12.03.2024

[film] ナミビアの砂漠 (2024)

11月23日、土曜日の夕方、ポレポレ東中野で見ました。

この日の午前に東京都写真美術館で『秀子の車掌さん』(1941)を見て、80年も経つと女性の像って随分変わるもんだなー、と。

今年のカンヌの監督週間で上映されて、国際映画批評家連盟賞を受賞した作品。 という他に、どんな映画なのかは一切知らずに見る。 監督はこれが長編第一作となる山中瑶子。音楽は渡邊琢磨。

21歳のカナ(河合優実)はエステサロンに勤めていて、でも正社員なのかバイトなのか、仕事は割とどうでもよさそうで、そのどうでもよくなさそうなものってなんなのかはっきりしなくて、恋人のところに同棲していて、その長髪の恋人はやさしそうで面倒見もよさそうだけどちょっとうざいところもあり、もう一人別のクリエイターぽいヒゲの男とも付き合っていて、気がつけばそっちの男のアパートに一緒にいたりする。 この辺の転々とその経緯について、特に彼女の口からも、他の誰からも語られることはなく、なんとなく猫っぽく飼い主右から飼い主左に移っただけ、っぽい。 

すべてがその調子で、彼女の好き嫌いや行動や世界観が彼女の言葉や会話のなかで語られることも、それらがこうだからこう、と第三者から具体的に語られたり示されたりすることもない。少し離れたところから野生動物をとらえるかのように、でもカメラの中心に彼女がいることは確か。ショートカットで、鼻にピアスしているごくふつうに見える若い女性。

そのうちヒゲの方と暮らしていくなかでふたりの言い争いや小競り合いが少しづつ増えていって、その衝突はカメラを見る限りでは彼女が突然キレたりして、その理由もよくわからないのでなんだこの娘は、になり、その暴れっぷりと理不尽さがだんだんひどくなって車椅子の生活になったりもして、そこから回復しても彼女の行動原理は変わらないようなので映画としては殺し合いみたいな方に向かっていくのかしら? と思っていると突然彼女とカウンセラーらしき人の会話で「双極性障害が... 」とか出てくるので、あ… ってなる。 自分の頭のなかで起こるここの転換が鮮やかで、やられた、までは行かないけどそういう転換をもたらしたのははっきりと映像の力でもあるので、すごいな、って。

男女(でなくてもよいが)の関係を描いたものを見るとき、彼も彼女も互いがそれぞれの想定とか慣習とか見えないルールとかコードに基づいて行動すると思っていて、それは映画の場合でも、というか映画の場合だと普段のそれより強調された形のものが、(それぞれの内面で思っていることは別として)提示されると思いこんでいる。というのが本当にただの思いこみに過ぎないのだな、となった時に見えてくる愛の姿とは。を結構冷めて突き放して眺めているかんじ。

カナがひとりでいる時にスマホでぼーっと見ている動画 - 水たまりのある砂場に鳥などが集まってだらだら勝手に過ごしている光景 - があって、これがたぶん「ナミビアの砂漠」なのかしらと思うのだが、ここには誰が何をしていようと気にしないし介入しないんだからほっとけ、というのと、それが「ナミビア」の「砂漠」だったとしてそれがなんだというのか - どっちにしてもほっとけ、というのがあると思って、それが愛だろうがケアだろうが - でもDVまで行くとちょっと違うけど - 別に知ったこっちゃないから、と。

邦画でいちばん嫌いで気持ちわるい絆、とか、わかってくれる人が、とかを砂漠の彼方に蹴っとばしてくれるだけでうれしくて、すき。


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