11.30.2024

[film] No Other Land (2024)

11月15日、金曜日の晩、Curzon BloomsburyのDoc-Houseで見ました。

今年のベルリンでプレミアされ、Panorama Audience Award for Best Documentary Filmを受賞している。

その際にパレスチナのBasel AdraとイスラエルのYuval Abraham、共同監督のふたり(あともう2人クレジットされている)が同じテーブルで会見できないことが話題になったりしたのを憶えている。

監督のBaselが、子供の頃からずっと住んでいたWest BankのMasafer Yattaの家を軍の戦車によって潰され、家族親戚揃って問答無用で追い出される様子が描かれる。Baselはその様子をカメラで撮る。何度撮るのをやめろ、軍の訓練用に使うことになった土地だから、と執拗に陰険にやってきて彼らを追い払い、抵抗する住民に銃を向け - なんの躊躇もなく撃ったりするイスラエル軍の様子を、Baselは何度でも、カメラを取り上げられそうになっても逃げて、撮り続ける。

「ここからどけ、他に行け」というイスラエル軍に対して「他なんてない」 - “No Other Land”だ、というやり取りが延々繰り返されていく、それだけの映画である。

人は生きている限り住む場所を必要とする。どこそこに行け・移れ、と言うのではなく、その場所から出ていけ、というのは、お前なんて消えてなくなれ、と言っているのに等しくて、イスラエルのやっていることはそういうこと、彼らにこの地上から消えてほしい、と明確に告げていて、これは彼らがガザでやっている虐殺とも整合することなので驚きはない。

最後の方で軍の訓練で使う土地だから、とイスラエル側の理由づけも彼らのウソだったことがわかり、そんなウソをついてまで他者に向かって消えてくれ、と言う - なんでそんなことを言えるのか、は本当にわからないし、わかりたくもない。過去に同様のことをされて土地を追われた - そんなことが理由になってよいわけがない。

少しだけ救いなのはどれだけ追われても暴力をふるわれても、岩だらけの土地に住処を拵えて水や電気を引いてこれまでと変わらない暮らしを続けていく彼らの強さと、どこからどうしてやってきたのか彼らと寝食を共にして撮影に参加してくるイスラエルの若者Yuvalと、そんな彼がそこにいることを許すBaselたち、だろうか(日本人だったらみんなで袋叩きにするのではないか - 既に起こっているようだが)。

自分がこれまで見てきた映画の多くは、「ここではないどこか」へ移ること、移れることを自明の理として、その前提に立って展開されるものだった(拘束されたり閉じこめられたりの不条理・非現実も含めて)。この映画で描かれるリアルは本当に、実際にそういうことが起こるとどうなるかを淡々と示す。ポスターには岩場に寝転がっているBaselの姿があるが、本当にそれしかできないのだ、ということ。そうなった時に映像には何ができるのか、それでも何をすべきなのか、を問う。

いまの世の中は、どれだけ酷いことになっても誰も助けてくれない状態 - 司法は機能しないし正義や倫理が成り立たない状態 - が十分にありうる、ことを嫌と言うほど見せてくれる。自分の周囲で本当にこういうやばい状態になった時への備えも含めて、まずは異議を唱え続けるしかないのか…

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