyの”The Monuments Men” (2014)もあったよね。
第二次大戦末期のフランスで、ドイツ国防軍が国宝のような美術品 - ゴッホ、セザンヌ、ルノアール、ピカソ、ドガ、等々を次々梱包して列車でドイツ側に運び出そうとしていて、それを断固阻止すべくレジスタンスのBurt Lancasterたちと鉄道員たちが一緒になって飄々と妨害工作を繰りひろげていくの。でもそう簡単には行かずに作戦実行の度に沢山の人が消されていって、たかが絵画のために? って問いが繰り返されるのだが、Burt Lancasterのずっと噛んでいる苦虫と最後のくそったれ、がすばらしい。
最初の方に出てくる機関士のMichel Simonとか駅前食堂/ホテルのJeanne Moreauのそこらにいそうな疲れたかんじもかっこいいし、実際に列車を走らせて、止めて、脱線させてを実際にやっている、そのアクションの重さでっかさには感嘆しかない。走っている狂暴な列車を無理に停めたり壊したりすること、それを再び走らせること、そのために何をするのか、何が必要なのか、等が小さな人々の走りまわるシルエットに重ねられていって、その上に突然飛行機がやってきたり、というめくるめくな展開。
鉄道員たちひとりひとり、そんなに言い合ったりすることもなく、静かに沸騰している佇まいがたまんなくよくてー。
とってもどうでもよい話。BFIではフィルム上映前に、いつも予告数本とLloyds BankのCMが掛かって、このLloydsのCM(子供積み立てみたいなやつ)がすごくださくて不評で(日本の映画泥棒のよりはまし)、元気な客がいるときは”Rubbish~!”って罵声(→拍手)になるのが恒例だったのだが、1年くらい続いていたこのCMがLFFの後についに変わって、スポンサーは変わらずLloydsなのだがちょっとほっこり系のになった。少しはおとなしくなるかな.. と思ったら、先日やはり”Rubbish!!” “Still!!”って...
11.04.2024
[theatre] Macbeth
10月26日、土曜日の午後のマチネーを、Harold Pinter Theatreで見ました。
これの前日、金曜日の午後にトークイベントがあった。
David Tennant Meets Greg Doran: My Shakespeare
昨年出たGreg Doranの著書”My Shakespeare”について、彼とDavid Tennantがおしゃべりする(+サイン本つき)、というもので、金曜日の午後2時からこんなのやるなよ、ってぶつぶつ言いつつ、おもしろそうだったので行ってみる。こちらに来て少し演劇を見るようになって、演るほうも語るほうも見るほうも、如何にシェイクスピアがいろんなベースとして根を張って豊潤な層としてあるか、その深さと厚みにおそろしくなり始めている時期でもあったので、こういう機会はつかまえて行くようにしている。 休憩1回挟んで2時間強、自身のシェイクスピアとの出会いに始まりシェイクスピアを演出する/演じる深さおもしろさをどこまでも掘って語っていけるふたりだと思うし、司会や客席から投げられたどんな球も軽々と打ち返していたのでそうだと思うが、もっと勉強しな(お芝居見な)きゃ→自分、になった。がんばる。
それにしても、文化階層とか教育とか、いろいろあるにせよ、基層のようなところでのシェイクスピアのこの根のはり方ってなんなのだろうか、っていつも思う。アメリカとか日本にこれ相当のってあるのだろうか? それが文化というものなのだ、って言われたら黙るしかないのか。
で、ちょうどDavid Tennant主演のMacbethをやっていたのでその翌日に見る – ずっとSold Out状態でたまたまキャンセルが出ていたのを買えた(演劇のチケットはだいたい当日とるの)。 演出はMax Webster。休憩なしの約1時間50分。
客席の各椅子にはヘッドセットが置いてあって、それを掛けてみるとテスト用の音声が流れて、聴力テストみたいに右側、左側でそれぞれ音が正しく出ていることを確認させられる。これ難聴の人とかどうするんだろうと思ったが、外してもふつうに舞台の音は聞こえたので、効果を高めるためのものだということがわかった。実際、音質は3Dですばらしくよくて、姿を現さない3人の魔女が耳元で(レフト・センター・ライトで)呻くように呟いたり囁いたりしてくるし、剣の金属のきーんていう音とか、Macbethの声は独り言のような小さいものでも拾われるし、喋りながら自分の髭をなでるじょり、っていう音、息遣いまで生々しく伝わってくる。主人公がいろんな内面の声に縛られ操られたりしながら自壊していくドラマの背景として的確かつすごく効果的ではないか、と思った。
Lady Macbeth (Cush Jumbo)の確信(悪意)に満ちた声とぶつぶつも含めて悩み苦しんでいくMacbeth (David Tennant)の声の – どちらかが打ち負かされ潰れていくドラマはこのサウンドスケープのなかでじわじわと進行していくし、Lady Macduff (Rona Morison)と子供たちが殺される場面も暗闇のなかの音のドラマとして細部まで生々しい。音や声のもつリアリティやニュアンスを舞台用に拡大再生したりしなくても伝えることができる、って結構すごいことではないだろうか。
舞台は奥の半分がガラス箱のように仕切られていて、そこにケルトっぽいどんどこ民謡を演奏したり歌ったりする人たちとか、奥まったところで議論する人たちが詰められていて、前のほうはシンプルな段々がある程度。ガラスの向こう側で決められたり動いたり守られたりしていく何か、フロントでもがいたりのたうち回ったり殺されたりしていく人々、という対比があり、全体のビジュアルは表現主義映画っぽいシャープな光と影のなかで映しだされる。浮かびあがる音像も含めて、ちょっと映画っぽすぎる、というのはあるかも知れない。
他方で、前のめりにのめり込ませるライブの緊張感はやはり演劇のものとしか言いようがなく、David Tennantすごいな、になるしかなかった。
[film] The Room Next Door (2024)
10月27日、日曜日の午後、BFI Southbankで見ました。
こんなふうに映画祭の1週間後には殆どの新作が見れるようになるのだから、がんばって映画祭のチケット取る必要はない。 でもその皺寄せなのか11/1公開の新作が多すぎてやってらんない。この週末なんて5本見ても追いつかなかった。
ヴェネツィアでプレミアされて金獅子を獲ったPedro Almodóvarの新作 - これが彼にとって初めての英語劇なのだそう。原作はアメリカのSigrid Nunezによる小説 - “What Are You Going Through” (2020) 。
冒頭、NYのRizzoli(本屋)でサイン会をしている作家のIngrid (Julianne Moore) が並んでいた友人からしばらく会っていない友人のMartha (Tilda Swinton)が末期癌の治療をしていて状態がそんなによくないらしい、と聞いて病院 - あの橋、Queensboro Bridgeのようだがあんな角度のとこに病院あった? - に駆けつける。
ふたりは80年代、Paper Magazine - 当時の先端タウン誌 - の仕事で出会って、MarthaはNY Timesの戦場カメラマンだった。ふたりの会話とIngridのMarthaへの寄り添いぶりから彼女たちの絆の深さが見えてくるのだが、最後の望みをかけていた最新の治療法が失敗したことを知ると、Marthaはずっと考えてきたらしい自分の最期までをどう過ごすか、の計画を実行に移すべくIngridについてきてほしい - つまり自分の死を看取ってほしい、と。
考えや思いを共有してきたふたりなので、戦場で死と隣り合わせだったMarthaが考えたこと - 彼女がその決意を変えるとは思えないし、自分が断っても彼女は実行するのだろうし、とIngridは同意してレンタルしたNYのアッパーステイト - ウッドストックの方にあるモダンな山荘 - の設定だけど家のなかのコンセントの形状が違うのであれアメリカじゃなくて、ヨーロッパだよね? - に車で向かう。
隣りのベッドで看護するのではなく、ふたりの部屋は別々にする、だいじょうぶな時は部屋のドアを開けておく、Marthaが自分でもうだめだ、となった時には薬を飲んでドアを閉めておくから、という合図を(Marthaが)決めて、何が起こるのか予測できない共同生活が始まって…
戦地のボスニアに溢れていた死やベトナム戦争でPTSDを患って自殺のように火に飛びこんで亡くなってしまった夫を見てきたMarthaにとって、死はドアの向こうにあるアクセス可能ななにか、でしかない、ということがふたりの部屋の上下斜めになったレイアウトとか、朗読されるJames Joyceの”The Dead”などから明らかになって、あとはそこにVirginia Woolfの”A Room of One's Own”とかIngridの語るDora CarringtonとLytton Stracheyのこととか繋がってくるいろんな予兆など。
いつものPedro Almodóvar映画にある、見えないなにか(よくなかったり汚れていたり)を表に暴きだす際の亀裂とか断層のような要素や展開はそんなになくて、死という未知の領域に向きあうふたりの女性をまっすぐに描いているので、え?これだけ? にはなるかも。でもその分、ふたりを囲む文化周りの記号、その配置がいろいろで、冒頭のRizzoliも、ふたりが会話をするAlice Tully Hallのロビーも、壁に掛けられたPaper Magazineの表紙も、レンタルした家にあったEdward Hopperの”People in the Sun”も、あのレンタルした家の本棚の本も、ぜんぶ気になりすぎてあまり集中できなかったかも。 インテリアも、NYのMarthaのアパートからの眺めとか、作りものってわかっているのに見入ってしまう。
最後におまけのように足されてくるMarthaの娘の件も、これはこれで相当深く掘れたのかも知れないが、そちらは”The Souvenir” (2019)でやってしまったから?とか。
あと、Julianne MooreとTilda Swintonがドラマをするとしたらこの設定しかないのではないか、というくらいにこのふたりのありようって、最初から見えていて、そこから掘っていった、と言われても信じてしまうかも。それくらいー。ただ、もう少しぐさぐさやり合う修羅場のようになるのかも、とか思ったけど、静かだった。
ちょうど、古書でNoel Carrington(Doraの弟)による”Carrington” (1978)を見つけてめくり始めたところだったので少し驚いたり。
11.02.2024
[film] Teaches of Peaches (2024)
10月24日、木曜日の晩、Barbican Cinemaで見ました。
毎年やってくるDoc'n Roll Film Festivalのオープニングで、ロビーは人で溢れかえっていた。上映後にPeaches(Merrill Nisker)とのQ&Aつき。
“The Teaches of Peaches” (2000)のリリース20周年を記念したツアーの記録を中心に、これまで彼女がどんなことをやってきたのかを振り返る - キャリアを総括するようなものではないから間違えないように、と上映後に本人が釘をさしていた。
00年代の音 - Roland MC-505のエレクトロを中心にぶいぶい鳴らしてアゲて、ざっけんじゃねーよ! って蹴散らしていくバンドがいっぱい出てきて、おとなしくて暗めの人たちはDFA - LCD Soundsystemとかの方にいってフロアの床を地味に蹴って、よりパンクな方はLe TigreとかM.I.A.とかPeachesとかに行って踊ったり拳をあげたり噴きあがっていた。 自分はどちらかというと前者の方だったけど、すぐ隣だったり近くだったりしたので、ライブも何回かいった。 あの頃、PeachesやLe Tigreの存在に救われた子とか多かったのではないかしら。
現在住んでいるベルリンのスタジオで、ツアーに向けたリハーサルの合間に、昔の映像が流れてPeachesの前にやっていたThe Shitのバンド仲間だったChilly Gonzalesからのコメントとか、90年代ぼろアパートに一緒に暮らしていたFeist - ローラースケートをはいて謎のキラキラでバックボーカルしている姿が笑える – からのコメントとか。当時からずっとああだったのかー、などと思っていると、子供たちを前にアコギを抱えて歌のおねえさんをしていた時代の映像が微笑ましい。
20周年のだから、と特別に気合いを入れたり思いや抱負を語ったりすることなく、メンバーと一緒に淡々と変てこ衣装やメイクを仕込んでリハで確認してライブでぶちかまして次にいく、その後ろ姿がかっこいいったら。
Peachesの教え - "Fuck the Pain Away"は、20年経っても色あせていないし、たぶんPainは消えることなくまだあって、でも"Fuck xxxx Away"だ! って泡をぶちまける。 彼女のヴォーカルって、どんなに激しく荒れたやかましいライブになっても、言葉としてきちんと届く・届かせるものになっているのだということが映像を見ているとわかる。
彼女とのQ&A、想像していた通りの素敵なひとで、ベルリンに住んでいると今は言論統制とかいろいろあると思いますが.. と問われて、即座に、Free Palestineだ、そんなのあったりめーだ、って強く (大拍手)。
Devo (2024)
10月25日、金曜日の晩、同じくBarbican CinemaのDoc'nRoll Film Festivalで見ました。
開始が18:15で、この日はそのまま↓のにハシゴしたくて、会場間の移動時間を30分とすると結構ぎりぎりなのだがなかなか始まってくれなくて、イントロもゆっくりで、このフェスのそういうずるずる運営がいやだ。
これまでありそうでなかった(あったのかな?)Devoの歴史ドキュメンタリー。
Kent State UniversityでGerald CasaleとBob LewisとMark Mothersbaughが出会って楽器も何もないところから始まるのだが、オハイオの州兵に学生たちが撃たれたあの事件 – Neil Youngの歌ったあれ - が起こった当時の学生だった、というのに驚く、のと彼らが作った冊子とか落書き、ばかばかしい写真に映像、証言とかも全部取ってあってどれも当時から一貫していたのがおもしろすぎる。 NYに出てからBowieに惚れられてEnoを紹介されて、というその過程もDe-voとしか言いようのない野心を欠いた(ように見える)転がりよう - ところてんが押しだされるみたいに種も仕掛けもないかんじなのがすごい。
日本では(たしか)江口寿史の漫画でギャグのように紹介されていたのだが、実際にStiffから出た”Jocko Homo"を聴いたら痛快に尖がっていて、びっくりしたのを思い出す。Talking Headsより断然パンクじゃん、と当時思ったし、いまも少し。
低迷期を抜けて再び盛りあがろうとしていた90年代辺り – 残り10分くらい - で次のがあるので泣きながら抜ける。 バンドの立ちあがり~黎明期の一番クリスピーで膝を何度も打ってしまうところを確認できたのでよしとした。 資料が十分に網羅されていてわかりやすく、音楽ドキュメンタリーの見本のようにとてもよくできていた。 いつか再見したい。
結成から約50年が経って、人類は着実にDevoしてきたと思われるのだが、バンドはその逆になっているのではないか? という辺りについて最後にコメントを聞けたのではないか、とか。
S/he is Still Her/e: The Official Genesis P-OrridgeDocumentary (2024)
10月25日、金曜日の晩、↑のに続けて BFI Southbankで見ました。BarbicanからSouthbankに向かうバスが来なかったので仕方なくタクシーを使った。今年赴任してからタクシーを使ったの2回め。
ロンドンプレミアで、客席にはPeachesもいたらしい。 Genesis P-Orridge (1950-2020) のドキュメンタリーは2022年にMOMAの配信で”Other, Like Me: The Oral History of COUM Transmissions and Throbbing Gristle” (2020) を見ているし、その前にも”The Ballad of Genesis and Lady Jaye”(2011) というのがあったし、少しだけまーたかよ、にもなるのだが、これは”Official”ドキュメンタリー、だという。たしかに、アーティストの - 人としてもだけど - 生きざまとしておもしろすぎ、というのはあるかも。人生そのものがアートでした、というよく使われる文句がこの人ほどイメージとして鮮明に表出して、その変貌も含めてアート的に痛快に転がっていった例を知らない。そして本人はそれらを特に狙ってやっていったわけでもない、いろんな人たちとの出会いのなかで巻きこまれるように紡いでいった(本当かどうかはわかんないけど)ように見えるぐんにゃり柔らかい動物のような不思議さと不穏さと。
生まれ育った頃からCOUM~TG~Phychic TV辺りまでのことは、ヌードの肖像画を描いてもらっている晩年の彼/彼女の様子と並行して語られ、内容としてはほぼ知っていることばかりだったのだが、90年代、QueensのRidgewoodに移り住んでLady Jayeと出会った辺りからがおもしろくなる。 Love and RocketsのKevin Haskinsが語るRick Rubinのスタジオの火事で焼けだされた時のこととか(他にもいっぱい)。
上映後に監督のQ&Aがあったのだが、夢にGenesisが出てきてドキュメンタリーを作ってほしい、と言われたので本人に会いにいった、とか、聞き手のひとも自分のことばかり喋っててちょっとつまんなかったかも。そういう磁力みたいのがあった人、であることはよくわかった/しってた。
一瞬、“Pretty Hate Machine”のジャケットが映ったりもする。