12.23.2024

[theatre] The Importance of Being Earnest

12月14日、土曜日の晩 - BFIで”The Shop Around the Corner”の終わったのが19:20、そのまま隣の建物に移動してNational TheatreのLyttelton Theatreで見ました。開演は19:30。

原作はOscar Wilde、彼が最後に書いた戯曲で、初演は1895年。演出は(こないだ”Macbeth”を見たばかりだわ、の)Max Webster。ポスターやビジュアルは原色ピンクで演劇のそれには見えない。日本語題だと『真面目が肝心』 。「真面目が肝心」というからには真面目であるとは、不真面目であるとはどういうことか、をきちんと示す必要がある。そういうとこを押さえつつバカなことばっかやっているのですんごく笑えておもしろかった。

オープニングは真っ赤なドレスで女装したAlgernon (Ncuti Gatwa)がグランドピアノを叩きながら絶唱する、その周りで金魚のようなダンサー(登場人物?)たちが舞うディナーショーの演出で、モダンでキッチュでクィアでゲイで、何重ものひらひらで目眩しにあって、そんな二重のアイデンティティを維持していくことに生の歓びを見出している(この生き方は”Bunburyism”と説明される)彼が、田舎ではJack、都会に出るとErnestと名乗ってやはり二重のIDを使い分けて平気な顔のJack (Hugh Skinner)と出会って、それとほぼ同時にそれぞれが運命ぽい女性Cecily (Eliza Scanlen)、Gwendolen (Ronkẹ Adékoluẹjo)とぶつかって、なんだか結婚したいかも、ってなったりするものの、素の本性をリアルにさらけ出さないわけにはいかない婚活において彼らの信条である”Bunburyism”のありようが揺さぶられて、こんな奴らに結婚なんてできるのかしら? という辺りで巻き起こる互いの足を引っ張りあったり互いにカバーしあったりのどたばた喜劇なの。

表の顔(名前) - 裏の顔 (名前)と共に生きる、みたいなことについて、なんでわざわざそんなことを? になってしまう子供にはちょっと難しいかも。わたしは80’sを通過してきたので、この辺の真剣なバカバカしさ(オルタナでEarnestという名前をもつことの重要さ)、しょうもないと思いつつも止まらない衝動と虚構を滑っていく紙一重のスリル、あーなにやってるんだろ? がものすごく腑に落ちてきてたまんなかった。

実際にはSNLのスケッチみたいな(Eddie MurphyとWill Ferrellが激突しているような)ショートコントがメインの連中からも脇役からもボケvs.つっこみではなくボケvs.ボケのノンストップで繰り出されては炸裂し転がっていくのでどうやって決着つけるんだろ? と思うのだが、そのうちこれらの応酬はぐしゃぐしゃの混沌に向かうのではなく、全てが結婚という制度の過剰さ、滑稽さに繋がっていること、これを通過してもなお個が個として生きるには、という割と真面目なテーマに向かっていることがわかってくる。

そして真ん中の2組のカップル以外の脇役- 牧師Canon Chasuble (Richard Cant) とかMiss Prism (Amanda Lawrence - SWのEP8〜9に出ていた嘴鼻のひと!)とか、Gwendolenの母Lady Bracknell (Sharon D Clarke) - 宇宙のすべてを束ねているかのようなドスのきいた貫禄 - も混沌に拍車をかけにくるのだが、あ、それ言っちゃうのか… になっても別の変人がきれいにカバーしたりひっくり返してくれたり、全員がなんか引っかかるけど、ま、愛しあってるならいいか(あんまりそうは見えないのだが)になって、最後はパレードのように羽根をばさばさ、みんなくるくる回っていくの。幸せになれるよね! って。

このプロダクションが10年前に実現できたかというと、やはりちょっと難しかったのではないか、という気がして、縁談〜結婚も含めた人との関わりかた - “Social”のありようが結構変わってきたのでは、とか”Bridgerton” (2020-) - シーズン1しか見てない - の登場とヒットがもたらしたものって小さくなかったのではないか、とか。

にっぽんでも夫婦別姓や少子化テーマにこんなおちょくり劇をやっちゃってもいいのにな。やるなら今だと思うなー。

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