5.18.2024

[film] Hoard (2023)

5月11日、土曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。 ふつうの新作のPreview公開。

作・監督はこれが長編デビューとなる英国のLuna Carmoon。 BFIとBBCがバックについていて、まあ、ぜーったい日本での公開はないと思う - くらいに地味で、血みどろ残虐シーンとかはまったくないものの、じんわり生理的・感覚的なところに訴えてくるなにかがあり、なので入り口には「不快感を与えるかもしれない描写があります」とか貼ってあったりするのだが、すばらしくよかったの。

80〜90年代にかけての南東ロンドンの下町で、母Cynthia (Hayley Squires)と幼い娘のMaria (Lily-Beau Leach)がショッピング・カートをがらがら転がしながら遊ぶように落ちているモノを拾ったり漁ったりしてそのまま家(自分たちのなのか不明)に戻るとそこにはゴミ屋敷のように拾ってきたりしたいろんなものが吹き溜まっていて、他の家族はいなくて、ふたりで散らかしまくったりしながらもお風呂に入ったりTVを見たり - 『ブリキの太鼓』 (1979)でのあるシーンが印象的に映し出され、それを食い入るように見つめるMaria - 母娘でおおむね仲良く楽しんでやっているのだが、ある晩、崩れてきたゴミの下敷きになったママは動けなくなり、救急車が呼ばれて命は助かったものの、Mariaはそのまま里親のところに保護されることになる。

そこから時間が過ぎて高校生くらいになったMaria (Saura Lightfoot-Leon) - 服に”1994”とある - はふつうによい子でもないが酷くわるい子でもなく、そんな状態で里親のMichelle (Samantha Spiro)のところにいて、そこにMichelleが育てた別の里子のMichael (Joseph Quinn)がやってきて同じ家のなかで暮らすようになって、ある日突然母Cynthiaの遺灰が届けられた辺りからMariaの挙動ふるまいがだんだんおかしくなっていって、お腹の大きなガールフレンドがいるMichael と変な関係になったり自分の部屋に溜めこみはじめたり…

おそらく心理学的に説明できる何かは沢山あるのだろうが、医師や警察が呼ばれるような方と事態には向かわず、Mariaが執着してしまうもの、彼女が見つめてしまうものの先にあるひとつひとつがなんとなく、でも確かな切実さと説得力でもってこちらに伝わってくる - それってなんなのだろう? - ので、監督の実体験に近いところもあるのかも、と思うのだがそこは別に知らなくても。

子供の頃にママとの間で、ママと一緒に築いていったお城 - Hoard - ある時一瞬で奪われるように消えてしまったその礎やパーツのひとつひとつは他の人から見ればゴミかも知れなくても、人によっては「トラウマ」って片付けてしまうだけかもしれないし、わかってもらおうなんてこれぽっちも思わないけど、子供の頃の秘密の大切ななにかで、他者が決して取り上げたり葬ったりすることはできないし、なにかで解消したり代替できたりするものではないし - だからあたしも含めてどこかに散らして放っておいて。

大人になることをやめた『ブリキの太鼓』 のOskarと、すべてを捨てて大人にならざるを得なかったMariaと。そして彼女はもう一度拾いなおそうとする - なんのために?(は問わない)

Mariaを演じたSaura Lightfoot-Leonを始め、俳優のアンサンブルもすばらしくよくて、みんなそこにいて暮らしているかんじがした。最近の日本の映画で描かれる貧困家庭とかにはなんでか余りのれないのだが、この作品のはとてもわかるかんじがした。

ラストの夜の町にEBTGの”Missing”が流れてきて、それが泣いてしまうくらいによくて、泣いてしまった。

[film] IF (2024)

5月11日、土曜日の昼、CurzonのAldgate で見ました。

作、監督はJohn Krasinskiで出演もしていて、”A Quiet Place” (2018)のシリーズのあとによくこんなの作れたもんだわ。 どこかで聞いたような話だけどなんだか泣かせやがって。

撮影はJanusz Kaminskiだし、かわいいコレオグラフはMandy Mooreだし。

“IF”は”IT”に近いけど少しだけ違って、”Imaginary Friend”のこと。

最初に女の子Bea (Cailey Fleming)の子供の頃からの家族アルバム(ホームビデオ)の映像が流れて、パパ(John Krasinski)とママ(Catharine Daddario)と3人でとても幸せそうなのだが、Beaが大きくなってきた最後の方で、微笑んでいるママは頭に布を被って何かの治療をしていることがわかる。

Beaがブルックリンハイツにあるおばあちゃん(Fiona Shaw)のエレベーターもない古いアパートにやってきてそこにしばらくの間滞在して、入院していて大手術を受けるパパの病院にお見舞いにいく。 ママはもういなくてパパまでいなくなったらどうしよう、って不安でたまらないのだがBeaを元気づけたいのかパパは悪ふざけばかりしていて、Beaもパパにそんな気遣いはさせたくないので適当に相手をしている。

そんなある日、アパートにハチみたいなツノが生えて棒の足をした変な影がBeaの目に入るようになり、気になってそれを追っていくと上のフロアの部屋に消えたので、そこに入ってみると夜中に遭ったらぜったいこわい蜂の精みたいなBlossom (声: Phoebe Waller-Bridge)と人間の格好をしているが得体の知れないCal (Ryan Reynolds)がいて、やがて紫のでっかいもふもふ - Blue (声: Steve Carell)もどかすかと現れて、こいつらなんなの? になるし、向こうは向こうであなたには私たちの姿が見えるの? って驚いている。

Calの説明によると、あのお化けみたいな連中はIF .. “Imaginary Friend”で、かつてどこかの子供のIFとしてずっとその子の傍にいたのだが、子供が成長すると、成長したからなのか見えなくなることが成長なのか - 用なしとされて子供の視界からは消えて見えなくなって、でも彼らの存在まで消えることはなくてその辺をお化けや妖怪のように彷徨っている - のだがそんな彼らがどうしてBeaには見えるのかはCalにもわからない。

CalとBlossomはそうして用なしとされたIFと子供をマッチングするサービスをしている、と聞いたBaeは暇だしおもしろそうなので彼らを手伝うことにして、コニーアイランド - あんなきれいじゃないよ - にあるIFの養老院 - ただのお化け屋敷みたい - を訪問してIFたちと面接した上でパパの病院に入院している子などに試してみるのだがなかなかうまくいかない。マッチングがうまくいくとその子にはIFがみえるようになって彼らは柔らかく暖かそうな光に包まれるの。

でも変てこなのばっかしのIFたちに気づいてくれる子供はなかなかいなくて、そうしているうちにパパの手術の日が近づいてきて… この先どうなるかは書かない。

IFの代表格といったらWinnie-the-Poohとか、あと他にはトトロとか? って”Christopher Robin” (2018)などを思い出したり、トトロも親が入院している設定だったなー、とか思って、でも最後のほうはああそうだったんだね、ってやられてしまう。

姿が見えなくなっても(見えなくされても)IFたちはずっと近くにいてこっちのことをずっと気にして憶えていてくれるんだよ - そこも含めてのImaginaryなのかもだけど、やっぱりいるんだ、って思う - 思わせてくれるシンプルなストーリーで、これはこれでよいのかも。

ちょっとずついろんなIFが出てくるのだがその声をやる人たちが異様に豪華で、Louis Gossett Jr. - R.I.P , Emily Blunt, George Clooney, Bradley Cooper, Matt Damon, Brad Pitt, Bill Hader, Richard Jenkins, Blake Lively, Sam Rockwell, Amy Schumer などなど。

続編があるとしたらIFしか見えなくなってしまった大人たちの話(笑えない)とか、狂ったIFが人を殺し始めるホラーとか(割とふつう)。

[film] The Idea of You (2024)

5月7日、火曜日の晩、EVERYMAN King’s Crossっていう映画館で見ました。

配信でも見れるようなのだがめんどくさいので上映館を探してみるとロンドン中心部の映画館やシネコンではやっていなくて、近めでいったことのないここ - 一応チェーン展開しているみたい - にした。

受付にもシアター内にも誰も人がいなくて勝手に中に入ると椅子はソファになっていたりクッションがあったりゆったりめ、上映時間近くになるとウェイターのような人が食べ物飲み物のオーダーを聞きにくる - アメリカのAlamo Drafthouse 形式のとこだった。チケットの値段が高めだったのはそういうことかー。(なんもオーダーはしない)

Anne Hathawayさんが主演の新作で上映がこういうことになっている - 配信メインでも内容がよければ中心部の映画館で上映されるはず - ことから察するに、なんかやばい内容のあれかもしれないが、彼女のそういうのには慣れているのでだいじょうぶ。むかし、”One Day”とかもあったしー。

40を過ぎてシルバーレイクでギャラリーを経営していて、既に離婚して高校生の娘がいるSolène (Anne Hathaway)がいて、娘はボーイズヴォーカルグループのAugust Moonっていうののファン - “Moon Head”と呼ばれる - で、パパ/Solèneの元夫が、娘とその仲間のためにコーチェラのVIPチケットをとってあげた (いいなー)のだが直前に行けなくなってしまいSolèneに現地までの車の運転とガキ共の引率を頼む。

なんとか現地に着いてひとりになってトイレに行きたくなって、女性が出てきたトレーラーがあったのであれだと思って中に入って用を足して出たらそこにAugust MoonのリードヴォーカルのHayes (Nicholas Galitzine)がいて、よく知らないままなによあんた? みたいな会話をするとそれはコーチェラに出演する彼のトレーラーでした、と。そんなはなしあるかー

その会話で彼の方が彼女のことが引っかかってしまったらしく、ライブ前のMeet & Greet(ファンの集い)でも熱狂する娘たちを置いて、Hayesの方がSolèneに気づいて話しかけてきて、あーでもわたしはちがうから、って彼女は距離を置くのだが、その後のライブで彼の歌に触れるとなんかいいかもな、になる。

普段の生活に戻ったSolèneであったが、ある日彼女のギャラリーにHayesがひとりで訪ねてきて、アートに興味があるんだ、などと言いつつ展示されている作品をぜんぶ買いあげてくれて(いいなー)、実はあの後ずっと気になって君のことを調べてここに来た、とか言うのでいやいやちょっと待って、とか返して押して引いてなんだかんだもうわかったから以下略。

後半はファンとメディアの両方からすさまじい誹謗中傷の大嵐(Yoko Ono 2.0には笑った)に見舞われて家族は壊れ、擦り切れていくふたりの恋の行方はいかにー…

見るひとのジェンダーや年齢によってその反応が分かれるであろうことは想定済みで、でも真ん中のふたりがよいのであればいいじゃん、に落ちることも見えているのだが、最近の誹謗中傷の底なしのえげつなさとか年齢差を都合よく曲解する気持ちの悪い中年男などが浮かんできてしまってあんま楽しいかんじにはなれないのはこちらの問題なのかー。

あとやはり、どうしても残念なのがふたりを結びつけたはずの音楽があまりに弱すぎて引っかかってこないことで、若い頃にボーイズグループを多少は聞いたにちがいない - 耳に入ってくるからさ - Solèneからみて、Hayesの曲ってそんなによいと思える? って。

[film] Dancing on the Edge of a Volcano (2023)

5月4日、土曜日の晩、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。

この日はStar Warsの日だったのでお昼は当然、公開25周年となる“Star Wars: Episode I - The Phantom Menace” (1999)を見た。最後の殺陣のとこ(だけ)は、映画史に残るくらいすごいと改めて思った。

レバノンのドキュメンタリー映画で、まだ記憶に新しい2020年8月、レバノンの港で起こって街全体を吹き飛ばした大爆発事故の直後、ちょうど現地では女性映画監督Mounia Aklが劇映画“Costa Brava”を撮る準備を進めていて、彼らの撮影を前に進めるか止めるかどうする? の日々の奮闘の記録を”Costa Brava”の編集を担当したCyril Arisがドキュメンタリーとして纏めたもの。

プロダクション開始までの秒読みもそうだし、制作が始まってからもほんとにいろんなことが起こって、なんというか…

まず爆発でオフィスの殆どが吹き飛んで、撮影担当は片目を失い、通貨が暴落して制作資金が紙切れ同然となり、ガソリンも入手困難になり、パレスチナ人の主演男優はコロナもあって入国ルートが限られてしまい、トルコ経由でようやくたどり着いても空港から出ることを許されない。娘役の女の子ふたりはコロナに罹って隔離されることになったり、毎日のように何か危機的なことに直面させられる。

これらは爆発の惨事からの連鎖として予測できなかったことでもないので、はじめにやめる・あきらめる、という選択肢もあったはずだが、彼女たちは撮影するほうを選んで - その理由も決意も明確には語られなくて、でもそれでも十分だし、そう決めた以上は断固完成させようとして負けないし強いし。

そこには理不尽な爆発の原因究明も含めて、政府側の対応の拙さ、責任の取らなさに対する怒りもあって、同じようにしょうもない(あれだけの事故を起こしておきながら責任を有耶無耶にして再稼働とかさせようとする)政府を身近に見ている者としてはがんばれー、しかない。

よくわかんない闇雲な映画愛とか執念みたいなのをちらつかせないのもなんかよくて、みんなでびっくりしたり笑ったりしながら一緒にやっていくMounia Aklさんの姿と彼女を支える女性たちも素敵でさー。街角の様子もあんな酷いダメージを受けたのになんとなくほのぼのしている。そういうお国なのか。

レバノンと言えばおいしいお菓子とお料理で、その上でこの映画を見るともっとレバノンが好きになる。そのうち行ってみたいな。


Celluloid Underground (2023)

5月4日の土曜日、↑の前に、Barbican Cinemaで見ました。これもドキュメンタリー。
上映後に作・監督のEhsan KhoshbakhtとのQ&Aがあった。

ドキュメンタリーというより個人的な映画エッセイで、現在イランから逃れて亡命状態でロンドンに暮らすKhoshbakhtが、ヒチコックの生まれたロンドンのLeytonstoneの街 - モザイクとかヒチコック関連のが街中に沢山 – を見渡したりしながら、イラン革命の前まではイランも(そこにいた自分も)みんな映画を愛していたと回想していく。

町中にふつうに映画館があって、家族で映画を楽しむことのできた時代が革命と共にどこかにいって町から、町の記憶から映画館が消えていこうとした頃、KhoshbakhtはAhmad Jorghanianという変な人と会う。この人は映画に関するものは35mmフィルムからポスターからなんでもかんでも自分の家に大量に貯め込んでゴミ屋敷をつくっていて超然としていた - 映画が好きらしい。

あの国では見つかったら犯罪として牢屋にぶちこまれる可能性があるなか、このおじさんはそれでも集める、って穴倉に運んでいてかっこいいなー、なのだがKhoshbakhtは突然彼が自動車事故で亡くなった、と聞いて…

他の国のいろんな事情を見ても、映画ってその人の人生を変えてしまうくらい強いものなんだ… というのと同じく、国による取り締まりとかを見ても劇物なんだなあ、と改めて思って。貯めこむ/貯めこんでしまうのはわかるけど、どうしようもないし。

今もどこかに埋もれていて誰かに発見されるかもしれない映画のこと、それが投影されるのを待っている映画館のことを思うと、ほんとに映画ってなんか…

こないだの”Kim’s Video”にもKim’s Underground ってあったし、映画は表象としてあるものだが、その獲得や確保をめぐる活動はいつもUndergroundでどこか犯罪ぽくもあり孤独で…. というそのありようについて考えさせられるのだった。

5.13.2024

[log] Assisi May 05-06

5月5日から6日、英国Bank Holidayの3連休の後ろの2日間を使ってアッシジに行ってきた。はじめは土日で行こうと思っていたのだが現地にたどり着くまでに1日かかることがわかり、日曜日の教会はミサなどがあるので日/月の2日とした。 その後、月曜日も午前11時には現地を出ないと夕方の飛行機に間に合わないことがわかって泣いて、これなら二泊にすればよかったのに… になるのはいつものこと。 以下、簡単なメモ程度で。

アッシジは元々行きたくてバケットリストにはずっとあったのだが98年の地震でもう無理か.. になって頭から外していて、でも2020年の秋にパドヴァでジョットを見てあーやっぱり行きたいかも! になったところでコロナ & 帰国が来てだめになり、でもこないだのクリスマスイブに見た映画は(わざと)『聖なる道化師 フランチェスコ』(1950) だったし、最近(でもないが顕著に)転んだりぶつかったり挫いたり流血したりしているのはただしくパワーを授かっていないから、お祈りが足らないからでは? と勝手に思いこんで、なら行こうか(ならもっと滞在しろよ)と。

まず朝6:30の飛行機でローマまで飛んで、空港から電車でローマの中央の駅に行って、そこから北に行ってTerontola-Cortonaの駅で乗り換えて、斜め右の南に下りていく。直線距離だとたぶん3時間掛からないと思うのだが、乗り換えで1時間以上待ったり、タイミングでこうするしかないのか、他にもっとよいルートがあるのか、わかんなくて、でもフランチェスコなら無理しないことです、とかいうよきっと。← たんに旅の企画ができないだけ。

こうしてアッシジの駅に着いたのが16:50くらい、山というか丘の上の中心近くに向かう前に駅の近くのポルチウンクラのサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会に行った。19:30まで開いている、とあったので。中の小聖堂は工事中で足場が組んであったりしたが、すでに十分な史跡でたまんなかった。キリスト教の人だったらそれだけで泣いちゃうであろうような。

着いた時間が遅かったからかホテルの人は帰宅してて不在で、置いてあった自分宛の封筒にあったメッセージを読んで鍵と部屋(三つ並んでいる真ん中、とか)を発見して中に入り、まだ充分に明るいし見れるところは見ないと、と外にでる。

アッシジの中心部って、横に細長くてその一番奥の端に聖フランチェスコ聖堂があり、端から端まで歩いても30分くらいか。車も走ってはいるが狭く入り組んだ階段と坂だらけで、そこに大量の関連教会がひしめく全体が世界遺産になっていて、筋肉の疲労さえ考えなければ(筋肉なんてないと思えば)とっても楽しい。

こうしてまだ入ることができたサン・ルフィーノ大聖堂を見て、開いているお堂などに端から入って、日が沈む前に聖フランチェスコ聖堂も外から見ておこう、と思って行ってみる。聳え立つ、とかヴァチカンみたいにものすごく屹立して圧倒的な存在感を示す、というより桂離宮的な景色との調和のなかに建っていて、中に入れなくても夕陽のなかにあるのを見ているだけで時間が過ぎて暗くなった。

翌朝、下のお堂は6:00に開くというので、6:20くらいに中に入ると朝のお祈りが始まるところで、何を言っているのか勿論わからないし宗教的な人でもないのだが、じーっと聞くのは好きなので聞いて、終えてからお堂の下のフランチェスコのお墓にいって、一旦外に出て、でも上のお堂が開くのは8:30だったのでそれまで近辺を歩いたり、もう一回下のお堂で(お祈り中には見れなかった)奥の方にあった絵を見たりして、上のお堂が開いた後にも一通り見る。何回見ても初めて見たように入ってくるフレスコのくすんだ色のすばらしさ、なんで人が本当に浮いているように飛んでいるように見えるのか、とか。2時間以上眺めていてもぜんぜん飽きなかった。そしてイタリアにはまだこういうのが山ほどあるのね…

この後はサンタ・キァーラ修道院にも行って下のお墓も拝んで、周囲を歩いて、でもサン・ダミアノ教会はちょっと遠かったので諦めた。とにかく聖フランチェスコ聖堂がよすぎる。

食べ物は、ずっと歩いていたしそんなに。何食べてもおいしいしかないし。Umbriaの名産のSpelt strangozziっていうパスタとか。行きのローマ中央駅にあったMercato Centraleっていうフードコートは楽しかった。

帰りの電車は、乗り換えのとこで軽く30分遅れてくれて、でもだいじょうぶだった。ドイツの電車よかぜんぜん。イタリアの駅、ホームが低いのがたまんない。これが映画で映しだされるときに効くのよね。

当然また行きたい。イタリア、行っていないところが多すぎる。

5.11.2024

[film] The Fall Guy (2024)

5月3日、金曜日の晩、BFI IMAXで見ました。

これの上映が20:30からで、17時からはRough Trade Eastで新譜が出たばかりのCamera Obscuraのインストアライブがあったので、早めに会社を抜けて行った。ライブは2部構成で最初の早い時間のはサイン入りのレコードがついてて、後のはライブ後のサイン会がついている。客がみっしりであまりよく見えなかったけど、新譜からの曲も含めて元気そうに歌ってくれてよかった。”Let's get out of this country”と”Lloyd, I’m ready to be heartbroken”もやってくれた。英国に来る前、嫌なことがあると”Let's get out of this country”を頭のなかで流してがんばったことだよ。

さて”The Fall Guy”。いちおう、バンドのThe Fallとは関係ないから。 監督は”Bullet Train”(2022)の、スタントマン出身のDavid Leitch。わたしは”Bullet Train”のどこがおもしろいのかちっともわからなかったので、どうかなあ、だったのだがこれはおもしろいと思った。あれ、たぶんブラピが主演だったのが… ではないか。CGバックが当たり前でその虚構にくるまれ、そのプレゼンスが申し分ないので、それらをバックにいくらでも深刻かつ大仰な大ドラマ製作が可能となった最近の重厚長大作傾向のなか、スタントマンはこんなにもすごいんだから、を改めて打ち出しつつ – というかそれ故にか - 内容的にもB級のすかすかで燃えたり飛ばされたり落ちたり、たまんないバックステージもの。

人気俳優Tom Ryder (Aaron Taylor-Johnson)のダブルをやったりしているスタントマンのColt (Ryan Gosling)とカメラオペレーターのJody (Emily Blunt)は恋人同士だったが撮影中にColtが高いところから落下して背中を痛めて現場から遠ざかってからは疎遠のまま、やがて映画監督にまで昇りつめたJodyは変てこSF西部劇”Metal Storm”を撮ろうとしていて、主演がTom RyderなのでプロデューサーのGail (Hannah Waddingham)はColtにスタントに戻ってきてほしい、と引退状態だった彼にコンタクトしてきて、でも現場に戻ってみたら偉くなったJodyは冷めてつんけんしてて、やがてどこに消えてしまったのか現れないTomを探しに出たColtは、行く先々で理不尽に襲われて、浴室で死体を発見して、はじめのうちは調子よくスタントの技で捌いていったりするのだが、なにかがおかしいことに気付く – のだがそもそもスタントの世界は何が起こってもおかしくない世界でアクションによってそれらしく見せたり切り抜けたりするのが仕事なので簡単には終わってくれそうにない。

Jodyがカラオケで”Against All Odds (Take a Look at Me Now)”を熱唱するのと並行して走行中の車のなかでColtとStephanie Hsuと犬がくんずほぐれつのじたばたを繰り広げていくとことか、ところどころおもしろいとこはある、のだが、見せ場①、見せ場②、③.. みたいに見せるために見せてます、みたいなところがちょっと。あと、これは狙ったのだろうけど、悪役がだれだか、最初からわかっちゃうのよね。

後半は、だれかの代替としてアクションを可能な限り本物ぽく見せるだけ、という影の存在のスタントマン故の不条理なありようが滲んできたり、Jodyの恋もどれだけ叩いても虐めても絶対に死なない非現実を生きる男Coltとの間で変てこなSMのようになっていって、そこにKissの“I Was Made for Lovin’ You”のメロが何度も被さったりして、ぜったい大丈夫に決まっているけどなんか気を抜けない – 目を離せない、というむずむずした状態を維持しつつなんとなく能天気に最後まで走ってしまう。これを痛快!ってみるか、なんか騙されたかも… ってなるか、によって分かれるのかしら。

でもEmily BluntとRyan Goslingが一緒にいる絵はなんかわるくないのでよいかも。

映画の現場におけるインティマシー・コーディネーターがクローズアップされてきた流れと同じで、映画的な「おもしろさ」の背後にはこれだけのメンタル・フィジカルへのダメージを引き受ける人たちがいるのだ、という、そこをひっくり返してみたドラマで、興行として当たってほしいし、光が当たってほしいな、とエンドロールの撮影風景を見ると余計しみじみ。

第二弾も用意されているそうで、それならぜひTomCと対決してもらいたいものだ、と。

5.09.2024

[theatre] Underdog: The Other Other Brontë

4月29日、月曜日の晩、National TheatreのDorfman Theatreで見ました。
原作はSarah Gordon、演出はNatalie Ibu。Brontë三姉妹のお話で、ポスターではお揃いの紅いドレスの3人がヒップホップのレコードジャケットみたいにこちらを睨んでいる。

Brontë姉妹はふつうに好きで、前回赴任の帰国前(2021年4月)にはハワースに行って一日歩いて風に吹かれておおー、ってやってきた、くらい。

舞台の中心にはヒースの丘なのか、お花や草がきれいに、ではなく割とごちゃっと適当なかんじで植わっていて、それを囲むかたちで通路がぐるりと回転してその上を人とか馬車とかが流れていく – こちらに見えるのは半円部分のみ、というセット。

上演前に座っていたら(端の席)、いきなり肩をぐいって掴まれたので誰? って振り返ったら「あたしよあたし、Charlotteよ!」って酔っぱらいのようなCharlotte (Gemma Whelan)がそこにいて、他の客や反対側の方にも行ってちょっかいだしたり啖呵をきったりしながらステージにあがる。

この劇の3姉妹のなかで一番元気で威勢がよいのが紺のドレスの彼女で、Anne (Rhiannon Clements)もEmily (Adele James)も色違いだがシェイプはおなじで、どた靴を履いている。 あと、評判の悪い飲んだくれの長男Branwell (James Phoon)も出てくるが汚れ役のようなかんじで顔を出す程度。

先に書いたように一番元気で喋りまくり全体をドライブするCharlotteがいて、少し控えめでやさしそうな(でも書いてみたら彼女が一番XXXだった)Anneがいて、ちょっと浮世離れしたようなEmilyがいる。3人がそれぞれに夢と希望をもって自分の小説を書いて、それがそれぞれに当たったりして、男であるだけでまず認められてしまうような社会で、自分たちに対する世の中の評判や扱いが変化していって、その変化を受けるかたちで姉妹それぞれの愛や関係はどう変わっていったのか、変わらなかったのか、を特にCharlotteとAnneの関係を軸に描く。タイトルにある”The Other Other.. ”の”The Other”が誰で、”The Other Other”は誰なのか、どうとでもとれるような – というか、”Underdog”も含めてそういうことを言うのは姉妹を外から見ている世間のほうで、彼女たちはずっとこんなふうに …  という描きかた。

姉妹それぞれの代表作とか、その内容、それが世に出て評価されたタイミングや順番を知らなくても…とはやはり言い切れなくて、たぶん英国の19世紀の田舎の牧師の家に生まれた女性たち、というあたりも含めて彼女たちが小説に向かった - 小説を書いて出版するというのがどういうことだったのか – 背景のようなことを知っていた方がもっとおもしろくなったに違いない。3人のばらばらなやりとりとその反対側の粗野でバカで画一的でしょうもない当時の男たちの対比はコミカルで十分笑えたりするのだけど。

『ジェイン・エア』の作者であるCharlotteについてはなんとなくわかるけど、『嵐が丘』の作者であるEmilyについては作品世界も含めてあまり触れられていない(静かで謎めいているところで止まっている)のはしょうがないか.. というか、彼女たちの振る舞いとかお行儀とかじゃなくて、なんでこの三姉妹があんなにもすばらしい作品を - 世界中で読み継がれたり映画化されたりし続けている古典を創ることができたのか、(断片でなんとなく、はあるけど)その創作の謎と秘密にちょっとでも迫ることができていたらなー というのは望みすぎだろうか…

どうせなら全三部作にして、これはCharlotte篇、とかにしてもよかったかも。


R.I.P. Steve Albini..

あまりに突然すぎて、昨晩地下鉄のホームで声が出てしまった。 あと20日を切ったこの月末、バルセロナで会えるはずだったのに。
ギターの弦を引っかくノイズ、声帯を抜けるスクラッチ、打突の鳴りと震え、世界と空気の間に必ず現れるあらゆる摩擦音をそのままアナログのテープに傷として精緻に正確に刻んでかさぶたにする。そうやってできる音のみがマスターで、それを作ることのみに注力したエンジニア - アーキテクトでもコンポーザーでもプロデューサーでもない - すばらしい腕をもつ大工で、彼の仕事はすぐにそれとわかるしいつまでも劣化しない。その仕上げ - 触感と食感にうっとりしてしまうのでメロとか詞とかはどうでもよくなる - というのは言い過ぎか。 

ありがとうございました。

[film] Das Lehrerzimmer (2023)

4月28日、日曜日の夕方、BFI Southbankで見ました。

これの前には月1回のBFIのサイレント特集があって、4Kリストアされた”Großstadtschmetterling” (1929) –“Pavement Butterfly”を見た。Anna May Wong主演のドイツ-イギリス映画で、とっても悲しいお話しでよかった。この日はお昼に見た”There's Still Tomorrow”から女性が主人公の辛いお話しが3本続いたの。

英語題は”The Teacher's Lounge” - 邦題は『ありふれた教室』- 日本でももうじき公開されるのね。
監督はÌlker Çatak。昨年のアカデミー賞の外国語映画賞にドイツからエントリーされている。緊張感が途絶えない99分。

小学校で担任クラスをもって算数と体育を教えているCarla (Leonie Benesch)がいて、朝の挨拶(おもしろいねえ、楽しそう)から普通の授業風景になるのだが、そこに窃盗の疑いの告発があったらしく全員の財布を置いて教室を出て、とかきな臭い空気が漂い始める。トルコ人の子の財布に余分なお金が入っていることが確認されるのだが、それは親がコンピューターを買うために渡したものであることがわかったり、校長から学校としてはこういう犯罪に対してはゼロ・トレランスポリシーで対処します、という宣言があったり、ああなんかきつそう.. って。

そんなある日、Carlaは職員室の机にかけた自分の上着に入れておいた財布から現金がなくなっているのに気づいて、今度は財布を残してPCの監視カメラをONにした状態で置いておくことにする。すると、やはり現金はなくなっていて再生したビデオに映りこんでいたブラウスの模様から、同僚の総務担当のFriederike (Eva Löbau)ではないかと確信して彼女に詰め寄ると、彼女は激怒して、その場を飛びだしてしまう。後で校長がFriederikeに会っても同様、やっていないというので警察に通報するのだが、無断でビデオを撮っていたことが別の問題になる可能性もある、と。とにかくCarlaがひとり勝手に動いたのはまずかったよね、と同僚の間でも敵味方に分かれてしまう。

更によくないことに、シングルマザーのFriederikeの息子はCarlaの教室の優秀な生徒で、保護者会では先の窃盗事件の際に生徒に尋問が為されたことなどに不信感が出て、そこにFriederikeが現れて勝手にビデオ撮影をされたので警察が捜査をしている、と訴えたのでどういうことか? とざわざわしてしまう。

教室ではCarlaに対してなんでお母さんが(彼女はやっていないって言っているのに)? って問うOskarが彼女のPCを持ちだして川に投げ入れたりしたので暴力行為で謹慎処分となって、それを横で見ていた生徒たちは何が起こっているのか何か隠しているのではないか、真実を教えろ! 知る権利がある! って学校新聞で騒ぎたてて別の問題が立ちあがって…

一般的な話として、ビデオを確認した直後に直接被疑者のところに押しかけるのはまずい、とかあるのはわかるし、カメラに映っていたのは顔ではなくブラウスの柄だけだったので、本当に彼女だったのか、というのもあるし、場合によっては全員が悪くない可能性もあったりする中で、これだけの(終着点から見てみれば)軋轢と苦痛が生まれて解けない、というのはわかるようでわかんなくて、大変だなあ、しかない。

今頃日本で公開になった(のでびっくりしている)”System Crasher“ (2019)でも厳格にロジカルに主人公たちを追い詰めていく内外の規範とやればやるほどそこからはみ出て制御しようがなくなる何かの衝突があったが、ドイツという国なのか国民性なのか「システム」なのか、の大変さ – これらが自分に降りかかってきたらきっとCarlaみたいにトイレでビニール袋をくわえて泣いてしまう - がすごくよくわかる。

でも、緊張感がずっと続いて引っぱる割に、ドラマとしての決着はやや弱いかんじがあって、そこだけ。現実はこんなもんなのかもしれないし、決着はこれ - Done. ってそれを見せたらそれはそれでつまんなくなってしまうのかも知れないけど。

教育現場の教材 – こういうことが起こったらそもそもどう対処すべきなのか、を議論する材料としてはとてもよいのではないか(← 他人事)とか。

でもこれと同様のことって、教育の現場以外のところでも簡単に起こりそうな気がするし、特に真ん中に立つのがそんなに強そうでない、生真面目で叩きやすそうな女性だった場合とかに - という角度も。

主演のLeonie Beneschさんの現場の教師の緊張感と大変さ、それでも生徒と動いている時の楽しそうなかんじが残って、こういう先生は世界中にいるんだろうなー、がんばってほしいなー、しかなかった。 たまにロンドンの映画館でかかるCMに教師になろう、っていうのがあったり(軍隊に入ろう、もあるけど)。

5.08.2024

[film] C'è ancora domani (2023)

4月28日、日曜日の昼、Picturehouse Centralで見ました。
英語題は”There's Still Tomorrow”、邦題は『まだ明日がある』- 日本でも先週のイタリア映画祭で上映されたのね。

監督は主演もしている歌手で女優のPaola Cortellesiで、2023年のイタリアの映画興行収入で一位を記録した、と。 DVの描写が頻繁に出てくるのでそういうのが辛くなる人は要注意かも(という注意書きを付けてほしい)。

画面はモノクロ、第二次大戦後、アメリカのG.I.が駐留して街角に立っているローマの下町で、主婦のDelia (Paola Cortellesi)は朝起きると横で既に目覚めていた夫のIvano (Valerio Mastandrea)から有無を言わさずビンタを一発くらう、そんな一日の始まり。

他にも寝たきりで動けず、ベッドに固定されて部屋から罵詈雑言をまきちらす義父(Giorgio Colangeli)の面倒をみたり大変で、ティーンの長女Marcella (Romana Maggiora Vergano)にはそんなみっともないところを見せたくないと、彼女はやかましい猿のような弟二人と一緒の相部屋で一緒に寝てもらっている。

起きぬけのビンタだけでなく、Ivanoは何か気に食わないことがあると殴ってくるので、その兆候を確認すると子供たちを別部屋に移して扉を閉めてから黙って殴られて、その一連の動作はもうふたりのダンスのように定型の呼吸とステップになっていて、その後の謝罪も弁解もなく、何事もなかったかのように日常の動作に戻るとか、とにかくしょうもない。

長女Marcellaが近所のガキみたいにちゃらい若者と結婚することになり、自分ちより少しはお金がありそうな彼の家族を家に招いた時の一連の憤懣とじたばた – そしていまはやさしそうに見える結婚相手にもDVをしそうな兆候があることを見てしまう、とか、今はすっかり枯れて車の修理工をやっている昔の恋人からのさりげない誘いとか、井戸端会議が大好きな近所の女性たちとのあれこれとか、拾った写真を渡してあげたら感謝されてチョコをくれたりするG.I.がDeliaの顔の殴られたアザに気づいて… とか、いろんなエピソードを絡めつつ、彼女がある日に向かって決意を固めて紙をもって何かをしようとしている、その実行の時を巡ってのはらはらどきどきが…

”There's Still Tomorrow”というそのほんの少し手前、その反対側で理不尽な夫の暴力や煩わしい義父や煩い子供たちがいる日々、彼らのためにすべてを捧げなければならなくなっている日々の自分は、どこまでも底なしで終わりのない地獄としてネオレアリズモのタッチ - と言われているがどうなのか? - で描かれ、でも… というめくるめくコントラストのなかで描かれる女性たちの姿 – 特に主人公と娘の間に最後に訪れるドラマのオペラみたいな盛りあがりが楽しくて、その挫けない強さはAnna MagnaniやGiulietta Masinaがかつて演じた女性たちを思い起こさせる(及んではいないよ)のだが、なにかが足らない気がずっとしていて、なんだろうか。これで(あんなもんで)明日に向けた元気が出たりするもの?

やっぱりさー、あの夫とかしょうもないDV男どもを最後にはどうにかすべきだったのではないか – G.I.がふっ飛ばすべきだったのはあっちではなくこっちだったのでは、とか。 諸悪の根源があの辺、ってみーんなわかっていたわけでしょ? なのになんで? そしてこれだけ興行的に当たったということは、男たちも見たはずよね。- というこの辺りなんだろうな。男も女もみんなわかっているの。まだ明日がある、って。 だからまだ続いているのー。

どっちが勝った負けたとか、明日になれば、とかそういうのって、あの時代は戦争もあったしどうしようもなかったのかもしれないけど、本当は人を殴ったりひっぱたいたりするのはよくないこと - なぜなら… というところに持っていくべきではなかったのか、とか。

日本国内では映画祭なんかじゃなくて、九州地方で強制的に上映すべき。(あたったりして…)

5.06.2024

[film] The Sweet East (2023)

4月27日、土曜日の昼、BFI Southbankで見ました。なんかの特集ではなく普通の新作アメリカ映画。

Safdie brothersの”Heaven Knows What”(2014)や”Good Time”(2017)、Alex Ross Perryの”Her Smell”(2018)などで撮影を担当していたSean Price Williamsの監督デビュー作。

South Carolinaの高校生Lillian (Talia Ryder)がWashington DCへの遠足の途中のピザ屋にいたところ武装した連中に襲撃され、友達とはぐれてスマホも失くしていろんな変な人たちと出会って旅をしていくロードムービー。監督の過去の撮影作品にあった匂ってきそうなくらいにリアルで透明で、そうあろうとしすぎて見たくないものまで写りこんでしまうような印影の強さはそのまま、明るく希望に満ちたものでないが、救いようのないものにもなっていない。そういうのに対する無関心、みたいのも含めてSafdie brothersのには少し似ているかも。

最初に出会うのがアート集団のようなアナーキストのような連中を率いて威勢のいいCaleb (Earl Cave - Nickの子)で、豪快で表も裏もなさそうだったが金玉のびっちりピアス - あれ本物かなあ? - を見せられてこいつはムリ、ってそっと離脱して、お腹を空かして彷徨っていると野外でやっていた極右ネオナチ団体みたいなのの集会で、地元で教師をしているというLawrence (Simon Rex)と会って、ひとり大きな邸宅でEdgar Allan Poeを信奉しつつ静かな暮らしをしている(でも極右の)彼はLillianに服と部屋を与えてずっとここにいていいから、と言う。

でも彼と集会の準備でNYに行った際、スキンヘッドの男が持ってきた極右団体の運営資金なのか大量の札束の入ったバッグを手にとんずらして、さて、となったところで映画監督のMolly (Ayo Edebiri)とプロデューサーのMatthew (Jeremy O. Harris)に声を掛けられて彼らが撮ろうとしている映画のスクリーンテストを受けてみたらふたりの大絶賛と共に採用されて、相手役となる人気俳優のIan (Jacob Elordi - “Priscilla”のElvisの彼)にも引き合わされ、撮影が始まる。

撮影が進んでスターのIanと素人Lillianが仲良くなるとパパラッチに撮られたふたりの写真がタブロイド紙にのって、それをみた極右のスキンヘッドたちが夜の撮影現場に乗りこんできて、映画さながら - コスチューム時代劇 - の襲撃の修羅場となり、LillianはスタッフのMo (Rish Shah)に助けられて彼の家の物置に匿われるのだが、厳格なイスラム教徒である彼の家では結婚しない限りこれ以上ここには置いておけない、と言われて…

こんなふうに波瀾万丈にアメリカの東側に暮らすいろんな人たちが現れて出会っては転がされの放浪を繰り返し、周りでばたばた人が死んだり見えなくなったりしていくのだが、Lillian本人はしらーっと未練もなんもない平気な顔で切り抜けていって、でもそれらは「成長」とか「学び」なんかとも「生き延びる」みたいなこととも、「出会いが人をつくる」みたいなのともちっとも関係なさそうで、どこにも帰属しなくたってへっちゃら、よくわかんないけどみんなありがと、みたいなところに留まって、べつにいいかー、っていうお話しで、映画そのものもべつにいいかー、になってしまう。

主演のTalia Ryderのすべてがどうでもいいや、の目線と態度 - 周りを動かすわけでも呪うわけでもなくただそこにいる - って80年代的な自棄 - “Vagabond” (1985) -  『冬の旅』とか - のそれに似ているようでいて、でもどこかではっきりと他者に見られている自分をSNS的に意識している - してしまう、という辺りがおもしろいかも、おもしろくない人にはただのなんだこいつ? でしかないかもだけど。


さっきAssisiから帰ってきました。1泊だけ、夕方5時に着いてから翌日朝11時に発つまでしか滞在できなかったけど、すばらしくよかった。あそこに暮らしたら美術館いらない。 来世はお願いですからここで、って聖フランチェスコさまにお願いしてきた。


5.04.2024

[music] Cat Power Sings Dylan: The 1966 Royal Albert Hall Concert

5月1日、水曜日の晩、London Palladiumで見ました。
クラシック以外で、ホールで座って見るライブは久々で、London Palladiumに最後に来たのは2018年3月のMorrisseyだった.. すごく遠い昔の気がする。

“Bob Dylan Live 1966, The "Royal Albert Hall" Concert” (1998) - 彼のThe Bootleg Series Vol. 4としてリリースされた、マンチェスターのFree Trade Hallで録音されたのに"Royal Albert Hall”とラベルされてずうずうしく出回ったライブを2022年、ほんもんのRoyal Albert Hallで、このライブの順番通りにまるごと再現演奏したライブ盤を、更にそのままに演奏していく(だけの)ライブ。

チケットはSold Outしないまま後ろの方はずっと空いた状態が続いて、でもじりじり辛抱強く待って当日の1週間をきったところで前から6列目の正面を取ることができた。

Cat Power - Chan Marshallを最後に見たのは2014年6月、新木場のSTUDIO COASTで、その前は2013年の1月にNYで”Sun” (2012)のツアーのときので、最初に見たのは”You Are Free” (2003)のときのNYで、たしかKnitting Factoryかどこかで、すんごくだらだら勝手なペースで3時間くらいやってくれてびっくりした。最初に出会ってから20年、最後に見てから10年、みたいなのって、最近そんなのばっかりなのでよいけど(よくない)、ぜったい地球の回転おかしい。

彼女はこれの前にもすばらしいカバー集 - “Covers” (2022)をリリースしていて、その流れでのこれなのかと思って、それは単に元の作者やその曲が好きだから、というのはもちろんあるのだろうが、その際に曲の解釈やアレンジをこうして、とか自分だったら(自分だから)こうする、というのはそんなになくて、単に歌って、その声とか息遣いがその場の空気を震わせる、そのかんじが気持ちよくて好きなのではないか、今回のについて言えばあのBootleg全編を包みこんでいる空気感まるごとがよくて通しでやってみた、くらいではないか。おやじ評論家が偉ぶって言いそうな「Dylanを自分のものにしている」みたいなのとはぜーんぜん違う次元のことなので念のため。

このステージでも譜面台の歌詞を見ながら歌っているし、演奏についてはバンド任せで、歌うだけ声をだして響かせることだけに注力しているかのようだったし、しかしそれはとにかくすばらしく響いていたの。

最初のアコースティックセットはギターのHenry Munsonとハーモニカの(ピアノ担当だけどピアノは弾かない)Aaron Embryを傍に歌う。オリジナルのDylanはこの3パートをひとりで、ひとつに統合させてやっていたわけで、それをバラしてどうする? なのだがそれがせめぎ合うトライアングルの緊張を生んで、そこに放たれて、こちらにとんでくる彼女の声の強いこと。10数分以上張りつめてまったく弛まない”Desolation Row”とか、”Mr. Tambourine Man”の”Hey! Mr. Tambourine Man, play a song for me”は彼女の目の先にいるTambourine Manを探して追ってしまうのだった。

後半のエレクトリックセットのバックは6人、DylanのオリジナルはThe Hawks (もちろん後のThe Band)の5人なのだが、Dylanのギターも入れると楽器の台数としては合っているのか。 若い子たちだったが演奏はギターの彼を中心に見事に硬く固まっていて、オリジナルが醸しだしていたエレクトリックでこんなふうに鳴らしてしまってよいの? - “How Does It Feel ?” - の生意気に前のめるとこと気持ちよさが裏に表に絡まっていく緊張感はそのまま、そうやって膨らんだ空気のなかで気持ちよさそうに歌う - 声を響かせていっぱいにする。オリジナルが15曲だったから15曲だったけど30曲あったらそのままやっていてもおかしくない。

アンコールなんてもちろんない。ついでに自分の曲も、なんてのもなくて、ここではそれが圧倒的に正しいように思えて、あーんよかったよううー、って半泣きで帰ったの。


こちらもBank Holiday の三連休で、明日の朝から一泊でアッシジの聖フランチェスコに会ってくるの。会えますように。

5.03.2024

[film] Víctor Erice Short

4月22日の月曜日の晩、BFI SouthbankのVíctor Erice特集で見ました。彼の短編作品特集。

今回の特集で見れなかったのはひとつ - “Erice-Kiarostami: Correspondencias” (2005-2007) -EriceとKiarostamiの間のビデオレターで、これはまたいつか。

EriceのWikiを見ると、学生時代も含めて14本の短編を撮っているのだがそのうちの5本を。 以下、かかった順で。

Alumbramiento (2002)  12分

英語題は”Lifeline” – オムニバス映画“Ten Minutes Older”(2002)の”The Trumpet”のセグメントより。

モノクロで、1940年、バスクの農家の落ち着いた、鶏とか猫もいるのどかな風景が映しだされて、そこですやすや寝ている赤ん坊のお腹のところに血のような(カラーでも撮影してみたが、血のイメージがわかりやすすぎたのでモノクロにしたそう - )しみが浮かんで、それが少しづつ – 場面が替わって戻ってくると大きくなっている。別のところにいるらしいお母さんと思われる女性も寝ていて動かないので、死んじゃうよ大変だよ、ってはらはらしていると、誰かが見つけて大声で叫び、やがてそのしみはへその緒からのだったことがわかり(すぐに切らないの?)ほっとする。静かで穏やかな農家の光景と、そのなかに突然現れるしみとの対比、その違和が見事で、”Lifeline”というタイトルにもなるほどー って。


La Morte Rouge (2006)   33分

Ericeが5歳の時、姉に付き添われて初めて見たシャーロック・ホームズの映画 - “The Scarlet Claw” (1944)、タイトルはこの映画の舞台となるケベック州の架空の町の名前だそう - この時の決定的だった映画との出会い - 6歳のAnnaがフランケンシュタインに出会ったような? - を軸に、San Sebastiánという栄えた町、港があり大きなカジノがあって、やがてカジノは劇場になり、といった町の旧いの新しいの、そこにいた人々、映画館などの古い写真が呼び覚ます幼年期の記憶と、歳を重ねてそこから離れること、などについて彼自身のナレーションで追っていく。映画~写真~記憶という『瞳をとじて』でも繰り返されるテーマとモチーフをこの頃から、いや『ミツバチのささやき』の頃からか - 練っていたのだと思った。


Ana, tres minutos (2011)  - “Ana, Three Minutes”  5分

アンソロジーフィルム“3.11 A Sense of Home”からの一篇。ドレッシングルームで、女優としてステージに向かう手前のAna Torrentが東日本大震災の被害者に追悼のメッセージを送る。Ana – 『ミツバチのささやき』で、傷ついて小屋に逃れた兵士 - やがて包囲されて撃たれてしまう彼を看病してあげたAnaが。


Vidros partidos (2012) - “Broken Windows”  34分

オムニバス映画 - “Centro histórico” -『ポルトガル、ここに誕生す ギマランイス歴史地区』からの1本。閉鎖された巨大な繊維工場で働いていた人々の肖像 - 実際の労働者たちがカメラに向かって振りかえるそこでの日々と生活 - 彼らと家族にとっては今より若かった頃 - がどんなだったかと、かつての食堂(?)を捉えた大きな全体写真(の細部)を交互に映しだしながら、そこにあって切りとられた時間と場所、そしてそこから連続して流れている今という時間、について考えさせられる。

あとこういう形で実現されていた大量生産という仕組みについても。なんだったんだろうあれは? というあたりも。

ああいう全体写真を前にするとつい固まって見入ってしまうのだが、なにを見たいの? なにを見るの? ってつい自分に問いてしまう – すごくよいので見ちゃうだけなんだけど。


Plegaria (2018)
  - “Prayer” 7分

初めはゴミのように打ち棄てられた古い写真たちがどこかに挟まったり引っかかったりしているのだと思って、カメラは引いたり寄ったりを繰り返しながらそれらをいろんな角度、距離でゆっくり少しづつ捉えていって、やがて挟まっているのは黒い岩の割れ目や隙間で、自然にではなく人為的に挟んでいることがわかって、そこは多くの人々がやってきて宗教的なお祈りを捧げる場であることがわかって、ああ、ゴミだなんて思ってしまってごめんね、という場面ていくらでもあるなあ、って。少し離れて全体を見てみることでがらりと、場のありようも含めてひっくり返る。 空間だけじゃなくて、記憶の欠片にもそういう瞬間はあるかも。

本来は地上でも水のなかでもどこでも、そういう場 - そうじゃない場所とか土地なんて、ないはずなんだよー ぜんぶ人間の都合でさー。とまでは行かずに、お祈りというのは外から見るとこんなふうに見えたりもするのかも、って。

[film] Challengers (2024)

4月26日、金曜日の晩、Curzon Mayfairで見ました。

Luca Guadagninoの新作で、映画館でかかるこれの予告がずーっとうるさかったので早く見てしまいたくて初日に行ったのだが、客席は半分埋まっていなかったかも。

テニスもエロもあんまし興味はなくて音楽が”Bones and All” (2022) に続いてTrent Reznor & Atticus Ross組だったから、くらい。

脚本はJustin Kuritzkes – “Past Lives” (2023)の監督Celine Songの夫で、これもまた長めのレンジで描かれる三角関係のお話し、ではあったか。

冒頭、2019年、New Rochelleの”Challenger” – というテニス大会でPatrick Zweig (Josh O'Connor)とArt Donaldson(Mike Faist)のふたりがテニスコートでにらみ合いながら試合をしていて、それを客席からTashi Duncan(Zendaya)が眺めている、その試合の成り行きと2006年、仲良し高校生だったPatrickとArtがダブルスでUS Openでタイトルを取って意気揚々となり、当時からセレブとしても昇り龍だったTashiと知り合ってからの10年以上に渡る3人のあれこれを、テニスボールを打ち合うみたいに時代を行ったり来たりしながら描いていく。

メインとなるのは冒頭のゲーム、結婚して広告等でもパワーカップルになっているTashiとArtがグランドスラムまであと1歩のところで怪我などで疲れが見えているArtに自信をつけさせるべくNew Rochelle(NY郊外ローカル)の大会にエントリーしてみたら、すっかり落ちぶれて車中で寝たりしているPatrickと決勝でぶつかって、どっちもここでこいつに負けるわけにはいかない、って苛立ったり挑発しあったりしながら一進一退の試合をしていくふたりの様子とそれを客席からクールに見つめる彼女、それぞれの脳裏に去来する愛憎のあれこれが… というそれだけ。

テニスというスポーツの特性とその勝負におけるドラマ性を追う、というよりは、ぴかぴかのプリンセスにやられてしまったふたりの王子が競い合ってひとりが彼女を射止めるのだが、ずっと水面下でどろどろは続いていたのでした、という(だけの)お話しで、別にテニスじゃなくてもボクシングでも柔道でも対面でぶつかり合うゲームなら適用できそうな気がした。(あーでも、ダブルスで組んでいたふたりがシングルで別々になってとか、ひたすらテニスボールを追っかける、いうのはあるのか。追っているのはボールなのあたしなの?とか)

Tashi=Zendayaも怪我で引退する前はテニスプレイヤーで、その獰猛でかっこよいパワープレイにふたりはまずやられて、夜中、ふたりの相部屋に現れたTashiのふるまいで呪文をかけられたようになって(既にいろんな人が指摘しているように”Y tu mamá también” (2001)よね)以降のふたりの視野は決定的に変わってしまい、それくらいTashiが突出してかっこよく無敵ですごい - 夫のArtが犬のように懇願するように言う”I love you”にTashiが冷たくそっけなく”I know.”って返すシーンの飼い主の強さとか – こういうのから、ある種のサイコホラーのようなのに向かうのではと思わせ - 人と人がくっついてなめあったりキスしたり人肉食べたりする際の変態ぽい描写 – “Call Me by Your Name” (2017)の頃からそこは一貫している – はあるので、最後はラケットとネットでばりばりと、みたいなのも妄想したのだが、最後があんな方に行っちゃうのは、ふうん、て。

ラストの方、ゲームの一進一退は果てのないセックスのような反復運動を延々繰り返し、カメラがラケットの傍からボールの中にまで入ったりする変態ぶりで、そのバカみたいな機械的な運動にTrent Reznor & Atticus Ross組の軽めでコミカルな律動がうまくはまっていて楽しいったら。彼らの音の殆どは気持ちよいくらいの飛び道具機能のみ。 他の音楽だと、エモーショナルな夜のシーンでCaetano Velosoの”Pecado”がフルで流れて、それはそれは。

Luca Guadagninoは、次の(もうpost production に入っている)”Queer”(原作William S. Burroughs)- 音楽担当も変わらず -を期待したい。変にかっこつけてないで、ど変態B級サイケみたいのを垂れ流してくれればいいのに。

日本での宣伝、そうとうやかましくてうざいのになりそうだな、と思って、宣伝といえば最近映画館で流れてくるMagnumのアイスクリームのCMのばかばかしいやつ – アイスクリームが列車なの... - があって、”The Passenger”のふやけたカバーみたいのが聞こえてきたのでどこのどいつだ? って後できいてみると..(驚)

5.01.2024

[theatre] Machinal

4月25日、木曜日の晩、Old Vicで見ました。

前日には”London Tide”を見ていて、演劇を2日連続で見るのは初めてかも。ライブハウスに通うようなものだと思えばいいのか(でも演劇って、高いよね。高くなるのはわかるけど)。休憩なしの1時間50分。とてつもないテンションで一気に。

1928年にNYのSing Sing刑務所で夫を殺した罪で電気椅子で処刑されたRuth Snyder (1895-1928)を主人公としたSophie Treadwellの同名戯曲(1928)を元にしたもの。ブロードウェイでの初演時の演出はArthur Hopkins、Clark Gableの初舞台もこの劇だったと。 今回の演出はRichard Jones。

主人公のモデルとなったRuth Snyderについてはこの戯曲に留まらずJames M. Cainによる小説-”Double Indemnity” (1936)~これを原作としたBilly Wilderの同名映画(1944) - 映画とはぜんぜん違うけど - とか、Guns N' Rosesのジャケットアートとか、いろんなところに登場して、近代アメリカにおける荒れた「悪女」、「ビッチ」の原型のように扱われているような。(日本だと阿部定みたいな?)

舞台は中心奥に向かって狭くなっていく三角形で、壁には神経症的な黄色がべったり、場面によって各辺に扉がついて人が出入りするが、中心人物以外は機械的かつ統制された動きと喋りに終始するロボットで、閉塞的で逃げ場のないさまをうまく表現していて、各場面は“To Business”~“At Home”~“Honeymoon”~“Maternal”~“Prohibited”~“Intimate”~“Domestic”~“The Law”~“A Machine”と刻まれたプレートが手動で上に掲げられる。(場面構成は原作通りみたい)

Young Woman (Rosie Sheehy)が地下鉄の通勤ラッシュで半死状態になりタイプライターの機械音と噂話がやかましい職場で、老いた母(Buffy Davis)とふたりきり、息の詰まる嫌味と小言しか言われない家庭で、そんな家庭から逃れるべく職場の25歳上のハゲ上司Mr. J (Tim Frances)と結婚した後の地獄のような新婚旅行で、ぜんぜん欲しくなんかない子供の出産で拷問のような思いをさせられる病院で、諸々のはけ口を求めて通うようになった闇酒場で、そこで出会った男(Pierro Niel-Mee)と親密になり、そこから振り返ってみた家庭は改めて地獄だったのでとうとうブチ切れて、魔女狩りの裁判にかけられて、みんなが見ている前で見せしめの電気椅子へと…

最初から最後までずっと、”Young Woman”にとってそこで展開されたり会話されたり付きあわされたりべたべたされたりする日々のあれこれがどれだけ虐待や拷問に近い苦痛をもたらすものであるかが、きわめてわかりやすい機械音と頭のなかにこだまするいろんな声の反響~ノイズ、ダンスのような振付(by Sarah Fahie)やSMぽいシルエットと共にえんえん表現されていって、実際の犯行はそれらの帰結でしかないのであっさりめに描かれて、刑の執行も機械の屠殺みたいに一瞬でやってしまう。 原作から100年経った今でもこれらが、彼女の痛みのありようがすんなり理解できてしまうことが何よりもやばいかも。まあ、拷問なのだからわかるか…

余裕たっぷりの白人男性目線による自家撞着〜自爆~死刑執行もの - カミュの『異邦人』(1942)のずっと前にこんなふうに晒されたものがあったのだ、と。

主演のRosie Sheehyは、花柄ゆったりめのワンピースを着てほぼすっぴん、髪も適当で、その状態でどこまでもいたぶられ、玉突きされ踊らされ、傷だらけになっていって、それでもうるせーよ、みたいな顔をしていてすごい。所謂悪女からもfemme fataleからも程遠い、どちらかというと子供の顔をしている。
(これを欧州的な静けさのなかで構成し直してみると、例えば”Jeanne Dielman…”になるのかも)

当時のアメリカで理想とされたであろう仕事を持って職場で結婚して子供を作って幸せな家庭を .. というレールに乗った黄金のコースのぜんぶ逆をいったりやったりするとこうなるのだ、というのがいったい何の戒めになるのか、なったのか。(日本なら時代遡らなくても即簡単に作れる)

彼女は何かに逆らおうとしたわけではなかったし、周囲も彼女に何かを強いたわけではなかったのだとしたら、彼女を電気椅子に導いたのはなんだったのか?  Machinalななにか? とは。

[theatre] London Tide

4月24日、水曜日の晩、National TheatreのLyttelton Theatreで見ました。

原作はCharles Dickensの最後の(未完ではない)小説 -“Our Mutual Friend” (1864-1865) - 『互いの友』。脚色はBen Power、演出はIan Rickson、音楽はPJ Harveyがこの舞台用に13曲を書きおろしている。 休憩1回の3時間10分。

Dickensの原作は読んだことがなかったので見る前にあらすじを頭に入れておこうと思ったのだが人が多すぎて複雑すぎて諦めた。Londonの地名(Limehouse, Holborn, Lambethとか)とそこに暮らす登場人物たち(の職業など)が絡みあっている。

舞台の右手奥にドラムスとキーボード2つ。3人のバンドの演奏をバックに登場人物それぞれ(とその組合せ)がこちらに向かって歌う(歌詞はPJ HarveyとBen Powerの共作)ミュージカル的な場面もあったりする。アコギがリズムを刻んでそこに声が乗っかり、ドラムスとキーボードがどんどこ後を追っていく - 明らかに最近のPJ Harvey節なのに声(特に男声の)が彼女ではない、だけで曲の印象ががらりと変わってしまうのがおもしろい。

客席の最前列と舞台の隙間から登場人物全員が水揚げされるようにべちゃべちゃと舞台上に這いあがり、”This is a story about London, and of death and resurrection- “と歌いだすオープニング (エンディングは”London, remembered. - London, forgiven”..と)照明はずっと低め暗めで、テムズ川の水面のゆらゆらと共に絶えず揺れて落ちつかないかんじ。

ロンドンに戻ってきたところで溺死体になりすまして別の名前で生きることにしたお金持ちの(相続権をもつ)青年John Rokesmith (Tom Mothersdale)と、彼の(親が決めた)許嫁だった女性Bella Wilfer (Bella Maclean)との間に起こるあれこれ、川辺で溺死体を発見したことから怪しまれつつ亡くなった水夫の子 - Lizzie (Ami Tredrea)とCharley (Brandon Grace)の姉弟と彼らを救おうとする法律家(善いの悪いの)とのあれこれ、ふたつの恋の成り行きを軸に当時のロンドンの下層から上層まで、善人と悪人がとっかえひっかえひしめき合うさまをテムズのうねる流れ、潮の満ち引きに沿って絵巻物のように描こうとしている。原作が狙ったであろうごった煮感をうまく料理しているようであるものの、ちょっとシリアスな方に単純化しすぎて重くなっちゃったかも、というのは思った。

自分のIDを(故意に)なくしてしまった者、親が亡くなって身寄りがなくなってしまった者、助けてくれる善きひと、弱みにつけこんでくる悪いやつ、頼みもしないのにいろんな人たちが寄ってたかって湧いてきて言い争いや暴力沙汰は茶飯事で、という終わらない状態をコミカルに皮肉たっぷりに描くのがDickensの世界、であるとしたらちょっと違ったものになってしまったかも。このドラマのカップルはハッピーエンディングでよかったね - かもだけど、明日にはまたきっと別の同じようなのが、というエンドレスのせわしなさと果てのなさにドラマとして決着をつけようとしたらこうならざるを得ないのか。いっそ踏みこんでどたばたRom-comにしちゃえばおもしろくなったのに。

ただ、Dickens的な世界には行かなかったかもだが、Londonってこんなふうだよね、というのは音楽の効果もあるのだろうか、うまく表現されていた気がする。原作から160年経っているけど。 同じ都市でもイーストリバーとハドソンリバーに挟まれた(その終端には自由の女神がいる)NYとはぜんぜんちがう、うねうねとくねってどん詰まりだらけで海のようで川のようで逃がしてくれない、そこで生きるしかないあーあーと、それでも… のなにかが。

そして、Dickensというより、思っていた以上にPJ Harveyの世界、になっていたのが興味深かった(そこが、それがよかった)。 水に浸かって溺れていくイメージは”To Bring You My Love” (1995)の頃のだし、でっかい都市を描く、という点では”Stories from the City, Stories from the Sea” (2000)があるし、ヒロインの着ていた衣装は”White Chalk” (2007)のジャケットのそれだし、言葉を探しながら異郷を旅してどこまでも踏みしめつつ歩いていく、というのは詩集を含めた最近の数作でずっとやっていることだし。彼女のヴォーカルの入った”London Tide”が早くリリースされますように。

この夏にあるPJ HarveyとIvo van HoveとSandra Hüllerの演劇? プロジェクト、なんとなくチケット取ってしまってから場所がドイツであることに気づいた。しらんぞ。

[film] Cerrar los ojos (2023)

4月21日、日曜日の午後、BFI SouthbankのVictor Erice特集 or ふつうの新作、で見ました。
英語題は”Close Your Eyes”、邦題は『瞳をとじて』。

169分、だいじょうぶだろうか?(←自分が)だったが、ぜんぜんだいじょうぶだった。 『ミツバチのささやき』(1973)~『エル・スール』(1983)~『マルメロの陽光』(1992)と、これらはどちらかというと散文詩的な形でこんな世界がある(あった)、というのを示していて、Ericeが今回のようにちゃんとした(ってなに?)ストーリーを語れる人だとは思っていなかったのだが、描かれた情景やそれらイメージの連なり以上のストーリーの転がり具合に引き込まれてしまったことにちょっと驚いたかも。

映画はいくつかのパートに分かれていて、最初はある映画の冒頭部 – 第二次大戦直後、フランスの田舎のうち棄てられたような邸宅に中国人の下男とひっそり暮らすSad King (Josep Maria Pou)が反フランコ主義者のスペイン人の男性を招いて、上海で行方不明になっている自分の娘を捜し出してここに連れてきてほしい、と依頼してその写真を渡す。(ここまで)

で、これが90年代初に、スペイン人男優Julio Arenas(José Coronado)の突然の失踪により制作が中断された映画”The Farewell Gaze”の冒頭部であることがわかり、時間は現代になって、その映画の監督をしていたMiguel (Manolo Solo)が、未解決事件を追うTVドキュメンタリー番組に出演してJulioの失踪についてわかっていること、思い当ることなどを話すべくマドリードにやってきて、倉庫からお蔵入りとなっていたあれこれを掘り起こして、当時映画の編集を担当していたMax (Mario Pardo)と会って当時の話をしたり、古本屋にあった自分の著作 – メッセージつきで献本したのが売られていた – からかつての恋人 / Julioの恋人でもあった - Lola (Soledad Villamil)と会ったり、Julioの娘のAna (Ana Torrent)と会って手がかりを探してみたりするのだが、もちろん何も出てこないし、出てくるとも思っていないぽい。どちらかというと自分の過去とか、なんで自分はこんなことをしているのか、を掘って向き合っていく作業となる。

最後のパートは放映されたTV番組を見た女性からあれは彼かも.. という知らせを受けたMiguelが彼の暮らす療養院を訪ね、間違いなく彼かもと思いつつ、いまは施設の修繕仕事をしながら過去の記憶すべてを失っている彼の扉を叩きはじめて。

身近にいた人がいなくなる、失踪することについての映画で、冒頭の映画も人探しの依頼からだし、中心となるMiguelのJulio探しもそうだし、Miguel自身が映画の世界から身を引いて半世捨て人状態だったし、Julioは自分の過去がどうだったのかを見出すことができず、そして娘のAnaにとっては – とくるとEriceの最初の2作で、娘から見た父の謎とその先にある失踪はあらかじめ用意されていたかのようだし、とにかくみんな(なにかを探しているのか忘れたいのか、事情はいろいろありつつも)どこかに失踪してしまう、それが生き(のび)るひとのふつうのありようではないか、と思えてきたり。

そしていなくなってしまった人を探す際のカギとなるのが目に訴える古い写真だったり、映画だったり、それにまつわるありかなしかの記憶の欠片だったり。記憶がそれらの映像を運んでくるのではなく、どこかに挟まれた写真や缶からに入ったフィルムから、それらの朧な記憶が引きだされて、そうしてかき集められた記憶がその人のかたち、イメージを改めて浮かびあがらせる、という順番・構図(?)。

その過程で”Close Your Eyes”という指令は(どこから?)どこにどんなふうにきいてくるのか?
この映画のポスターで、目を閉じたQiao Shuのアップの手前でMaxに映写を始めるように指示を出すMiguelのイメージが意味するところは? ひとはどうしてなにかを思いだそうとするときに目を閉じてしまうのだろうか?…など。

記憶はいっつもどこかに行ったり消えたりしてしょうもなくて、写真や映画はぼろぼろになったりしながらも、どこかに残ったり挟まったりしながら、突然発見されたりする。 古本もな.. だからよれよれと映画館に通うのだし、床に本を積んでしまうのじゃよ…

映画 -”The Farewell Gaze”をフルで見たい。絶対傑作だと思うし。実はもう作ってあるのではないか。

あと、Victor Erice本人がどこかに行ってしまいませんように。その予告となりませんように..

AnaとMiguelが会うプラド美術館のカフェ、こないだあの辺に座ってケーキを食べた。 すごく居心地のよい素敵なカフェなの。

4.29.2024

[film] Out of the Shadows: The Films of Gene Tierney

新しめのばかりを書いている気がするが、古いのも好きなので地道に見ている。BFI Southbankの4月のもうひとつの特集がGene Tierneyの – “Out of the Shadows: The Films of Gene Tierney”で、見たことある作品も多いのだがやっぱり何度でも見たくて、月初にNYに行ったりして見逃してしまったのもあり、全11本のうち6本しか見れなかった。くやしい。
 

Laura (1944)

4月13日、土曜日の午後に見ました。

Otto Premingerによる問答無用のノワールの傑作と言われている。不可解な死をとげたLauraの聞きこみ捜査をしていくNY市警の刑事が彼女の見える顔見えない顔、その謎の部分に引き込まれて狂っているのか狂っていないのか、手もとでスマホのゲーム(今ならそう)をやっているうちに自分でもわからない穴にゆっくりと嵌っていく。夜の街で、明らかに狂ったなにかを追っていくうち、気がつけば狂っていたのは自分(たち)だった、という転換 - ノワールの黄金律みたいのがたっぷり詰まっていて、何回見てもおいしい。

 
Leave Her to Heaven (1945)

4月14日、日曜日の午後に見ました。監督はJohn M. Stahl。邦題は『哀愁の湖』、だって。

小説家のRichardと運命の出会いをした(と思いこんでしまった)Ellenがいて、亡父を盲目的に愛していた彼女は同じようにRichardも愛するのだが、つい愛しすぎて彼を独占したくて邪魔で気にくわない親族や自分の子まで端から消していって何が悪いのよ、って最後に自分まで消してしまうの。

どろどろの毒婦/愛憎劇にしようと思えばできたであろうに、そうはせず、ぜんぜん報われない愛を求めて止まない彼女のふるまいを綺麗なテクニカラーのなか壮麗に描いていて、かっこよく見えたりもする。最後の裁判シーンで露わとなるぼんくらまみれの男たちに囲われてしまったのが悲劇のー。

終わって拍手がわいた。

 
Night and the City (1950)

4月20日、土曜日の午後に見ました。邦題は『街の野獣』。

赤狩りでフランスに逃れる手前の監督 - Jules Dassinが”The Naked City”(1948)でのなんでもロケ主義をNYからLondonに持っていって、とにかく金を稼いで名をあげたい、ってイキるちんぴらをRichard Widmark が演じて、とにかくこいつがひとりで一晩中ずーっと走り回っているので、こんなのが近くに寄ってきたら誰でも消えてくれ、ってなるのではないか。Gene Tierneyはなんでこんなのを信じて一緒にいようと思うのか謎(そっちの方の謎)の役で、全体に熱すぎてノワールぼくないかも。

スケールがでかいのかせこいのかよくわかんないまま闇雲に裏道抜け道を転がっていく話で、そんなありようはなんとなくLondonぽいかも、と思った。

今なら親子プロレスラーもの”Bear Hug”としてリバイバルか、リメイクできるかも。
 

Whirlpool (1950)

4月21日、日曜日の晩に見ました。
監督はOtto Preminger、脚本にはBen Hechtの名も。邦題は『疑惑の渦巻』。

Gene Tierneyは高名な医師と結婚して幸せなはずなのにデパートで万引きをして捕まって、でもその場にいた催眠術師のJosé Ferrer に助けられ、これで彼女の弱みを握った彼は彼女に催眠術をかけて殺人容疑者の肩替わりとか証拠隠滅とか悪いことをさせたりするのだがー。

まず夫も医者なら気付けよ、って思って、でもそうはならないところがなるほどー、とか、でもやっぱり、そんな回りくどいことしないで最初から殺したかった相手に強引に催眠術かけて言うこと聞かせればよかったのでは、とか。

ここでのGene Tierneyは一貫して男たちの被害者でありながら、本当にそうなのか? 彼女は催眠状態ではなくすべてをわかってやっていたのではないか? という別の渦の方に見ているものを誘う。渦を作っていたのは誰か? とか。


The Ghost and Mrs. Muir (1947)

4月23日、火曜日の晩に見ました。
監督はJoseph L. Mankiewicz。邦題は『幽霊と未亡人』 - ちゃんと”Mrs. Muir”って名前で呼べ。

夫を亡くしたGene Tierneyがうざい姑たちから逃れるべく、一人娘(成長するとNatalie Wood)と家政婦を連れて海辺の一軒家に引越したら、格安だったそこは船長だったRex Harrisonの幽霊のいる訳あり物件だった。

が、なんとなく幽霊と話していて仲良くなってしまった彼女は船長の経験をもとに本を書いて出版社に持ち込んで、そしたらこれおもしろいって出版することになって、そこで知り合ったGeorge Sandersと婚約するとこまでいくのだが…

ふたつの世界を行き来する恋物語、というより息の長い、スケール大きめの話で、でもラストは爽やかに泣かせてくれて、こないだの”All of Us Strangers”(2023)もこれくらい攻めてほしかったかも。

海の描写がすごくよくて見ているだけで気持ちよくて、それだけで名作。


Where the Sidewalk Ends (1950)

4月27日、土曜日の午後に見ました。
監督はOtto Preminger、この脚本にもBen Hechtの名が。邦題は『歩道の終わる所』 - は車道? 獣道?

暴力的な捜査や尋問で上からうるさく言われているNYの刑事 - Dana Andrewsがいて、ギャングの賭博のいざこざに絡んだ殺人事件の捜査で、容疑者のやくざのとこに行ってそいつを殴ったらあっさり死んじゃって、隠蔽工作などをしてみるのだが、殺したやくざの妻だったGene Tierneyと会ったり彼女の父のタクシー運転手が逮捕されたのを見ていくうちに…

Dana Andrewsの同期で先に出世した奴のねちっこくやらしい推理が夜の終わらないかんじとうまくリンクしてて、こんなんじゃみんな荒れてぶん殴ってしまうかも、とか。

ぶん殴るとこがそんなに痛そうに見えなくてちょっとお上品かも、って思った。Raoul WalshとかJohn Hustonのぶん殴り方と比べてしまうと特に。


Gene Tierney、いまの女優でいうと誰かしら? ってずっと転がしてて、Léa Seydouxあたりかも、と思った。 一見愛想のよいただの美人さんのようで、実はとんでもない強さとか影 (Shadow) を抱えてて、相手を - 時には自分も含めて - 軽く道連れに、共犯者にしてしまう、そんなしなやかな強さがあって、横に並ぶ男たちを一瞬でただの愚鈍のぼんくらに見せてしまうとこ、とか。

4.27.2024

[film] Sometimes I Think about Dying (2023)

4月19日、金曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。上映後に監督のRachel Lambertと主演のDaisy RidleyのQ&Aつき。

オレゴンの小さな町の小さな会社 – なにをやっている会社なのかはわからず – で事務をしているFran (Daisy Ridley)がいて、出社するとすぐ机に座ってPCをONにして仕事にかかる。同僚への朝の挨拶もしているかしていないかくらい小さくて、職場でドーナツが出ても手をつけず、世間話にも興味がなくて、髪も適当のほぼすっぴんでPCに向かっているだけ。

という典型的に地味で最近の「ワークスペース」なんて呼び方とは程遠い殺伐としたアメリカの職場の描写が続いて、それだけでなんか嬉しくなってしまったので、以降、レビューとしてあんまちゃんとしたものになっていないかも。

パーティションが切ってあって、見たくない話したくないときは逃げることができて、窓から見える風景もどうでもよい殺風景なもので、少しケミカルの匂いがしてて、給茶コーナーではいつも誰かだらだらしていて、文具コーナーはいつも出しっぱなしで殺伐としてて、要は朝来て仕事をして夕方になったらばらばらと帰る、それだけの場所でしかなく、孤立しているというより別に誰とも仲良くなりたいと思わないしこのままずっと仲良くなくて構わないと思っているFranは”Sometimes I Think about Dying”で、窓から見えるクレーンで首を吊られたり、自動車事故にあったり、蛇に襲われたり、森のなかで横たわったまま虫にたかられていたり、といったことを夢想してうっとりする。自殺したい、というのとはまた別で(わかんないけどたぶん)、自分が打ち棄てられてそのまま朽ちていく - それが持続している状態でありたくて、それを別の自分が見つめて夢想する - 心理学的に説明できるなにかはあるのかもしれないが、その状態の解析や分解に向かうことはなく、Franの職場でのそういう状態 - 仕事というよりはSpreadsheetが好き、って言ってしまうとか、独り暮らしのアパートでレンジご飯を食べたらTVも見ずに22時には寝るとか - のそういう無風で無表情な状態と自分の死んだ姿が対置されていく。 自分も職場ではそういう妄想を30年以上続けているので賛同しかない(のでレビューとしては…)。

ある日、彼女の職場にRobert (Dave Merheje)というハゲの中年男が中途で入ってきて、人柄は悪くなさそうで危険なかんじもしない、彼がFranにチャットで事務のことなどを聞いてきたことをきっかけに少しFranの方から近寄ってみて、仕事の後に映画を見て食事をして、というのをやってみる。でも映画オタクっぽい彼とは何一つ嚙みあわず気まずいままで転がっていくだけで、翌日の彼は前より素っ気なくなっていて、でもここで引き下がったらこれまでと同じになってしまう、と思ったのかどうなのか、飛び降りるかんじで彼の家でのパーティに参加してみるのだが、でもやっぱり…(以降、既視感たっぷりというか、いたたまれないあのかんじの繰り返し)。

という、ふつうのラブストーリーのようなところに落ちる要素がまったくない地味な映画で、最後のほうでしょんぼりしたFranが退職したばかりの女性 - 職場の同僚だった頃は特に親しくもなく、彼女への寄せ書きを書くのも困ったくらい – と偶然再会して少し話してほんの少しだけ何かが… というお話し。

それだけで、映画としてはあまりにも地味すぎてなんもなくて - 厚めの音楽とタイトルの書体とかはちょっとゴージャスかも - こういう不愛想でどん詰まった主人公を描くのであれば同じくオレゴンを舞台にするKelly Reichardtみたいなやり方もあるのに、とか思わないでもない。のだが、Daisy Ridleyの演じるFranはSWのReyの1/10000も動いていないけど、たったひとりだけど、間違いなく一貫した像をつくってそこにいる。そこはよいと思った。

上映後のQ&Aはそんなにおもしろい話はなかったのだが、Franの死体にたかっていた虫たちは本物だったんだって。

4.25.2024

[film] L'ombre de Goya par Jean-Claude Carrière (2022)

4月16日、火曜日の晩、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。

英語題は”Goya, Carrière and the Ghost of Buñuel”。監督はBoschのドキュメンタリー”El Bosco. El jardín de lossueños” (2016)などを手掛けたJosé Luis López-Linares。

Jean-Claude Carrière (1931-2021)がスペインのGoyaの生家やゆかりの地を訪ねたり、プラド美術館の前で個々の作品の前に立ったりしながら、自分の作品に決定的な影響を与えた - のはもちろんだがそれ以上に幽霊として取り憑いて離れないGoyaの世界について語っていく。彼にはMilos Forman監督によるフィクション – “Goya's Ghosts” (2006)があったりするのだが、そこには触れずに初めて絵の前に立ったときの驚きと共にひとつひとつ。 最初の方で出てくるのがプラド美術館にある“The Threshing Ground or Summer” (1786) -『脱穀場』で、ここにどれだけ多様で雑多なものが描かれているか、いかに構図としてすばらしいものか、描かれている人たちが、その階級も含めてそこで生々しく生きているのか、向こう側の世界、過去に向けた親密な目とともに語って、その目線が表面から想像の世界にまで降りてくると、少しづつLuis Buñuelが顔を出すようになる。このドキュメンタリーにCarrière自身がWriterとして関わっているのでこの辺の組み立ては十分に狙ったものなのだろう。彼の他にCarlos SauraやJulian Schnabelもコメントしたりするが、彼らは別になくてもよいかんじ。

Goyaの個々の作品と掘ればいくらでも出てくるその深さ – 映画のポスターになっている肖像画“The Black Duchess” (1797)から展開していく「指」のおもしろいこと – などについて語りながら、実は自分自身(の作品)について語ってしまっている – 相手がGoyaのような巨匠に対してそれが許されるのは限られた人だと思うのだが、ここではすべての語りが単なる絵画の解説の域を越えて、すんなりとこちらに入ってくる。まるでGoya自身が何かを言わんとしているかのように。

Carrièreはこれを撮りながらおそらく自身の死を十分に意識していて、でも、だからこそ作品やその土地を前にして自分の言葉でGoyaが見ていた何かを語りたかったのだと思う。その相手、向かう対象が一緒に仕事をしていったBuñuelではなくGoyaだった、というのは、それ自体がCarrière/Buñuel ぽいというか。

今度マドリッドに行ったらあの教会には行かねば。


John Singer Sargent: Fashion & Swagger (2024)

4月16日、火曜日の晩、↑のの前にCurzon Bloomsburyで見ました。最初にGoyaのチケットを取って、その前になんかやっていないか見たらこれがあったので、この晩は美術のお勉強映画2本立てで。

日本でも見られるのどうかは不明だが、Exhibition On Screen (EOS)というシリーズがあって、話題の展覧会とか画家とかテーマを取りあげて、英国だと配信で£4.99とかで見ることができる(映画館だと£6.99だったか)。そのシリーズの1本で、ここでも感想を書いたTate Britainでやっている展覧会 – “Sargent and Fashion” – 昨年ボストン美術館では”Fashioned by Sargent”のタイトルで開催された - を取りあげたもの。Tateのはすごくよい展示だったのでまた行きたいと思っている。

内容としてはキュレーターやいろんな専門家が展示の内容に沿ってJohn Singer Sargentの足取りを説明していくもので、日曜美術館あたりとはやはりレベルがぜんぜん。

Sargantの絵に出てくる実在の人物 - 多くはスポンサーのお金持ちやセレブ – Swagger – こちらに向かって見得を切ってくる人々のポーズや表情、目線や指先の仕草の独特さ、ジェンダー(クイアー)アイデンティティ、そんな彼らひとりひとりの身体を覆う、その上に被さったり覆ったりする布や衣服の、ブラッシュ・ストロークの調味料の怪しさと不思議なかんじ – それがどんなふうにその人物の威厳や特別さ、ずっと残るその人の像を引きだすことに成功しているか、について、例えば写真家のTim Walkerが熱く語って、彼がTilda Swintonをモデルに撮ったポートレートなども参照される。

そして絵画の横に彼らが纏っていた衣装(のほんもの、それに近いもの)が並べられることで、その魔法の効力と不思議さを改めて思い知ることになるの。画家以前のスタイリングやコーディネーションのようなところで、既にとんでもなく見る、というより引き出す力があったのではないか、と。

制作当時にしては規格外でスキャンダラスに見えるものもあったみたいだけど、今見ると割とふつうに入ってきて、かっこよいったらないしー。

今週末はTate Modernで始まった”EXPRESSIONISTS KANDINSKY, MÜNTER AND THE BLUE RIDER”にいくんだー。

4.24.2024

[film] El sol del membrillo (1992)

4月17日、水曜日の晩、BFI SouthbankのVíctor Erice特集で見ました。

これはまだ見たことがなかった。英語題は”The Quince Tree Sun”、米国でのタイトルは”Dream of Light”、邦題は『マルメロの陽光』。1992年のカンヌで審査員賞と国際映画批評家連盟(FIPRESCI)賞を受賞している。

どうでもいいけど、QuinceはQuinceってかんじで、「マルメロ」ってなんか違う気がするんだけど(ポルトガル語由来か)。「かりん」の方はなんかわかる。

Ericeが”El sur” (1983)に続けて撮った3本目の長編作で、138分のドキュメンタリー。

マドリッドの画家Antonio López García (1936-)が改築中(?)の自宅に入って木枠からカンバスを作り、一本のQuinceの木の前にイーゼルとカンバスを据えて、自分の足の置き位置にも釘でマークをして、重しを吊るして中心線を決めて、Quinceの実にも縦横の白い線を引いて、自分がこれから描く、描こうとする世界を固定 – することはできないので、基準線を沢山引いて、時間の経過と共に変わっていく世界 - 果実は熟して重くなって下方におりてくるし、差し込む陽の角度は冬に向かって傾いていく – に備えている。雨が降り出すと木の周りにビニールの囲いを作ってその中で作業をするが、激しい雨風にはどうすることもできない。

ものすごく厳格な料理人のような、修行僧のようなきっちりタフな作業をしていくのかというと、そんなでもなくて、ラジカセから音楽を流したり、友達ととりとめないことを話したりしながら描いていく。家の改装で壁を壊したりしている3人の大工さん達と同じような緩さと風通しで日々の時間が流れていく - 日付やその経過は字幕で表示される。

こんなふうに創作の過程を追っていくことで、Antonio López Garcíaの絵画観や創作の秘密を明らかにする、というよりは”The Spirit of the Beehive” (1973)の父親がやっていた養蜂や、”El sur”の父親がやっていたに水当て、のような仕事との相似を描いているような。 相対するのは自然物で、その背後にはよくわからない法則や原理がありそうだが、とにかく変わりやすく絶えず動いていくので思うようにはならなくて、その断面を捕まえるしかない。絵は途中まで油彩で、途中からデッサンに変わって細密で正確であろうとすることに変わりないものの、写真ともハイパーリアリズムのそれとも異なる、「絵」としか言いようのない表象が現れる - でも完成形がこれ、というのは示されない。 そこでは目を見開いて捉える、と同時に「目を閉じる」ことも必要で – 目を閉じることについては”The Spirit of the Beehive”にも”El sur”にも言及があって、Ericeの最新長編作ではタイトルにまでなってしまった。- 目を閉じてみること。

職人的な技巧や時間をかけなければ到達できない境地 や成果 – Ericeの映画もそのひとつかも - についての映画ではなくて、目を開いて見つめること – 目を閉じること、その間に現れる世界のありようを捕まえる、その作法についての映画なのではないか。彼の最初のふたつの長編ではそれを担っていたのは「父親」だったわけだが…

彼の作業と並行して同じく画家である妻のMaría Morenoの作業 - ベッドに横たわるAntonio Lópezをモデルとした絵が描かれているところ、とか彼の家の周囲、マドリッドの住宅街の夜景 – TV画面がぼんやり光っていたり – が映しだされて、どれもシンプルに美しい。いろんな人が出てきていろんなことを喋ったりで楽しくて、138分あっという間なのだが、全体に漂うぽつん、とひとりであるかんじ、はなんなのだろう? ってずっと思っている。

3月の頭にマドリッドに行った時にMuseo Nacional Thyssen-Bornemiszaで見たIsabel Quintanillaの回顧展(すばらしかった。まだやっているので近くの人はぜひ)では、彼女の夫の彫刻家Francisco Lópezの作品の他に、この映画に出てきたMaría Morenoの絵も、モデルとしてポーズをとるAntonio Lópezの(Isabel Quintanillaによる)絵もあったりしたのだが、彼らに共通していると思われる対象 - 静物、家具、壁、家の周り、景色とそれを絵のなかに置く置き方、などがどういう背景(土地、はあるの?)や意識のなかで生まれてきたのか – そこでしばしば対照されるVilhelm Hammershøiの絵画とか。スペイン内戦(の記憶)、はそこにどんなふうに絡まっているのかいないのか、など。

日本は湿気があるので難しいのだが、果物がゆっくりと朽ちて黒ずんで形が壊れていくさまって、こちらではよく目にして、それが妙に美しかったりするので困ったもんよね。(だからといって食べ物は粗末にしないように)

[theatre] Opening Night

4月15日、月曜日の晩、Gielgud Theatreで見ました。

原作はJohn Cassavetesの同名映画(1977)、演出はIvo van Hove、ミュージカルの楽曲はRufus Wainwright、と自分の好きなのが三つ揃いだったのでこれは行かねば、と楽しみにしていたら予定より早く打ち切りの話が出てきたので、やや慌ててチケット取った。

映画の”Opening Night”は大好きで(でも”Love Streams”(1984)のがもっと好き)、昨年7月のイメージ・フォーラムの特集でも見ているのだが、結論からいうと、映画とは別ものとして見た方がよいのかも、とふつうに思った。映画版のどっちに転ぶのか、何がどこでどう破綻してしまうのかの緊張感、そのこんがらがった組まれよう– Opening Nightに向かって冷たく固化していくかのようなそれが、映画と舞台とでは、さらに舞台劇でもミュージカルとなると、薄まるとこ濃くみえるとこ、違ってくるのは当然だと思うし。

映画版でGena Rowlandsの演じた、疲れていろんな妄想や過去のあれこれに怯えて頑迷に閉じこもりシャッターを下ろそうとする、自分の役柄にどうしてもコネクトできない主演女優Myrtleの存在感、その輪郭の強さは圧倒的で、彼女は演技だろうがなんだろうが… って居直るかのようにくっきりとそこにいたのだが、そういう状態にある人がミュージカルで歌って - ミュージカル的な輪を作ってそこに入ろう、入ってもらおうと思うだろうか? (”A Woman Under the Influence” (1974) -『こわれゆく女』で彼女が歌うシーンはあったけど、あんなふうに凍りつくかんじになっちゃうのではないか)

舞台は左手にフルバンド(9人くらい?)がいて、真ん中にあるのは枠の外れたリハーサルルームで、カメラを抱えた撮影クルーが俳優たちの動きを追って、その様子がリアルタイムで正面のプロジェクターに映しだされる(劇場の外に出たり、頭上からのアングルのもたまに入ってきて、これらは録画かも)、といういつものIvo van Hove仕様 – すべては地続きで逃げ場なんてどこにもないのだ、という。

舞台版のMyrtle (Sheridan Smith)は、外見は – その笑顔も含めてなんかかわいらしいかんじで、Gena Rowlandsの超然とした大女優のオーラと磁場はなく、どちらかというといろいろ気をまわし過ぎて疲れて壊れちゃったのかな、という程度で、彼女に憑りつく亡霊のNancy (Shira Haas)も演出家のManny (Hadley Fraser)もプロデューサーのDavid (John Marquez)もMyrtleの元カレで共演男優Maurice (Benjamin Walker)も、全員が爬虫類か化石のように冷たく頑固でとんちきだった映画版に比べるとまだリテラシーがあるというか、彼女なら立ち直ってくれるのでは、というやや暖かめでポジティブな空気のなかにいる。

公演初日に向けたリハーサルとその苦難の旅を秒読みで追っていく舞台、というとこないだ見た舞台 - ”The Motive and The Cue”が思い浮かんで、これは演出家と主演男優のふたりが演劇とは?演技とは?という根源的な問いのまわりをぐるぐる掘っていこうとするものだったが、こっちにはそういうのがなく、鍵となるMyrtleの苦悩や挙動についても、そもそもなんで? が十分に描かれていないので、あーやっちゃったよ… と だいじょうぶ、やれるはず! の間のどたばたとその繰り返しで終わってしまう。それはそれでスリリングだからよい、という見方もあるのだろうが。

で、でも、それを救うというか補うのがRufusの音楽で、バンドサウンドだからか、”Want One” (2003)~ ”Want Two”(2004)の頃のファットで暖かめの音と歌 – これの次の“Release the Stars” (2007)ほどぎらぎらしない - が見事に鳴る。基本のストーリーラインはどん底からの復活、だと思うのだがそこに感動的にはまってしまうよい曲ばかりで – “Opening Night”ってそういうドラマだったっけ? はあるとしても。

帰り、劇場の通路から出口に向かうところにRufusがいたの。最初は人違いじゃないかと思ったけど、何度も彼のライブは見ているし、他の人もあっ、て言ったりしていたので彼だと思う。とっととそのうさんくさい髭を剃って、今回の曲も含めたバンドでのライブをやってほしい。

そういえばRufusがカバーした”Perfect Days”、すごくよかったよねー。

4.22.2024

[film] Eno (2024)

4月20日、土曜日の晩、Barbican Centreで見ました。

この日はRecord Store Day 2024だったので朝早く起きようと思っていたのに起きて立ちあがったらよろけてクローゼットの扉に激突して流血はしなかったもののでっかいたんこぶを作り、半分やるきを失って、Rough Trade Eastに8:30に着いたらとんでもない行列だったので1時間並んで諦めて(昔は6:00に来ていたことを思いだした)、他にもついてないことまみれのしょんぼりだったのだが、晩のこれで救われた。

Brian EnoのドキュメンタリーのUKプレミアで、上映後にEnoと映画関係者とのQ&Aがある。

Barbicanに着いたところで会場に入るEnoさんを見たり(偶然)、有名な人もいっぱい来ていたようで確認できたところだと斜め後ろにPeter Gabriel氏がいて、だれにでもすぐわかる(キリンみたいだから)Thurston Mooreとかも。

監督はGary Hustwit – Dieter Ramsのドキュメンタリー”Rams” (2017)の音楽をEnoが担当してからの付きあいだそう。

上映前のイントロで、上映時間は約1時間半だが、これはGenerative Art作品なので今後同じバージョンのものが上映されることはない、と言われる。?? になるのだが100時間以上のEno自身の発言や関連するインタビューやライブやイベントのフッテージ映像、彼の作品をAIに読みこませてあって、それらをAIがランダム(ではないことが後でわかる)にジェネレートして見せてくれる、と。

で、このアーキテクチャを構築したBrendan Dawesと監督がスクリーンの前にあるなんかの機械(上映後のトークによると、ストックホルムの若者に作ってもらったそう、Sandanceでの上映時にはまだラップトップだったって)の起動ボタンを押して映画がはじまる。

というわけなので、このバージョンについて感想を書いても、これと同じバージョンのものが上映される可能性がそんなにないのだとしたら、どうしたものかー になる。(一般公開時にどうするか/どうやるかについてはまだ検討中、とのこと) 

こうして、池や川のある自宅近くを散策しながら寛いでいろんなことを話すEno、アートスクールの頃からRoxyに入って音楽活動を始めた頃から、Bowieとの共作のこと、80年代に過ごしたNYでのこと、Omnichord1台で作ったApolloの音楽のこと、などのクリップなんかが出てきて、場面が切り替わる時にはスクリプト画面が出てうにゃうにゃやっているので、なんかをGenerativeしているのだわ、というのはわかる。

上映後のトークで、クロノロジカルに纏められたドキュメンタリーは嫌いだしそういうのは作るつもりもなかった、そうで、時代は昔にいったり現代に来たりを散漫に(でもないのだが)繰り返していく。映像の中にも出てくるEnoとPeter Schmidtが1975年に作ったカード作品”Oblique Strategies” - カードを一枚ひくとインストラクションが出る – と同じように何が出てくるかはその時にならないとわからない。 今回の上映会の様子もどこかのタイミングでマテリアルとして加えられ、いつか上映されるかもしれない、など。

個々の中味についてあれこれ言ってもしょうがないのかも知れないが、ひとつだけ、”Discreet Music” (1975) の話から入って、EnoがBowie(の声)について語り、BowieがEnoについて語るところ – Enoってなにをやっているのかよくわからないんだ..とか - のところはなるほどなー、ってものすごく腑に落ちた。あと、客観的に見て- というのが「ない」ことは承知の上で、やはりRoxy MusicとFripp & EnoとCluster & Enoのところ、彼がプロデュースしたいろんなバンドたちについては余りに触れられていなさすぎではなかろうか、とか。あと、先のBowieのコメントの他ではEnoの活動について第三者が何かを述べたり位置づけしたり、ということはしていない。あくまでEnoによるEnoの総括が主 - “Taking Tiger Mountain (By Strategy)”のジャケットみたいな。

あと、あのラスト(だけ?)は決めてあったのではないか、と。

これを従来のドキュメンタリー映画作品と同列に並べて見てよいものか、については議論があるところだろうし、すべきだと思うけど、アート作品(or アートについてのアート作品)として、おもしろいことは確か。対象がEnoだから、というのはあるのだろうが。どうせだから見る側で上映時間の長さまで指定できればよいのに。3時間版とか。- できるはず。

上映後のQ&Aというよりトークがものすごくおもしろかった。

Eno自身からGenerative Artをつくっていく4つのステップが紹介され、これは技術的なるところも含めてこういうものであるとして、それでは従来の映画のEditorはいったい何をすることになるのか? - トークに参加していたEditorの人によると、コントロールフリークであるべき編集の仕事からするとものすごく難しく大変な作業だった、と。作業の流れとしては素材をある塊りで編集して、それをカテゴライズして食べさせて、ロードマップとかストーリーラインのようなものを作って食べさせて、AIとの間でそのやりとりや調整を何度も繰り返し、それでもアウトプットがどうなるのかの予測はつかない、と。

Enoが強調していたのは、すべてをAIのアルゴリズムに委ねてしまうことの脅威と危険性で、なぜならいまの世に出ているアルゴリズムの殆どはMuskとかZuckerbergのようなお金を儲けたい白人男性のために作られている - ソーシャルメディア上のComplexityは分断を作りやすく、分断(差別化)はお金を生むから。そうではなく、ComplexityからSimplicityの方に向かうストーリーを考えていかなければいけないのだ、と。(個人的にはSimplicityにもいろいろあるし、軽く潰されやすいので注意が必要だとは思うけど) ここは本当にそう - 勝手に埋め込まれているAIの怖さ - なんだよ、旧Twitterのいまの気持ちわるさを見てみ。

(アルゴリズムの白人男性優先バイアスについてはドキュメンタリー “Coded Bias” (2020)がわかりやすい)

2018年にBritish Libraryで行われた彼のレクチャー”Music for Installations”の時のメモを見ると、この時点で彼はすでにSimplicityとComplexityの話をしているのね。今回のドキュメンタリー用のネタでもなんでもなく。その時にも思ったけど、この人の自分でおもしろがって多少わからなくてもまず始めてしまうところも含めて、アーティストとしても教育者としても本当に理想の動きのできるひとだなあ、って。

この映画と一緒にツアーしてくれないかしらん。

[film] El espíritu de la colmena (1973)

4月13日、土曜日の夕方、BFI SouthbankのVíctor Erice特集で見ました。

BFI Southbankの一番大きいシアター、NFT1が改修工事でしばらくクローズになっいて、4つあるシアターが3つになり、その影響なのか4月からの特集プログラムが取りにくくて困る。これも直前までSold out印がついていた。

英語題は”The Spirit of the Beehive”、邦題は『ミツバチのささやき』。 日本の公開時にシネ・ヴィヴァンで見て、最初にDVD化された時にもすぐ買って、でもなんかもったいなくて開封してない。

Víctor Ericeのデビュー作で、これはものすごい1本で、どうものすごいかと言うと、デビュー作にその作家のすべてが込められているというのが本当だとしたら、ここには彼が映画を通して語ろうと思った何かが、子供が目の前に広がる世界まるごとを - その誤解も妄信も畏れも込みで - 飲みこもうとするかのようにぜんぶフィルムの上に広げられているから。ミツバチの群れが女王蜂のためだろうがなんだろうが、とにかく花に押し寄せて輝ける花粉の粒をかっさらってくる勢いで箱の中を蜜の光で満たそうとしているかのようで、実際にそうなっていると思うから。

学校に通うまだ小さな姉妹がいて、養蜂をしている父と母と古い家に住んでいて、村に巡回の映画がやってきて、それはフランケンシュタインの映画で、平原が広がって遠くには打ち捨てられた小屋があって、線路があって列車が走っていて、手紙のやりとりがあって、まだ内戦は続いているらしく、大人の世界は子供にはわからないことばかりできょとんとしている。

姉妹ふたりにとっての世界の謎が解きほぐされるわけではなく、そういうものだから、と放置されてしまうわけでもなく、どこからか現れるフランケンシュタイン - まだ恐怖の対象とはなっていない - のような、精霊のようななにかはいるのだ、と目を閉じてごらん、と父は言う。あれだけ果てしない原っぱや、伸びていく線路や、世界の広がりを見せておいて…


El sur (1983)

4月14日、日曜日の晩、BFI Southbankの同じVíctor Erice特集で見ました。原作はスペインのAdelaida García Moralesの短編小説。

↑のデビュー作から10年後に発表された長編2作目。 10年かけるのかー という驚きと、これなら10年かかるかも、という納得がぐるぐる果てのない追いかけっこをして、それはリリースから40年経ったいまでも変わらず。

今回、暗がりを抜けようとしている淡い光のなかに浮かびあがる娘はひとり、前作より少し大きくなり初聖体拝領式のお祝いを前にして、そのために南の方から祖母と父の乳母がやってくる。前作で姉妹たちの目の前に映し出されていたいろんな世界とその謎は、少女の父の - 自分の生まれる前も含めた父のよくわからない過去や水源を見つけだす不思議な能力にも向けられ、その多様なカケラたちと現在を結ぼうとする。

“El sur” - 南 - というのがその方角で、そこにも世界の中心はあり、冒頭で少女Estrellaが父の失踪を知る際も、父が頑なに語ろうとしない過去のその根っこにあるのも、祖母たちがやってくるのも「南」で、そこに行けば過去も含めてすべての謎は解かれて明らかになるのか、そうはならないだろうと思いつつも、自分の知らない土地とそこに(そこでも)流れていた時間に思いは飛んでいって止まらない。自分の大好きな人たちが過ごした土地で、かつて何があったのか? それを知ったら自分には何が起こるのか - 父を嫌いになったり、父は自分を嫌ったりするのだろうか?

どこにでもありそうな家族の、父と娘の柔らかなありようを追いながら、歴史やしきたりのようなものが彼らにしたこと、するであろうことを我々の家族や土地の物語に敷衍できそうなところまで広げてみせる。魔法でもお伽噺でもなく、そうやって動いて、たまにダンスしたりしつつ生きられてきた近代の家族の物語として。

前作に続いてここでも映画は小さくない役割をして、フランケンシュタインが、アナの目の前に現れてみせたように、今度は父親が、スクリーンに現れる女優 - Irene Rios(Aurore Clément)の方に向かって - 映画の世界に消えていってしまうかのような動きを見せる、というのと成長したEstrellaと父との再会に繋ぐことで時間を飛びこえる装置としても機能しているようで、だからこんなふうに。

だからこんなふうに映画はあるし、世界もまた、と。
Víctor Ericeが地面を歩いて水のありかを教えてくれるのを驚嘆の目で見つめるしかないのだった。

4.19.2024

[film] Back to Black (2024)

4月13日、土曜日の昼、CurzonのAldgateで見ました。

Amy Winehouseの評伝ドラマで、彼女については既にドキュメンタリーの”Amy” (2015)とBBCが制作したドキュメンタリー”Amy Winehouse: Back to Black” (2018)もある – どちらも未見 - のだが、こちらはSam Taylor-Johnsonの監督によるドラマ。音楽はNick CaveとWarren Ellis。

冒頭、Amy Winehouse (Marisa Abela)が懸命に走っている姿を少し上から捉えて併走していくショットがあって、最後の方でも反復されるこのがむしゃらで懸命な姿がずっと残る。

Amy Winehouse (1983-2011)については一般の人と同じ程度にしか知らない。彼女が登場した00年代の、特に後半の方は自分が英国音楽から一番遠ざかっていた頃かも。そういう人でも十分にわかる – 楽しめる内容になっている。映画は一部で酷評もあるみたいだけど、地元Camdenの住民からも当時の雰囲気はちゃんと出ている、の声はある、とGuardian紙は。

最初にユダヤ人の家族にいるAmyと彼女が大好きだった祖母のNan (Lesley Manville)と、やはり音楽が好きなタクシー運転手の父Mitch (Eddie Marsan)との関係が描かれて(母との関係は薄い)、歌手としてのデビューはあっさりさくさく進んで、成功もすぐそこにやってきて簡単なのだが、そんなことよりCamdenのパブでBlake Fielder-Civil (Jack O’Connell)と運命の出会いをする。ビリヤードをしていたBlakeがジュークボックスでShangri-Lasの”Leader of the Pack”をかけて口パクと振りでAmyを完全に虜にしてしまうシーン、その瞬間のすばらしいこと。

こうして怒涛の恋におちた二人だったが、Blakeには抜けられないexがいたし彼自身が薬中のちんぴらでいいかげんだし、Amyはそれに負けないアル中の暴れん坊の寂しがりだし、くっついては喧嘩して離れてまた… の繰り返しで、ようやくマイアミで結婚して間もなく彼はあっさり逮捕されて刑務所に入り、彼を信じて面会に通う彼女に離婚したい、と告げる。他にも祖母の死による悲しみが彼女を襲ったり、辛いことばかりが彼女を追いたてていくように見える。

Amyが音楽の世界でいかに、どうやって自分の世界をつくりあげ、その息づかいでのしあがっていったのか、その反対側で酒やドラッグがどれだけ危うい状態を掘り進めていってしまったのか、これらの陽と陰のコントラストのなかに浮かびあがらせる、というより父と祖母とBlakeのそれぞれの関係のなかでキスしてハグしてうんざりして喧嘩して、そういうのの繰り返しの背景というか、その状態のなかで呼吸するように、走り抜けるように彼女は曲を作って歌っていったのだ、という構成。

最期の一番辛そうなところ - 誰も見たくなさそうなところ - は描かれなくて、それでよいのだと思った。最近見た映画で思い浮かべたのは”Priscilla”(2023)で、ここでの歌手でアイコンは男性の方だったが、一途にひとりの男を思って家族をぶっちぎって走っていくその姿はなんだか似ていて、ところどころそっくりの画面もあったようなー。おばあちゃんがよい役割をするところとかも。音楽映画というよりは女性が走り抜ける恋愛映画、として見るのが正しいのかも。

誰がやったって似てない、って文句言われたり嫌われたりしておかしくない役柄をMarisa Abelaはとてもよくこなしていると思った。彼女の柔らかさとJack O’Connellの愚直な筋肉バカっぽい硬さと。 あとはNanaを演じたLesley Manvilleの見事なこと。彼女の役柄でそのまま1本映画を撮れそうなくらい。

挿入されるAmyの歌以外のスコアはNick CaveとWarren Ellisのふたりが楽器演奏も含めて全て自分たちで作っていて(プロデュースはGiles Martin)、エンディングで流れるNick Caveの新曲- "Song for Amy"はとんでもなく沁みてくる名曲 – Nick Caveってこういうのをやらせるとほんと天才 - なので、これを聴くためだけにシアターに行ってもよいの。


ところで明日はRecord Store Day 2024なのだが、どうしたものか、まだ悩んでいる。レコード買っても、まだ聴けないしなー。

[film] Monkey Man (2024)

4月12日、金曜日の晩、CurzonのAldgateで見ました。邦題は『猿男』になるの?

主演のDev Patelの監督デビューで、ストーリーを書いて共同脚本、制作にも関わっていて、制作には
Jordan Peeleの名前もある。B級アクションとして2時間を超えるのはちょっとしんどいのだが、テンションが途切れることはない。

舞台は現代インドのYanataという架空の都市で、村に暮らす子が母に半猿の神Hanuman - 孫悟空のモデルといわれる - の話を何度も聞かされたり読んだり幸せな日々を送っていたのに土地を手に入れようとする町の教祖的な指導者Baba Shakti (Makarand Deshpande)とその手下の腹黒警察署長Rana (Sikandar Kher)に村を焼き討ちされ、母は子供を匿ってRanaに殺され、子供の掌には母を救おうとした時に負った火傷の跡が残っている。

成長した子(Dev Patel) - Kidsって呼ばれてる - は、闇のファイトクラブで、猿のお面を被ったファイターとして生計を立てていて、でもそんなに強くはなくてぼこぼこにされたりしている。

そういうことをしながら、Ranaへの復讐の機会を探るべく彼が出入りする高級売春宿にバーテンダーとして雇われて中に入り、そこで働くギャングの下っぱを味方にしたりしながら階段、ではなくエレベーターを上っていって、ついに対決することになって。

でもそこからtuk-tukで逃げる時に瀕死の重傷を負った彼はヒジュラのコミュニティに助けられて匿われて、そこでよくわかんない薬を嗅いで謎の特訓を受けるととてつもなく強くなって、かつてのファイトクラブでは無敵で、とうとう頂上に立つBabaと対決する、という復讐までの道のりの一段一段と、そこには常に子供の頃の母との思い出と守護神であるHanumanが傍にいるのだった、と。

昔からありそうな敵討ちのお話しが軸で、でも舞台は新興めざましく発展途上で、新しいの旧いのがだんだらごちゃごちゃのインドの都市で、でもカーストや差別のありようは変わっていなくて、ここにこうして伝説の猿の神も絡みヒジュラの人達の蜂起もあって、でも主人公はスリムなスーツに猿の覆面 - 要は聖と俗と新と旧を入り混じらせたなんでもありで、カンフーでもタイの格闘技でも武器の方もなんでもありで – ただ銃器はあまり使わない – 同じ復讐ものでもJohn Wickみたいにスタイリッシュなのにはどうあがいてもなれず、結果“The Raid” (2011)のような泥臭くねちっこい肉弾戦に向かわざるを得ないのだった… というか。

Dev Patel自身のキャリアが”Slumdog Millionaire” (2008)から”The Best Exotic Marigold Hotel” (2011)から“The Personal History of David Copperfield” (2019) - のDavid Copperfield から”The Green Knight” (2021) - のGawain から、なんかめちゃくちゃ雑多で多様で、この流れに猿のお面を被った復讐鬼、を置いてもなんの違和感もなくて、次は虎でも象でもなんでもよいのでは、になる。いや、なんでもよいというよりは、一匹の細い猿が傷だらけになって生きていく様を描くのに(かつてどこかで見た気がする辺りも含めて)ものすごくよい絵になっている、とは思った。そういうところで生きたいか(生き残りたいと思うか)どうかは別として。

最初から無敵ではなくて、何度もやられては立ちあがり、最後に謎の同胞や謎の薬、という辺りもわかりやすいのかも。ただ痛そうなところはどこをどう見たって痛そうなので、痛いの(痛めつけられるの)がだめで嫌な人にはきついかも - 最近そういうのがしんどくなってきた。 修行(なんの?)だと思えばよいのかなあ。

続編はないかもだけどシリーズにして、いろんな動物の神を揃えてAvengersか、彼をモダン版の孫悟空にして西遊記みたいのをやるか、RRRみたいな大風呂敷路線に向かうか。それか『燃え上がる女性記者たち』(2021)の新聞社に彼が入社するとか…

最後にStonesの”Monkey Man”が流れてくれたらなー、と思ったけどやはりそれはなかった。

4.17.2024

[film] Civil War (2024)

4月9日、火曜日の晩、BFI IMAXで見ました。週末の本公開に向けた20:45からのPreview。
予告では日本の『SPY FAMILYなんとか』、の予告もがんがんに掛かっていた。

あと、これの前、18時過ぎには『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(1985) – こちらでのタイトルは” Bumpkin Soup”の上映がBFI Southbankであって(実験映画枠)、そちらを見てから(もう何度も見ているのでこの感想はいいかー)。 『ドレミファ娘…』は、NYのJapan Societyでも上映があるようで、グローバルでなんかの陰謀でも動いているの?

英国のAlex Garlandがアメリカ合衆国の内戦を描く、A24で過去最大規模の予算を投入したパニック映画、というより戦争映画、というよりジャーナリストが見た紛争映画。戦争映画に必要な善悪や大義の軸 – どっちがどうだからこう動く - の話はない。

冒頭、国民向けのTV演説の準備をする合衆国大統領 (Nick Offerman)も、まずは自分がどう見えるか、映るかを気にして、説得力をもって蜂起した反乱軍を抑えこむのだ、自分にはそのパワーがあるのだ - というのを伝えることに注力していて、カリフォルニアとテキサスを中心とした反乱勢力が何を訴えていて、合衆国側はこういう立場なのでこういう対応をとる、という説明は一切ない。大統領が赤い方か青い方かによって「反乱」のトーンも変わってくるはずなのだが、それがない。

主人公は報道写真家のLee Smith (Kirsten Dunst)で、長年世界の紛争の前線で写真を撮ってその世界では有名な人で、彼女がクイーンズかブルックリンの方でのデモ(なんのデモかはわからず)~自爆テロ発生 を取材している時に暴行を受けた駆け出しの写真家Jessie (CaileeSpaeny)の面倒をみたら彼女がついてきて、ワシントンDCの大統領にインタビューすべく、同僚の記者Joel (Wagner Moura)とNY Timesのベテラン記者Sammy (Stephen McKinley Henderson)の4人で車に乗って大陸を旅していく、その過程で遭遇するあれこれ。 すこし『地獄の黙示録』(1980)ふうで、実際に前線でどんぱちしている兵士に聞いてもどっちがどっちだかわからんし知らんしどうでもいいし、という返事が返る。車で旅をしながらそういう戦争だか内戦だかのありようを追っていく。

旅の途中でJesse Plemonsの率いる不気味な小隊に捕まって、Joelが「誤解しないでくれ、ぼくらはアメリカ人だ」と言った後にJesse Plemonsが(あの目と言葉で)静かに返す“What kind of American are you?” にどう答えればよいのか、正解があったりするのかの冷や汗、というか、殺されたら終わり、のじゃんけんみたいなゲームでしかないの。 このシーンでもうひとつ衝撃だったのはちゃんと英語で答えを返せないと…)

そういう状態で、冷徹な行動原理で前線の混乱状態をクールに捌いて動いて、すぐに怯えて泣きだすJessieをお母さんのように指導して引っ張ってきたLeeが少しづつおかしくなっていく。ここは自分が相対してきた戦場の現場とは違う、そこで通用しなかった何かが支配している – そしてその反対側でJessieは何に目覚めたのか止まらなくなっていって。

終盤、DCに着いてみれば、過去にいくつかあったホワイトハウス襲撃パニック - 絶体絶命の大統領府を過去に傷があったりするヒーローがダイ・ハード風になんとかする、のおめでたさは微塵もなく、正義とは、倫理とはいったいなんなのか、の問いかけも意味を持たず、その基準線がない状態で報道写真家 – ジャーナリスト、ジャーナリズムは何を伝えるのか、どうあるべきか – それはそのままこれを受けとる我々の方に降りかかってくるだろう。AIの作ったフェイクも含めて大量の暴力的な映像が溢れかえり、「リテラシー」なんて通用しない野蛮な世界で、なにをどうできるというのか? やっちまっていいんじゃないのか? というのが2021年1月に起こったあれで世界に堂々と曝されてしまった。そして、ガザであれだけの殺戮が起こっているのにどうすることもできていない。 その状態に対する極めて冷めたひとつの見解だと思った。それをどう見るか、はあるだろうけど。でもふつう、民間人がひとりでも殺されたらそれは非常事態、だよね。

あの終わり方には賛否あるのかも知れないが、オールド・ジャーナリズムの終わり、ということにしてよいのかしら。『地獄の黙示録』の(35mm版の)終わりみたいにホワイトハウスを焼き払ってもよかったかも。

音楽は”Ex Machina” (2014)の頃からのBen Salisbury & Geoff Barrow。全体としては鳥の囀る静かなところに突然暴れまわる何かがやってくるかんじ - ディストピアの荒んだ光景に見事にはまっていて、とにかく音だけはでっかい方が気持ちよい(たまにびっくりするけど。あとに何も来ないけど)。

政治的なのが嫌な最近の子たちは見ないんだよね?

4.16.2024

[log] New York April 2024

こないだのNYの続きの残りの。
今回の旅の目的は音楽ライブ3つだったので、美術館などは行けたら程度だったのだが、書いていなかったのを少しだけ。

行きの機内で見た映画は2本。

Freud's Last Session (2023)

Mark St. Germainによる同名戯曲を映画化したもの。
第二次大戦が始まった直後のロンドン、闘病中のいろんな苦痛に苦しむSigmund Freud (Anthony Hopkins)のところにC. S. Lewis(Matthew Goode)が訪ねて来て神や神話について議論を重ねる、というところにオーストリアへのナチス侵攻に関わるFreudの回想、Lewisの第一次大戦時のトラウマや、レスビアンであるFreudの娘の話が絡んでいくお話しで、FreudとLewisのふたりが直接会った記録はない(推測)らしく、会ったらこんな対話をしたのでは、というところがちょっと弱くて、これなら本で読みたいかなー、くらい。最近のAnthony Hopkinsって死にかけのおじいちゃん役ばかりよね。

Miller's Girl (2024)


機内のガイドには”comedy”ってあったのにほぼホラーみたいなこわいやつだった。血はとばないけど。
Jenna Ortegaがテネシーの豪邸で独り暮らしをする家の娘で文学に浸かっている高校3年生で、Martin Freemanは本を出版したこともあるクリエイティブ・ライティングの教師で、彼女の文学の才能に驚いてYaleに入学するためのエッセイ執筆に向けて仲良くなっていくのだが、彼女が友人にそそのかれてエロ小説を書いて彼に送ったことからいろいろ巻きこんだ騒動になっていく話で、そんなのJenna Ortegaが勝つに決まっているので、なんかMartinがかわいそうになってしまうのだった。文学の先生ならナボコフ読んでいれば防げたかもしれないのにね。

今回の旅は後から追加で1泊入れたりしたので最初はブルックリンの宿で、次の2泊でマンハッタンに移動して、ちょっとばたばたであまり回れなかった。以下、見た順で。

ICP at 50From the Collection, 1845–2019
1974年に設立されたICP (International Center of Photography)の50周年記念展示。

David Seidner Fragments, 1977–99

同じくICPで、70~80年代のファッション写真のかっこよさ。Tina Chowの肖像とか素敵ったら。

ICPの後、金曜の午後にはPark Avenue Armoryでやっていた

64th Annual New York ABAA International Antiquarian Book Fair

ロンドンでも行ったことあるBook Fairだったが、並んでいる古書の価格が最低でも$1000くらいから、店先に並んでいる安めのでも$600とか、べつにお買い物に来たわけではないのでいろいろ見て回るだけ。ウィトゲンシュタインが1911年に取得した特許「航空機に適用されるプロペラの改良」の原本などが$25000とか。

ロンドンで入ったことのある古本屋もいくつか出店していたが、ここにも買える値段のものはなくてとんでもないわーと思っていたら肩を叩かれて、振り返るとThe Second ShelfのAllisonさんだった。 ロンドンに戻った、というと、じゃあまたね! って。あなたから買った沢山の本たちはつい先週、船便で戻ってきたところですよ。

Giants: Art from the Dean Collection of Swizz Beatz and Alicia Keys

6日の土曜日の午前、桜がきれいだったBrooklyn Museumで。

コレクターとしてのSwizz Beatz and Alicia Keys夫妻がそのコレクションと、これもコレクションなのかBang & Olufsenのすごくよい音のオーディオ。コレクションは素朴系からバスキアからでっかいオブジェからいろいろ、やはりGordon Parksの写真たちのなんともいえない桑原甲子雄のかんじとか。

土曜日の午後は地下鉄で上にいってNeue Galerie NYから。

Klimt Landscapes

Klimtの風景画を集めた展示。実物ではなく複製のも結構あった。
緑の点々が敷きつめられたものが多く、美しいし見ていて飽きないのだが、やっぱり変態がやることっぽいよね、と。 カタログは想定以上にでっかく重かったので次回にする。

そこからMetropolitan Museum of Artに。これまでいろんな人がパニックになっていた入口の券売機はなくなって窓口かモバイルかになっていた。入場料、$30ですってよ。

The Art of the Literary Poster: Works from the Leonard A. Lauder Collection

1890年代のアメリカに登場した、本を読みましょう、みたいなカラーのポスターいろいろ。猫と女性の揃いが絵になるって発見されたのはこの頃からなのかしら?

Indian Skies: The Howard Hodgkin Collection of Indian Court Painting

Howard Hodgkin (1932–2017)の抽象画は大好きなのだが、この人がこんなコレクションをしていたとは。いろんな象さんを描いた絵が沢山あってたまらず、Hodgkinの抽象にある輪郭などを思った。

The Harlem Renaissance and Transatlantic Modernism

1920年代から40年代にかけてのGreat MigrationによりNYのハーレムではどんな形で文化やコミュニティがつくられ、形となっていったのか、を当時の絵画、彫刻、写真などから多角的に追う。プライベートなのからダイナミックなのから、ものすごくよい絵がいっぱいある、見応えのある展示だった。半日いてよいくらい。
アフリカン・アメリカンの側だけでなく、ヨーロピアンであるマティスやピカソやムンクの絵も並置されて、そのインパクトを示していた。

Hidden Faces: Covered Portraits of the Renaissance

ルネサンスの肖像画で、側面とか蝶番とか箱の中とか、いろんな仕掛けによって隠された「肖像」のありかを追う。解説見ないとぜったいわからない。 こないだプラド美術館で見た”Reversos”の展示にも似ているが、あれよりも巧妙かつ陰険な香りがたまんない。画家はHans MemlingとかLucas Cranachとか、いかにもーな奴ら。

お食事系はかつてのPruneのような「いつもの」がなくなってしまった悲しみはまだ続いている(ほんとにかなしい)のだが、Roman’sとか、Estelaとか、朝ごはんでBakeriとか。Korean Townの賑わいにはびっくりだった。

今回、始めのほうがWilliamsburgだったので久々にあの辺を散策したのだが、もう随分変わってしまってびっくりだった(遊んでいたのって10年以上前だしな..)。90年代の終わり、SOHOにフェラガモやシャネルが出来てみるみるつまんなくなっていったのと同じ道をすでに辿っているなー。でもどこかの誰かにとってはすばらしい町になっているのだろう(か)。

かつて猫がいた本屋のSpoonbill & Sugartown Booksはまだがんばっていたので何冊か買った。
本は、以前ほどでっかいのは買わなくなったかも。英国にもある/ありそうだから、で選別したり(よいこ)。

そして、土曜日の夕方18:30にJFKを発って、朝の6:30にヒースローに着いて、地下鉄でお家に戻って、荷物置いて着替えて会社行った。この時間帯のにはもう二度と乗らない。

4.15.2024

[film] Mothers' Instinct (2024)

4月2日、火曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。
監督はフランスのBenoît Delhomme、Barbara Abelの同名小説 (2012)をベルギーのOlivier Masset-Depasseが映画化した”Duelle” (2018)のリメイクだそう。でもこれはアメリカ映画。

60年代アメリカの郊外の閑静な住宅地 - ぜんぶ一軒家 - で隣り合っている家の主婦Celine (Anne Hathaway)とAlice (Jessica Chastain)は歳も近いしそれぞれの男の子の歳も近いので、学校への行き来も出迎えも、子供らがずっと一緒に遊んでいる時間も一緒で家族ぐるみで付きあっていて親友のように仲がよい。

Celineの誕生日のサプライズ・パーティーも少しだけ波風がたったりしたが楽しい会となり、でもその翌日、Celineの息子Maxが具合を悪くして学校を休んで、母が一瞬目を離した時、Aliceが直前に気づいて知らせようと騒いだもののMaxはベランダの高いところから転落して亡くなってしまう。いつも一緒だった親友のMaxが亡くなって混乱するAliceの息子のTheo。

悲嘆にくれるCelineはAliceと距離を置くようになり、抱えられるようにどこかに連れられていなくなって暫くして戻ってきて、なんとか昔のように仲直りしたかに見えたのだが、前よりもTheoのことを気にかけてずっと傍らにいるようになったり、Aliceの家に同居していた義母が心臓の病で亡くなったり、定期的に薬を飲んでいた彼女の死を不審に思ったAliceはCelineの挙動に疑いをもって追い始めたり、Celineの家でTheoがピーナツアレルギーで倒れて病院に運び込まれたり、これもCelineがわざとやったのではないか、と思うようになったり、だんだん視野が狭まっていく。

とても愛していた一人息子を失った喪失感が母たちの思いや振るまいをどんなふうに狂わせていくのかを追っていく、というよりはCelineが悲しんでいるのはわかるし、友人としてなんとかしてあげたいけどどうすることもできないAliceの目で見て、ふたりの間に起こっていく不審な出来事や、Theoに彼女が何かしたりしないか・企んでいないか、という懸念などが具体的な恐怖としてどう立ちあがっていくのか、を中心に描くサスペンス(少しホラー)になっている。のと、反対側に立つAliceのTheoに対するやや過剰ともとれる防御姿勢もどこかで一線を越えたりしないか、というスリルもあり、後半は証拠を探してAliceがCelineの家に忍びこんだり、互いに猜疑心の塊りになって動けなくなっていく金縛りの、エモのジェットコースターのこわさ。(引っ越すか旅行に出るかしようよー、ってずっと)

そして、これはわざとなのだろうが、彼女たちと比べて父親たちの影の薄く頼りないこと – ほぼなにもしないで、自分の都合と機嫌でぶちきれて感情的に突っかかる程度で、真面目なよい人たちぽいけど、それだけ - になっちゃうか、あのふたりの前では。母たちの方がよほど理知的に全体を見ようとしているというー。

Anne HathawayもJessica Chastainも、過去作のなかではおとなしく耐えたり従ったり、というのとはぜんぜんちがう、ざけんじゃねえよ、って一度キレたらものすごく怖くて行くところまで行く(行ける)女性たちを演じてきたと思うのだが、その二人が正面からぶつかって大喧嘩したら.. というところまでは行っていなくて、え、そんな程度で終わっちゃうの? になったのは残念だったかも。飛び道具とかワイヤーアクションまでは求めないけど、向かい合って会話するだけであれだけのテンションをあげられるふたりなんだから、なんかもったいないー。

Theoがどんな大人に成長するのかが楽しみだわ..

あんま関係ないけど、ふたりのお洋服の配色とかセンスはさすがとしか言う他なく、これもMother’s Instinct的ななにかなのか、とか。


少し前に回転ガラス扉に激突して目の上を流血したのに続き、歩道の手前で躓いて転んで膝小僧をきった。もうどうしようもなくダメな老人になってしまった。 次はきっと階段から落ちるか、車にぶつかるかだと思うんー

4.14.2024

[theatre] Plaza Suite

4月1日、月曜日の晩、連休の最後にSavoy theatreで見ました。
この日は、パンダ → 怪獣 → Sarah Jessicaという流れ。

わたしは『フェリスはある朝突然に』を1987年の封切初日に(たしかシネセゾン渋谷で)見て、あまりに楽しかったのでそのまま2回続けて見た(昔はそういうことができた)ものであるし、1998年、”Sex and the City”がHBOでエアされた時にも見て、これはすごいのが始まったわ、ってなったし、Matthew BroderickとSarah Jessica Parkerのふたりが結婚したときもそれはそうでしょうとも! だったし、ある世代の人々にとっては彼らの共演舞台は夢のようなもので、どれだけ酷評されていたって、チケット代が高くたって(高いわ)行くしかないやつだったの。

Matthew Broderickは2019年、Kenneth Lonerganの”The Starry Messenger”の舞台とBFIでの “You Can Count on Me” (2000)の上映があった際のトークでお姿を見たことはあったのだが、Sarah Jessica Parkerははじめて、彼女にとっては初めてのWest Endの舞台となるそう。

原作は1968年に書かれたNeil Simonの戯曲 - ブロードウェイの初演時、演出Mike Nichols, 主演はGeorge C. ScottとMaureen Stapletonだったって。演出はJohn Benjamin Hickeyによる3幕もの。

どの幕も1968年から69年にかけてのNew YorkのThe Plaza Hotel、少しづつ季節が異なる719号室に滞在する目的とどこから来たのか、がそれぞれ異なる1組のカップルのやりとりが中心で、彼ら意外の登場人物はホテルマンなどの3人だけ、ほんの少し。

1幕目が“Visitor from Mamaroneck” - 冬の午後。最初にSarah Jessicaが現れて(それだけで客席がわぁーってなる)、ホテルマンとのやりとりで、ここは本当に719号室? って何度も確認して、20年前に結婚式をあげたこの日、その晩にここに泊まったのよ! ってはしゃぎまくって嬉しそうで(彼女が足をばたばたさせるだけでたまんなくなるのはなぜ?)、でもやがて入ってきたややかっちり堅物ふうの夫のMatthew Broderickは仕事のことで頭がいっぱいらしく彼女の相手も適当に流してばかり、仕事のやり残しがあるのでオフィスに行かねば、とか手続きで秘書を部屋に呼びつけたりで、やがてSarah Jessicaは水面下の夫の浮気に勘づいて…

アニバーサリーの華やぎが会話の進行やちゃんと聞いていなかったりのすれ違いと共にじわじわ萎れて失望に変わっていく悲劇 - とまでは行かない暗い雲のうねりがうまく表現されていて、地味だけど3つの中では一番おもしろかったかも。

2幕目は“Visitor from Hollywood” - 春の午後、ハリウッドの有名プロデューサーをしているMatthewの滞在する719号室に同窓生だったSarah Jessicaが訪ねてくる、という設定で、今度は先に部屋にいるMatthew がぎんぎらセレブの格好と挙動で彼女を迎え、彼女は彼女で、こんな有名な彼と今晩この先ひょっとしちゃったりしたらどうしましょう! って舞いあがってくるくるおかしくなっていくのだが、Matthewの腰の動き(&メガネ)って誰がどうみてもAustin Powersのそれで、怪しすぎて変すぎて話に集中できなくなってしまう。これさえなければあの後どうなったのか、もう少し考える雰囲気になったかも。

3幕目は“Visitor from Forest Hills” - 初夏の午後、ひとり娘の結婚式当日、新郎やゲストを階下に待たせ、ドレスを着た状態で719号室のトイレに鍵をかけて籠城してしまった娘を親であるふたりが互いにあんたのせいよ、って罵って、娘をなだめたりあやしたり、いろんな汗まみれになりながら出ておいでー、ってやるのだが、娘からは何の反応も返ってこないので、つまりこういうことに違いない、ってそれぞれが勝手に憶測の翼を広げて、結果的にふたりの結婚観、夫婦観(の違い)を露わにしていくの。ピンポンのようなやりとりはおもしろいけど結末はだいたい見えているこてこての喜劇なので… まあしょうがないか。

クラシックなホテルを舞台にしたNeil Simonの60’sクラシックだからとは言え、新しい要素などはカケラもなく、これでいいの? にはちょっとなるかも。 Ivo van Hoveにでも演出させてみればよかったのに(やらないか..)。

ふたりが演じた良くも悪くも凝り固まってがちがちの男女をFerris BuellerやCarrie Bradshawだったらどんなふうに見たり評したりしたかしら? など考えてしまう or ということを思い起こさせるために仕掛けた、とか?

帰り、出入口のようなところに人々が溜まっていたので少し待ってみることにした。15分くらいして現れたふたりは疲れも見せずに丁寧にサインしたり話したりしてて、あああのふたりだわ、って改めて噛みしめて帰ったの(サインはまた次回に)。

4.13.2024

[film] Godzilla x Kong: The New Empire (2024)

4月1日の月曜日、Easterの四連休の最後の日のごご、BFI IMAXで見ました。
3Dと2Dの2種類が上映回によって分かれているのだが2Dの方でいいや、にした。3Dでも天地がころころひっくり返ったりおもしろいかも。

お話し、設定は”Godzilla vs Kong” (2021)から繋がっているが人間の登場人物たちは繋がっていない。どんな怪獣が出てきてどんなことをするのかなど、知りたくない人はここから先は読まない方がー。

たぶんもういろんな人が指摘していることだとは思うけど、タイトルの怪獣の間にあった”vs”が”x”になっていて、メインのビジュアルはゴジラとコングが並んでこちらに向かって走ってくる、そういう絵になっていて、これでいいのか? と。怪獣たちが、①向かい合って取っ組み合うのではなく、手は繋いでいないけど一緒にこちらを向いて、②走ってくる。かつてあったゾンビが走るのはありなのか、の議論と同じく、これで、こういうことでよいのか? という原理原則的な問いがまずはくる。

昭和の東宝ゴジラが怪獣同士で手を組んで共通の敵を一緒にやっつける、ということをやりだした途端 - ゴジラがみんなのヒーローみたいになった途端につまんなくなってしまった過去をありありと思い起こさせる。これがなんでつまんなくなるかというと、制御・予測不能であるはずのモンスター(だからモンスター)が人類の味方であるかのような動きをする、それに対して識者(だいたい政府系の御用学者)がその理由 - 宇宙からやってきた外敵から守るという本能だ、など - をもっともらしく説明してきたり、こうしてモンスターはモンスターでもなんでもない、無害なでっかい着ぐるみを被ったキャラ、でしかなくなってしまうからなの。我々の想定通りに動いて火を噴いたりしてくれる怪獣、そんなのを見て何が楽しいのだろう? 特撮? 確かに今回のはピンク色などが多用されててカラフルで楽しいかも。

なので、今回のゴジラはローマのコロッセオを巣にして寝転がったり、コングは地底のホロウアースで虫歯に悩んで人間界で治療してもらったり寂しそうにうろうろしていると、ホロウアースの奥地で、見るからに悪そうなやくざ大猿に支配されている大猿の国を見つけて、その猿帝国が魔法の石を巡って盛りあがって蜂起するのと、そこには人類もすこしだけいてその末裔の少女が地上界にいる… などなど。(大猿の国の野蛮さときたら昔の東映映画なみの)

人間側は怪獣を研究している理知的な科学者のRebecca Hallと彼女が養子にしている孤独な少女(もちろん彼女が救世の鍵となる)と、かっこつけてて無鉄砲で何でも調達屋のDan Stevensと、笑わせ担当お調子者のブロガーBrian Tyree Henryと、もう絵に描いたようにかつてどっかで見た怪獣ものの定型類型をなぞっていて、これこそが僕らの! って喜ぶ人たちもいるのだろう... かね。

ゴジラはGuardian of natureでキング・コングはProtector of humanityという説明があって、まあ仮にそうだとしても巨大な連中が好き放題に暴れまくるおかげでおそらく沢山の人々が亡くなっていて、そこはnatureだのhumanityの名において許しておけ、って。結局”New Empire”なんて言っても強くてでっかいのがのさばって民は潰される – ロクなもんじゃないのね、と。

あと、どうでもいいかもしれないけど、怪獣のデザインがあんましよくない。ぜんぜん恐くないし残らない。あれじゃJurassic Park(まあそうなのだろう。環境的にも)だし、あのモスラはあまりに蟲すぎるし(モスラって妖精じゃないの?)。


Kung Fu Panda 4 (2024)

4月1日、月曜日の昼間、ゴジラの前にCurzon Aldgateで見ました。
前日の晩にマルセイユから帰ってきて、連休の最後の日、目を覚ますのによさそうなやつを、って。

パンダは好きだけど、このアニメーションは何がおもしろいんだろ? と昔は思っていて、でも2とか3を飛行機で見たら結構おもしろかった記憶があり、これが興行収入で”Dune: Part Two”を抜いたのってなんか痛快じゃない? どっちもいろんな生物とか魔法が出てくる弱肉強食の世界だし。

今回、Po (Jack Black)は相変わらずなのだが、老師からDragon Warriorはもう卒業して次の位に昇るべし、って言われて、えー、ってなり、すばしこいキツネのZhen (Awkwafina)と出会い、悪い魔術師のChameleon (Viola Davis)が現れてPoの過去の宿敵(?)たちを呼びよせてそのエネルギーを吸い取って世界を支配しようとする、っていうお話し。

カンフー映画なんだから(ちがうの?)、魔術師なんか出しちゃったらだめでしょ – ていうかカメレオンなら素で十分カンフーできるし、おもしろくなるのに - と思ったが師弟のありようとか償いとか、そのあたりの倫理系はわかりやすく筋が通っていてよいと思った。

しかしこのシリーズ、このままでいくとPoの一生を描くだけになりそうなのが少し心配になった。カンフーは強いけど、それだけでずっと独りぽっちで老師みたいになって消えるのか。歳を重ねてもあの調子で子供っぽく無邪気でうるさいばかりなのか。 それかすべては動物園で飼われていたパンダの夢でした、になるとか。

エンドロールでTenacious Dによる"...Baby One More Time"が大音量でがんがん流れて、これは気持ちよかった。

4.12.2024

[film] Kim’s Video (2023)

4月7日、日曜日の昼、夕方のロンドンに戻る便に乗る前に、Quad Cinemaで見ました。

監督はDavid RedmonとAshley Sabinのふたりで、David Redmonがカメラを抱えてナレーションもしていくドキュメンタリー。

90年代にNYのイーストヴィレッジにできて、ビデオのレンタルと小売り、あとレコードやCDも売っていて、2014年に閉店したカルト/マニア向けのお店で、St Marks pl.の本店の他にBleecker stにも”Kim's Underground”ていうのがあって、”Underground”の方はレコード等を買いによく通った。底なしの穴倉のように暗くてごちゃごちゃ怪しく、なにもかも見つけにくいのだが、実験音楽やプログレも含めて英国盤や欧州盤を入手できるレコ屋は珍しくて - 価格は決して安くない - で、The Magnetic Fieldsなんかも確かここで出会ったのではなかったか。映画のVHSなどは、90年代はそんなに映画を追っていたわけではなかったし、レンタルしたのって返しにいくのが面倒だし、『神の道化師、フランチェスコ』のブートレッグみたいなVHSを買ったくらい(まだ自宅にあるはず)。

で、ドキュメンタリー映画になった”Other Music” (2019)のあのお店もKim’sにいた店員らが立ちあげた、と聞いたので、Kim’sはその親玉みたいなもの – だからそのドキュメンタリーはあのお店がどんなふうにできあがって、あのコレクションとか品揃えは誰がどこからどう持ってきたのかとか、或いは”Other Music”のようにあの場所に入り浸っていた人たちにとって、どんな意味のあるお店だったのかを聞いたり語ったりしていくようなやつだと思っていた。 ら、ぜーんぜん、ものすごくちがった。階段を6段くらい踏み外したかんじ。

まずは街角のひとにKim’s Videoを知っているか? って認知度を聞いたりしてどんなお店だったのか、の簡単な概要を説明してから、閉店した後に店にあったビデオたちがどうなったのか? を追って話は突然イタリアのSalemiに飛ぶ。現地を襲った震災からの復興を目的とした観光資源のひとつとすべくお店のコレクションを町に寄贈したのだ、って。

で、カメラを抱えて現地に飛んでみると、ビデオたちは段ボールに入れられ積まれたまま倉庫で雨ざらしのひどい状態になっていて、その場の誰に聞いても責任者がわからないので、警察とか市長にまで話がとんで、追求があまりにしつこいのでやばい人たちも出てきそうになって、最終的にはビデオたちを救え! って深夜の強盗に近いようなところまで転がっていく。監督本人が楽しそうにナレーションしているので、どこまで本当なのか、仕込みじゃないのか、みたいな気がしてくる。

Kim’sが特徴的にコレクションしていたカルトで変てこな犯罪映画みたいなノリの話が寂れた裏町で – というより陽が降り注ぐ言葉も通じないイタリアの田舎町で起こる - 店の名前は”Kim’s Upland”だし。本当のところは… なんて大多数の人にはどうでもよい話なので、まあどうでもいいか、になっちゃうところも含めてー。

途中で今は普通のビジネスマンになっている(たぶん)Kim氏本人も登場するのだが、これだってひょっとしたら… かも知れず、他方でKim’s Videoは通い詰める、というほどではなかったにせよ、間違いなく存在したので、そういう謎と真実の間のどこかに大量のVHS – 必要としている人はそんなにはいない - が積まれていて、発見されるのを待っている、のだろうか…? 相当いろんなものが「プラットフォーム」上にあると思われる今、VHSでしか見れない(ので救われなければならぬ)ものって、どれくらいあるのだろう? フィルムを残そう! はなんとなくわかるのだけど。

最後、米国に戻ってきたコレクションはAlamo Drafthouseにまるごと買い取られた、と。この映画のDistributorがDrafthouseなので更に怪しいかんじがめらめら湧きあがってくるのだが、こういうのは破棄されるよりは残された方がよいに決まっている派、なのでとりあえずはよかった、にしておく。ぜんぶ冗談でしたー、でも怒らない。


映画の後はUnion Squareの辺りを少し歩いた。みんなどこかで配られたチューリップを抱えていて羨ましかった。

NYでの残りのは、このあとだらだら書いていきます。

4.11.2024

[film] The Greatest Hits (2024)

4月6日、土曜日の晩、Times Squareのシネコン – AMC25で見ました。

The Magnetic Fieldsのライブが終わったのが22:22くらいで、映画の開始は22:30で、映画館は歩いて5分くらいのところなのでぜんぜん余裕。土曜日晩のTimes Squareのど真ん中、久々に歩いたけどぎんぎらすごいねえ。

少しライブの余韻などに浸ったほうが… というのはもっともなのだが、そもそもそんな時間があったらなあ、だし最後の晩だし、見れるものを見れるときに見ていくしかないの。

作・監督は”The Disappearance of Eleanor Rigby” (2014)のNed Benson、先月のSXSWでプレミアされて、12日からHuluで配信される前の先行上映。Rom-comではないようだったが音楽(SF?)映画みたいだから、くらい。
アメリカのシネコンの、うざいCMなしで予告だけをがんがん流していくの、いいよねえ。

近しい人を亡くした人たちのセラピーセッションに出てもぼーっとしてしまうHarriet (Lucy Boynton)は恋人のMax (David Corenswet)を同乗していた車の事故で失って、いまだにその喪失感から立ち直れない状態なのだが、自宅に戻るとレコードをかけて、実験のようなことをしている。

ある曲(or レコード)をプレイヤーでかけてヘッドフォンで没入すると、その曲をMaxと一緒に聞いていた幸せだった場所と時間にスリップして、その時の自分に乗りうつれることを発見して、片っ端からレコード棚のレコードをかけて聴いて、「テスト済」とか「失敗」とかせっせと仕分けをしている。

それで何をしたいかというと、Maxと出会ったところ – 野外のフェスで踊っている時にMaxが寄ってきて誘われた - まで時を遡って、彼と会わなかったし誘いにものらなかったことにすれば、彼は事故で死ななくてもすむはずだから、というもの。

曲が体に入ってくると自動で過去にスリップしてしまうので、外出先ではヘッドフォンをして外の音を聞かないようにするし、勤め先は静かな図書館にしているし、彼女があまりにそれに真剣に没入してばかりなので友人たちは心配し始めている。

そんな時、セラピーセッションの場でDavid (Justin H. Min)と出会って、彼女も少しづつ変わり始めるのだが…

えーと(いろいろ言いたいことはある)。
音楽と記憶はものすごくきっちり絡みあうもので、ここにあるようにある曲がどこか別の場所に連れていってくれる、というのはよくわかる。だから音楽をいつでもどこでもずっと聴いてきたのだし、でもだからといって音楽をそのための乗り物みたいな道具にしちゃうのはどうか、っていつも思うのよ。はっぱ吸ってトリップしている人とか見ても。音楽にはそういうパワーがある、というのとそれを使ってなんか別の(例えば)快楽にひたる、は別にしたいな、って。 (注:政治的なメッセージや抗議に使うのはよいの。音楽、というより、アートはそもそもそういうものだから)

あと、HarrietがなんでそんなにMaxに死んでほしくないのか、Maxのどこがそんなに魅力的なのか、思い出の中でもう少しきちんと描かれていたら、そうだねえ、って泣きたくなるのに。それに彼が本当に素敵な人だったら自分と一緒にいた記憶をずっと抱きしめていたい、とも思うのではないかしら? でもHarrietは自分と会わなかったことにしたい – そこから始まる彼との思い出も(彼が連れてきたであろう友人らとの出会いも)全て無くなっちゃって、無かったことにしてよい、と。ここから、ひょっとしたらMaxは優しいときは最高だけどDVの傾向もあってHarrietは嫌になりかけていたのではないか、とか思ってしまったり。

新しく登場したDavidにしても、どうして彼ならよいと言えるのか、また同じことになってしまうのでは? – など、考えてもしょうがないことだとは言え。

”The Disappearance of Eleanor Rigby”でも”Her”, “Him”, “They”の3つのバージョンを用意して、はじめから整合しているとは思えない「ラブストーリー」(のようなもの)を作っていたので、この監督のひねくれた志向なのかもしれない。この設定だけ使って、どたばたコメディにしてしまった方がおもしろくなったのでは、とか。

音楽はいろんなのが流れるのだが、そんなに”The Greatest Hits”ぽいゴージャスなかんじがしないのは残念かも – これも狙ったのか? 最後の方で唐突にでてくるRoxy Musicのライブ、あれは一体なんなのか。

Lucy Boyntonはもちろんよいのだが、David役のJustin H. Minの透明なかんじがまた素敵で、彼、”After Yang”(2021)のYangだったのね - Davidって、その中身はYangだったのでは..?


映画が終わったら0時を回っていて、地下鉄のホームに人がぐっちゃりいて、ぜんぜん電車こなくて、ああこのかんじ.. ロンドンのとはまた違って懐かしいったら。そしてホテルに着いたら丁度SNLが終わるところで、これもまた既視感たっぷりので、あーあ、って…

4.09.2024

[music] The Magnetic Fields

4月5日の金曜日と6日の土曜日の二日間の晩、Town Hallで見ました。これのために大西洋を渡った。

BAMと同様、Town Hallも懐かしい場所。最後にここに来たのは2013年のLiza MinneliとAlan Cummingのショーだったかも。

前世紀末のマスターピース(感はゼロだけど)“69 Love Songs” (1999)の全曲披露公演、Day1で35曲めまでを、Day2で残りの34曲を順番通りに演奏していく(だけ)。前座はなし、途中20分の休憩が入り、アンコールもなし、だいたい22:30少し前に終わる。

このサイトにきて日本語でこういうのを読むひとのなかに”69 Love Songs”が熱狂的に好きでそのために飛行機に乗るようなばかはそんなにいないと思うので、少しだけいうと、ここには幸せに浸れるような愛とか希望の歌は殆どなくて、だいたいがバーで酔っぱらった負け男がひとりぶつぶつぐちぐち吐き続ける失望とか呪いとか恨みとか卑下とかそんなのをCharles IvesとかStephen Sondheimとかが書いてきたようなアメリカのしなびたメロディー艶歌・哀歌に乗っけておもしろおかしく歌うだけ、ほんとにただそれだけなので今の若者がこれらを聞いても「きもい」で終わりだと思うのだが、こっちはこっちで、ほっとけ、って飛行機にのる - 例えばこんなすれ違いにもならないようなしみったれた境遇についての歌とか、とにかく健康的でなく生産的でもないやつはぜーんぶここの虫かご(or 箱)に入っている、はず。

そしてこんな曲たちにとって、25年とは一体どんな時間であり歳月でありえたのか? - 若返るわけがないので全員が等しく老いてボケて、もちろん、バカは死ななきゃ でも 死んでも でも、どっちにしても客たちにしてみればこの場所にたどり着ける程度には生き延びることができてよかったね、くらいしか出てこないし言ってくれないし。 ところでリリース時に生まれていなかったやつは?(ってClaudiaが客席に聞いてた)

わたしが最初に彼らのライブを見たのは”i” (2004)のとき、カーネギーホール内の小さいとこで、その時はClaudia GonsonとStephin Merrittの掛け合いが最高におもしろくて、その後の彼らのライブにClaudiaは出てこなくなったので、今回の再登場はとてもうれしい。漫談コーナーはあまりなかったけど。

ステージ上にいるのは7名 - レコーディングに参加したSam DavolもJohn WooもShirley Simmsもいて、袖にはDudley Kludtがいて、曲によって歩いてきてマイクを握る。

Stephin Merrittはステージの右端で、高い椅子に座って楽器も持たずにお腹を突きだして朗々と吠えるように歌うだけ - 二日目、一瞬だけハシゴに登ってClaudiaと掛け合いで歌ったり。

多くのひとがそうであるよね? と思うのだが3枚通してずっと聴く、というよりどちらかというと最初の方を聴きこんでばかり、そのうち別の用事が入ったりで時間がなくなって最後までたどり着けない、というのが多い気がして、だから客席のノリとしては初日の方が圧倒的によかったような。個人的にも最初のほうの”I Don't Want to Get Over You”から”The Book of Love”あたりまでの流れは本当に至福で、このパートだけでも十分に名盤入りだと思った。「レコードに入っている以上、やらないわけにはいかないのだ」と暗く不吉な表情でStephinが言った”Punk Love”もなんとかやっつけていた。

全体として25周年の祝祭感は微塵もなく、どちらかというと25年も経ってしまってどうするんだよ? ねえ? の徒労感や後悔や自嘲に溢れていて、これだよなー、しかない。他方でドラムマシーンやエレクトロを少しだけ、でも効果的に盛りこんだアンサンブルの繊細さ緻密さは揺るがず、ダメな人たち(曲の世界で、だよ)のシュールなミュージカル・レヴューとしてはすばらしい出来だったのではないか。何度もよく見る夢のなかをだらだら彷徨って抜けられなくなっていく感覚、というか。このままずるずる40年でも50年でもいったれ。

物販は入ったとき(開始30分前)にすさまじい行列ができててこりゃだめかー、と諦めたのだが、休憩時間にダメもとでいいや、って並んだらサイン入りのポスター2枚(Day1とDay2で別)をどうにか買うことができて、丸めたのを無傷で英国に持ちこむことに成功した。問題はこの丸まったのを額装できるかどうか、だな -(日本にはまだ丸まったままのいろんなのが20-30枚くらいある)。

4月9日(今日、今晩)、NYのFilm Forumではこの25周年を記念して彼らのドキュメンタリーフィルム” Strange Powers: Stephin Merritt and The Magnetic Fields” (2010)が上映されて、StephinとClaudiaがトークのゲストとして登場する。一回だけ。見にいける人いいなー。

次はロンドンだ。それまで生きていられますようにー。

4.08.2024

[music] Caetano Veloso

Easterの連休があけて、2日しか経っていないのに3泊(+機中1泊)でNew Yorkに行ってきて、朝に戻ってきた。

そもそもは、The Magnetic Fieldsの”69 Love Songs”(1999)の25周年記念の全曲通し公演が2日間にわけてある、という話から。そもそも、2002年のAlice Tully Hallで全曲を通してやったときの公演を逃したのをいまだに(20年以上経っているのにね)強くねちねちネに持って抱えていて、これは行かねば、と。告知があってチケットが出たのが昨年の7月頃、その時に英国に行くことはもう決まっていたと思うのだが、うるせー(距離的に近いじゃないか)、って取った。(で、こっちに来てから、同じのがツアーで英国にも来ることを聞いて泣いた – さらに近くなったよ)

で、ライブが金土だったので、金曜日だけ会社を休んで月曜の朝に戻ってくることにして、NYの宿も取って飛行機も取ってから暫くたってから、4月4日の木曜の晩にBrooklyn Academy of MusicでCaetanoの公演がある – しかも最後のUSツアーになるかも、とかいうのでばたばたとチケットを取り、ホテルを足して飛行機も変えた。英国に来て3ヶ月がんばっ(てないけど)た、記念でいいや、と。

こういうのについては、「しょうがない」ばっかり言っていて、見逃すのだって「しょうがない」カテゴリーに入るわけだが、きつくても見れる状態がそこにあるのであれば、そっちを取りにいくようにしよう、と思うことにしたの。こういうバカなことをできるのは体が動ける今のうちだけだしー。(今とは)

Caetano Velosoは1990年の初来日 - ”Estrangeiro” (1989)のツアーのときに地の果てにぶっ飛ばされて以降、ブラジル音楽を追うようになり、サンパウロの中古レコード屋の床を這ったりカーニバルの時期のリオにもバイーアにも行ったり、そういうことをさせやがった人で、ライブはNYにいた頃にソロもGilberto Gilと一緒のも、David Byrneと一緒のも、Tom Jobim追悼でJoão Gilbertoと並んでいるのも、いっぱい見てきたし、これが本当に最後になってしまうのであれば(あまり信じていないけど)、やはり見に行かねばならぬ、と。

しかも場所がBAMときたもんだ。年一回のNext Wave Festivalの拠点としてPina BauschからRobert WilsonからComédie-FrançaiseからLou Reedまで、知ってたのも知らないの(が圧倒的に多かった)も相当見て、チケットを買う都度、請われるままに寄付をしていたので、90年代のどこかの1年間、BAMのプログラムの終わりに自分の名前が載るところまでいった。あの頃はまだ治安がよくなくて地下鉄には乗れずにBAMbusっていうバスでマンハッタンとの間を往復して通っていた(片道$5)。マンハッタンへの帰路、このバスが橋を渡るときに見えるツインタワーの姿が大好きで.. など思いだしただけで泣きたくなるの。

というわけで久々のBAMの大きなホール、トイレからなにから、なんも変わっていなかった。
さてCaetano Veloso、3/3〜4の二日間公演の後半。前座も休憩もなしの1時間半。

新譜の”Meu Coco”のリリースにあわせたもので、バンドはステージ左手にギター、ベース、キーボードの3人、プラスチック板で仕切られた右手にパーカッション3人。Caetanoはギターを抱えたり、直立不動だったり、軽くサンバのステップを踏んだり。こないだのRoger Daltreyより2つも若い81歳なので、それはそれは安定している(誰比?)。

とにかく、あの声 – 震えるぎりぎり手前で内と外との境い目を維持しながら冷たい水の重さと孤独を湛えてそこにあり、ハーモニーをつくらない、いらない。その声が伸びていくところにできる空気のうねりと震えが世界のぜんぶ、それだけで音楽なので、バックはシンプルな太鼓でもギター1本でも十分だし、なくてもよいし、めちゃくちゃやかましいアバンギャルドでも負けずに賄えてしまう - という発見と探求を続けた60年近くだったのだな、というのがよくわかる舞台だった。(これと同じことをやっているのがBjörkだとおもう)

ステージ左手のちょっとウェットで、よくしなる弦たちが彼の単一の声に絡まったり絡まなかったりしたかと思うと、そのツタのうねうねを時として工事現場の喧騒 - と言ったら失礼か、めちゃくちゃかっこよい - を叩きだすパーカッションが粉々に粉砕したり押しつぶしたり、それでも最後に残って光を放つのは彼の声、でしかないというマジックの見納めになってしまうのか。

後半は過去作から満遍なく選ばれたベストで、”Trilhos urbanos”もやるし”O leãozinho”(小ライオンさん)はもちろんだし、最後は”Odara” 〜 ”A luz de tieta”であがりまくり、客席の方はわーわーそれぞれの声で気持ちよさげに歌っていて、それでもやかましく歌を邪魔するものにはちっともならない不思議。

イタリア映画が本当に好きで好きで、と言ってから始めた“Michelangelo Antonioni”。映画にマトを絞ったインタビューとか、あるのかしら? あったら読みたい。

他のも忘れないうちに早めに書かないとー。


4.03.2024

[film] Baltimore (2023)

3月23日、土曜日の晩、CurzonのMayfairで見ました。
タイトルのBaltimoreはアメリカのではなく、アイルランドの南、コークにある村の名前。アメリカでの公開タイトルは”Rose's War”だったそう。

監督はJoe LawlorとChristine Molloyの共同で、1974年に実際に起こった絵画の盗難事件とその中心にいたRose Dugdale (1941-2024 – ついこの間、3/18に亡くなっている)の姿を描いている。90分と長くないのだが、すばらしく濃く詰められた時間がある。

冒頭、Rose Dugdale (Imogen Poots)はお屋敷の床に倒れていて、布を巻いた手は血まみれで、でも立ちあがって屋敷にいた仲間と思われる男たちと共に絵画を運び出そうとする。

でっかいお屋敷 - Russborough Houseに押し入ってそこにいた家族を縛ったり殴ったりして、仲間に運び出す絵画の指示をして、という荒れた犯行の現場と並行して、お嬢様だった頃の家族でのキツネ狩りの記憶、オックスフォードで学生運動に参加しながら英国の貴族のお嬢様としてデビュタントへの参加も求められたりしつつ、学生運動の方はやがてIRAの闘争に繋がって今はそこに彼もいるらしい。

襲撃事件にありがちな自分の身元がばれそうになった時、そこにいた人~人質とか隠れ家の宿の主人とか、痕跡を覚られたり騒がれたりした時にその相手を殺すべきかどうか、Roseにそれをやる覚悟と度胸があるのか、が常に問われて、その都度クローズアップになったり振り返ってこちらを見つめるRoseの表情にはキツネ狩りで傷ついたキツネや他の子よりは大切に育てられてきたであろう過去が浮かんで、でもその反対側で組織と使命と革命にはコミットして燃えているので、やっちゃえ.. でもどうする.. ってこんがらがっていく複雑さがすばらしい。タイトルの”Baltimore”は、彼女が他のIRAメンバーと落ち合うことになっているアイルランドの約束の地、なの。

押し入ったお屋敷で主人とその妻は縛られて転がされ、Roseは怯えている小学生くらいの坊やの相手をしつつ、でも騒いだら殺せ、と言われているので自分はこんな子供を殺せるのか、というのと、仲間からはびびっているように見えないか、の方も彼女をひきつらせて凍らせる。

お屋敷を出て車で行った先の小さなコテージでは、盗ってきた絵画19点が並べられ、そのなかにはルーベンスやゴヤやフェルメールの「手紙を書く婦人と召使」(1670-1671)があったりして、絵画の来歴や価値についてすらすら語るRoseはお嬢さまだねえ、なのだが、その知識をもって電話がある村の雑貨屋にいってアイルランドのNational Galleryに対して絵画の身代金の交渉にはいる。その会話でちょっとしたフランス語アクセントに気づかれてしまったり、目の不自由な宿屋の主人を殺して掘った穴に埋めて出ていくことはできるのかとか、犯罪の成り行きや成否よりも、彼女のなかの何が踏みとどまらせたり、悩ませたり、前に進めたりするのか、が時間の経過と共に、映しだされる過去の思い出のなかに現れては消えていく、そのとても犯罪映画とは思えない静けさと、フェルメールの絵画が置かれた室内で、フェルメールのと同じ構図で人が動いていたり、おもしろい。その静けさのなかで被害者ではなく、加害者側にいる女性がずっと悲鳴をあげている、と。

貴族のお嬢様が過激派テロリストに! というコメディになってもおかしくない設定をImogen Pootsは極めて真面目に真摯に - 本当に起こったこと(本当に起こったし)として演じていて、彼女のずっと見開かれた目を見るだけでも、の必見のやつ。


Easterの四連休が終わったばかりなのだが、明日からまた別の四連休にはいります。 昨年、まだ日本にいた時に取っちゃったやつなので、しょうがない(しょうがなくない)。

4.02.2024

[film] Radical Wolfe (2023)

3月23日、土曜日の夕方、Curzon BloomsburyのDocHouseで見ました。
ニュー・ジャーナリズムの旗手として知られるTom Wolfe (1930-2018)の評伝ドキュメンタリー。

映画化された“Moneyball” (2003)や”The Big Short” (2010)の作者としても知られるMichael Lewisが2015年にVanity Fair誌に発表した記事”How Tom Wolfe Became … Tom Wolfe”(Webで読める)をベースにMichael Lewis本人やTom Wolfeの家族(娘さん)も登場して、WolfeがどうやってWolfeになっていったのか、どんな人だったのか、等について主要著作 – 主に初期のドキュメンタリータッチのもの、後期の小説は軽めに – を紹介しつつ追っていく。Tom Wolfe自身の声はJon Hammがあてている(すごく巧い)。

全体としておしゃれでかっこいい(かっこよかった、誰もがかっこいいと言う)Tom Wolfe – Michael Lewisももろにそういうかんじだし - を肯定的に捉えて、彼のファッションも含めたああいう語り口が当時の言論やジャーナリズムにどんな影響を与えて、それはいまのとどんな形で遺ったりしているのか、というところまで行けばよかったのだが、そこまでは広がらず、あくまでTom Wolfeの主要著作の紹介(とその同時代への影響を少し)に留まってしまったのは少し残念だったかも。彼のなにがどうして”Radical”だったのか、最後まであんまわからなかったような。

大学に通いながらマサチューセッツの新聞社に勤めて、その後Washington Post等にも記事を書いたりしながら、新聞社がストをやっていた時に取材した西海岸のホットロッド、カスタムカーの人と文化についての記事 - "There Goes (Varoom! Varoom!) That Kandy-KoloredTangerine-Flake Streamline Baby" (1963)をEsquire誌に発表して、これが当たって評判になって、ライターとしていろいろ書いていくことになる。

ニュー・ジャーナリズムという切り口だとTom Wolfeといろいろ対照的なHunter S. Thompsonとの違いについてはあれこれ言及されたり、Gay Taleseがコメントしたりする程度、Joan Didionも申し訳程度しか出てこないのはなんかー。

誰もが知っている気がする題材を取りあげて、掘りさげる角度や深度が新しげなので読み物としてまずおもしろくてへーってなり、ちょっとだけセンセーショナルなネタもあって、読後はなんだかためになって自分が賢くなった気がする、というのが自分にとってのニュー・ジャーナリズム(読み物)で、それならその分野の研究書とか難しめの小説とか読んだ方が、だった。いやいやそうじゃない、ここのところが当時としては画期的だったのだ – なぜかというとー、というのがあったら学びたかったのだけどー。

いまはそこ(方法論的な正しさ)に行く手前で、逆張りだの揚げ足取りだのいちゃもんがいくらでもあって触るとノイズにまみれてしまうし、ジャーナリズム自体がろくでもないとこに堕ちてしまっているので、そうじゃないやつ、となった時にあの時代のこれらはかえってストレートで新鮮でおもしろく読めるのかも、というのは少しだけ。読まないよりは読んだほうがいいのは言うまでもなくー。

あと、彼のファッション的なところも含めたテキストのありようって、はっきりと彼を推してくれる白人の共和党支持層のウケを狙ったもので、そういうのをやってそれなりに成功したケースとして珍重された、というのはあるんだろうなー。この辺を暴露、じゃなくて事実を並べて淡々と描いてくれてもおもしろくなっただろうにー。

あとね、監督もMichael Lewisも、Wolfeを今でいうインフルエンサーのようにしか見ていないところがある気がして、もっとWolfeの語り口とか展開のおもしろさそのものに着目して、だからこんなにもWolfeは! みんなWolfeを読もう! っいう方に向かわせてもよかったのでは、とか。 見たあとで特に読みたい! ってならなかったのはどうなのかー。

[film] The Persian Version (2023)

3月23日、土曜日の午後、CurzonのAldgateで見ました。 日本でももうじき公開される。 昨年のサンダンスで観客賞などを獲って、同年の東京国際映画祭でも上映された作品。

作・監督のMaryam Keshavarzが自分と自身の家族を題材にしたアメリカ映画で、冒頭に、”TRUE STORY - A Sort Of …” って出る。

イランから移民してきた家族の一員で、NYでインディペンデントで映画を撮っているLeila (Layla Mohammadi) はハロウィンパーティーの一夜のどんちゃん騒ぎでHedwigの舞台に出ていたアメリカ人の男優 (Tom Byrne)と寝ちゃって妊娠してしまう。それまで彼女には同性のパートナーがいて別れたばかりの不安定で自分でも何やってるの? のぐちゃぐちゃで、更には彼女の父のAli (Bijan Daneshmand) は心臓の病で倒れ、心臓移植のドナーが現れないと助かりそうになくて、親戚兄弟(8人兄妹におばあちゃん)が病院に一堂に集まってきてそんな騒がしい状態のなか、そういう状態だからこそか、自身の幼かった頃の記憶も絡めて、なんで一家がアメリカに来てこんなことになっているのか、母Shireen (Niousha Noor)やおばあちゃんに聞いてみる、と…

若い頃、将来を約束され希望に燃える若い医師だったAli (Shervin Alenabi) と、親の決めてきた結婚で一緒になったShireen (Kamand Shafieisabet) は、医師のいない砂漠地帯の開業医として赴任して慌しい日々を送り、じきに男の子が生まれ、次の子も身篭って、その間Aliはずっと忙しいまま家にいなくて … という話と、一家がNYに来たばかりの頃、お金がぜんぜんないし英語もわかんないしでShireenは不動産屋になるべく家事の傍ら猛勉強を始めて事業を成功させていく話があり、いまのLeilaにはもちろん自分のお腹のなかの子をどうするのか、どうしていくのか問題もあり、あれやこれや山積みの問題をせわしなく言いあったり怒鳴りあったり積みあげたりしながらどうにか渡っていく - これがペルシアン・バージョン - うちらのやり方で他にどんなバージョンがあるのか知らんが、ようく見とけ、って。

ずっと過去と現在の、父母と自分に起こったことをランダムに行ったり戻ったり繋いだり忙しなくて、これ、どこに持っていってどう決着つけるのだろう? … と思い始めた頃、最後の数分で唐突に天空から落っことしてくれて、ぶわっと一瞬で泣かされて、これかー、って。 あんなのずるいわ。

過去から続いているイランとアメリカの関係の難しさ、そこに起因した生き難さとか面倒さ、更にはイラン(だけではないが)でずっと続いている男系社会の理不尽が背後にあるのかも知れない、いや間違いなくあるのだが、それでも、そんなでもこんなふうにやれるんだ、やってます、という力強い花火になっていると思った。 Leilaもママもおばあちゃんも、みんな本当に素敵だ。(パパは割とどうでもよいらしく、心臓の件もどこに行ったんだか忘れられてしまう)

最初と最後に老若男女が勢揃いして盆踊りするCyndi Lauperの”Girls Just Want To Have Fun" (1983)の「これでいいのだ」満載の泣きたくなるようなすばらしさ。この曲を聞くたびCyndi Lauperにはノーベル平和賞をあげるべきだ、って強く思う。

このお話、これはこれでよいけど、でもやっぱり差別とかはだめだから。あたりまえに。いうまでもなく。

[log] Easter 2024

3月の最後の週末から4月頭にかけて4連休がある - そういえば - となったのは2月の頭くらいで、このままロンドンにいても映画見たりするだけでムダになくなってしまうだけなので、どこかに行こうと思った。

マドリードは日帰りしたばかりだしもうじきバルセロナもあるし、ならフランスかアイルランドかポルトガルか、となり、そういえば(.. ばっかし)、セザンヌのアトリエにいく、というBucket Listのがまだあった - と見てみるとこの週末の後は修繕のため長期間閉めます、とあって、土曜日のチケットはもうなくて、金曜日のをとりあえず1枚取ってしばらく置いておき、飛行機はマルセイユ往復になるので一泊をエクス・アン・プロヴァンス、一泊をマルセイユにして、それで満足してしまう(← タイプ、よくない)。

おうち/仕事場を訪ねる旅、結構好きでVirginia Woolf、Vanessa Bell、Wittgensteinなどがよかった。Derek Jarmanのにも行かねば。

29日、金曜日の朝7:10の便でヒースローを発って10時くらいにマルセイユに着いて、バスを乗り継いでエクス・アン・プロヴァンスのだいたい真ん中あたりに着いて、その古い町並とか建物の並びをぐるぐるしてわーとか楽しんでいるうちに予約していた15時に近づいたので歩いて向かった。緩やかながら割と陰険に攻めてくる上り坂で、ホテルの人がバスで行った方がいいよ、と言っていたのを思いだしたが既におそし。

ところでアトリエの前の通りの名前は、Avenue Paul Cézanne となってて、住所がそれってかっこいいなー。

アトリエの閲覧時間は一回30分で区切られていて、チケットはガイド付きのとそうでないのがあり、ガイド付きでない方にしたのだが、そんなに広くない同じひとつの部屋で時間帯も同じだと、ほぼガイド付きの状態となり、でもガイドと言ってもアトリエの中のものを端から全部説明するわけではなく、だいたい厚紙の説明書きにあるからそれ読んで好きに見て眺めて聞きたいことがあったら言って、で10分間もかからずに終わる。

でっかい窓があり、こないだThe Courtauld Galleryにあった古典 - “Still life with Plaster Cupid” (1895) - のキューピッド像のもとのとか、彼のいろんな絵画に出てきた気がする陶器に骸骨に… でもセザンヌにとってのこれら、はただそこにいるだけのモノたちでしかなく、その、そこにいる/あるだけの状態とはどういうものか、を光と一緒に考えたり問いかけたりするかのように彼は画布に向かっていたはずだ、というのを確かめるべく、そこから歩いて(上って)15分くらいのSainte-Victoireの山が見える場所 - 彼がその山を描きに通っていたもうひとつの部屋 - を目指して、ふだん体を一切動かしたりしていないのでへろへろになったのだが、上り坂のとこをいきなり左に折れてまたしばらく上って振り返ると、かの山は銭湯の絵みたいにでーんとあるのだった。

曇って雨が降ったりやんだり、という視野のどんよりもあったのかもしれないが丘の上と同じ目の高さ - の何キロ先かは知らんが - にあるそれは聳えたりそそり立ったりしているわけもなく、ただの岩の塊のようにしてそこにあり、それがまるでセザンヌの絵そのものみたいにそこにいたので「わぁ.. .. ..」というかんじだった。(海外の人がはじめて富士山をみたらあんななのかしらん?) あの山があんなふうにある/見えるのだとしたら、そりゃ何枚も描きたくなるだろうな、すごく不思議なかんじ、よく中国の古い絵にある岩山の、どこまで行っても辿り着けない異界のアウラがあるのだった。

帰りはバスで戻って近くのMusée Granet などを見てから部屋に戻って意識を失うかんじで寝てからご飯に行った。

以上がほぼメインのとこで、翌日は小さめの美術館をいくつか - いっぱいある - 見てからバスでマルセイユに移動した。マルセイユのメインはブイヤベースと(わたしはどちらかというと海の人なので)海を見ることで、ブイヤベースの前、波がたまにかかるくらいの岩場に座って日の入り迄の2時間くらい、ずっと海と雲をみていた。そうやって体が冷えた状態で戴いたブイヤベースはそれはそれはおいしくて、ブイヨンを3回おかわりしたらお腹がぱんぱんになり、帰りのバスはやばかった。

ブイヤベースは具のお魚(この日は5種類、ホウボウがいた)とお芋が別皿で出てきて、かりかりのにルイユとアリオリの塗りもの、これらをブイヨン(とお店の人は呼んでいた)の海に好きなように浮かべたり浸して戴くのだが、ブイヨンだけだとコンソメのように割とあっさりめなのに、浸す具材とその時間、時間によるブイヨンの温度変化などで絶妙にその風味を変えていくので終わりがない。おでんに近いのか、お茶漬けの主従を転倒させた版というか、潮汁のもったいぶった版というか、なんでこれをここにこう漬けるとこうなるのか? おもしろいったらなくて - だからぱんぱんになったのね。

それにしても、エクス・アン・プロヴァンスで見た土曜日のマーケット、いいなー しかなかった。葉っぱも魚もぴかぴかで、生活が豊かであるって、こういうのをいうんだよ。

マルセイユにきたらもうひとつ、生牡蠣も食べないとよね、だったのでお昼に1ダース戴いた。ムール貝も半ダース。牡蠣、あと20個はいけたかも。

あとは、エクス・アン・プロヴァンスのチーズ屋の上で戴いたTartiflette - チーズグラタン? も、とってもよかった。

マルセイユの街のかんじ、なんとなくリオのようだった。建物の光と影とか、ちょっと危なそう、やばそうなかんじとかー。

日曜の晩に戻ってきて、連休最後の一日は、映画2本みて、演劇1本みておわった。

4.01.2024

[theatre] The Motive and The Cue

3月21日、木曜日の晩、Noël Coward Theatreで見ました。24日で終わり、と聞いて駆け込みでチケット取った。

原作はJack Thorne、演出はSam Mendes。元は2023年の4月にNational Theatreで上演されて好評だった作品がWest Endにきたもの。

1964年、John GielgudがブロードウェイでRichard Burtonを主演にシェイクスピアの”Hamlet”のモダン版を演出しようとした際のリハーサル現場のごたごたはらはらの緊張にまみれたありさまをRichard L. Sterne(当時それを横で見ていた俳優)の手記 - “John Gielgud Directs Richard Burton”などを参考にして書かれたドラマ。

1964年、名声は十分だが俳優としてのピークを過ぎた - ので演出家の方に向かおうとしているJohn Gielgud (Mark Gatiss)が俳優としてのりのりでElizabeth Taylor (Tuppence Middleton)と結婚したばかり、いろいろ脂ぎって燃えたぎるRichard Burton (Johnny Flynn)主演の”Hamlet”を演出する。

俳優としてシェイクスピア劇もHamletも散々演じてきて、世界の誰より隅々まで「向こう側」を知り尽くしているであろうGielgudは、当然のように「普通」の演出なんかしたくないし世の期待もそっちだと思っているし、Burtonの方は、このライブの舞台こそ俳優としての自分の真価を世に知らしめる格好の機会なので、このHamletを変に凝ったり捻ったりした珍妙な作劇のなかで見せたくない、と思っている。でも俳優として先達であるGielgudには敬意を払うべきだろうし、かといってウェールズの田舎者が調子に乗るんじゃねーぞ、みたいに舐められたくもないし.. など、真ん中にいる2人の意地とプライドをかけた第三者からすれば滑稽な闘鶏みたいな張り合いがある。

全員が集まる顔合わせの初日から、日を追ってリハーサルや中心のふたりのご機嫌、キャスト・スタッフ全員の雰囲気まで、時にElizabeth TaylorのいるBurton邸でのやりとり - どちらも正気の状態はあまりなく、Burtonはほぼずっとべろべろに酔っ払っている - も挟んで追っていくのだが、人間関係はぐじゃぐじゃの雪だるま式に酷くなっていって、見ている分にはおもしろいのだがどう収束するのだろう? と思っているとー。

ここでのElizabeth Taylorの絡み方がどうにも微妙で、この暫く後に出るBurtonとTaylorの映画 - ”Who's Afraid of Virginia Woolf?” (1966)を意識しているのか、ってどこかにあったけど、そうかもしれない。彼女を背後に隠して、えんえん主演のふたりに喧嘩させていた方が、おもしろくなったのでは。

そして最後の方では、芝居の演出とは、舞台における演出家とは? 演技とは? のようなところまで行って - タイトルはここに絡まる - だから演劇はすばらしいのだ! 演劇ばんざい! みたいなところにまで到達してしまうの。あれだけ罵り合ったり引っ叩いたりやり合って嫌いあっていたのに。まるでハラスメントまみれで問題だらけのプロジェクトが本番開始日になったら何事もなかったかのように互いを称えあったり涙したり、あれってなんだったの? … しらーってなるあのかんじというか。(そういう世界があることはあるので、別にいいけど)

史実として本公演は無事に行われて当時のブロードウェイの興行記録もつくって、双方のキャリアに見事な足跡を遺しているようなので間違いなくめでたしめでたしなんだろうけど、なんかなー そういうもんなのかなー。 あと、あのラストの場面は余計だと思った。

真ん中のふたり - Johnny FlynnとMark Gatissの互いに一歩も譲らない押したり引いたりのやり合いがすばらしいことは確かで、それだけでも見る価値はあると思うのだが、少しだけー。

National Theatre Liveでもやると思うのでぜひ。

[film] Love Lies Bleeding (2024)

3月24日、日曜日の昼にBFI Southbankで見ました。この前日にクロージングのあったBFI Flareで見た最後の1本。この作品、Flareで3回上映があったのだがどの回もぱんぱんにSold Outしていて、普通だとSold Outした回でも当日の昼くらいに何枚かリリースされたりするのだが、この作品だけはまったくそれがなくて、しょうがないので当日に窓口のキャンセル待ちに並んだ。それくらいの人気だったと。

監督Rose Glassの長編2作目。デビュー作の“Saint Maud” (2019) - 日本では配信のみみたい-はすばらしく極上のホラーで、この監督すごい! と思っていたら2作目は(やっぱり)A24だよ。これがまた、すばらしくよかったの。ホラーというより、ロマンティック・アクション・クライム・スリラー、みたいな。音楽はClint Mansell。

1989年、ニューメキシコで場末のジムのマネージャーをしているLou (Kristen Stewart)がいて、ひとりでやりくり - 便器に手をつっこむトイレ掃除までしていて大変そうなのだが、そこにボディビルをやっていてもうじきベガスの大会に出るというJackie(Katy O'Brian)が流れてくる。Jackieの笑顔とぴきぴきの筋肉にやられてしまったLouはうちに泊まっていいからここにいて、って闇で流れてくる筋肉増強剤とかをあげたりしてふたりは親密になっていく。ずっとLouの世話になるのも悪いから、とJackieが近所の射撃場にバイトの口を探しに行くと、そのオーナーLou Sr. (Ed Harris)はLouの父で、Louは彼を毛嫌いしているのであいつのところには近寄るな、と強く言ったりする。

ここでのEd Harrisの極悪っぽいメイクと喋り方がすごくて、ハゲ頭の脇後ろだけ長髪のしわしわで、どういうかんじかというとJohn Carpenterの“Big Trouble in Little China”(1980)に出てくる妖怪Lo Pan(の変身前)だ、ってようやく思いだした。

Louの姉のBeth (Jena Malone)の夫のJJ (Dave Franco)が酷い恒常的DV野郎で、ある晩にBethが病院送りになるくらいひどい怪我をして、いい加減にしろよあのくそったれ、ってLouが怒り悲しんでいるのを見たJackieは、ひとりでJJのとこに向かって素手で簡単に殴り殺してしまう。まさかJackieがそこまでやるとは思わなかったLouは、JJの死体をカーペットに丸めて車に入れて町はずれの崖の上まで運んで火をつけて落っことす。ここの崖の下にはLou Sr.にとって都合の悪いいろんなのが…

そのうち警察の手は近くに迫ってきて、通常であれば軽く警察に手を回せるLou Sr.がなんとかするから取引しよう、とか、他方でLouに憧れる町娘があたしなんか見ちゃった… って寄ってきたりとか、そういのをめぐってLouとJackieの間に亀裂も走って、Jackieのボディビル大会の本番もうまくいかなくて追いこまれていって、どうなる…? って最後まで目が離せない。

監督の前作 - “Saint Maud”でも宗教・信仰を起源とする肉体の変容表現がおもしろかったが、ここでは愛や怒りが絶頂に達するのにあわせて筋肉を膨張・爆発させるさまがとても巧みかつ自然に描かれていて、それがスーパーヒーローものでもなんでもない文脈で唐突にまき起こるのになんの違和感も感じさせないのがすごい。

これ、男女間のノワールのような形式であればいくらでも転がっていそうなネタだが、女性同士 – しかも周囲にいるのがジャンクとしか言いようのないクズ男ばかり、という設定にしているところがよいのかも。その状態でどん底に置かれた彼女たちが立ちあがる、というよりも火をつけて焼き払って知るか、という。最後のところは評価が分かれるかも知れないが、荒唐無稽のなんだこれ?になるぎりぎり手前でふたりの愛の物語 - “Love Lies Bleeding” - 血のようにほとばしる愛 - になっていると思った。

場内はずっと拍手と爆笑の嵐で、やはりKristen Stewartの超絶としか言いようのないクールネスとかっこよさ、があるから、としか言いようがない。最初から最後まであんなに汚物とゲロと血と煙まみれなのになんであんなふうな笑みを浮かべて爽やかに立っていられるのだろう? って。

とにかく、そんな彼女たちがEd HarrisとかDave Francoとか、いかにもな「男」たちをぼこぼこにするのがたまんないの。

3.28.2024

[film] Ghostbusters: Frozen Empire (2024)

3月22日、金曜日の晩、Picturehouse Centralで見ました。
公開初日の金曜日の晩なのに、10人くらいしかいなかった…  考えられる理由:①金曜日の晩に映画を見る奴なんて ②アメリカの幽霊話なんてちゃっちくて見てられない

“Ghostbusters: Afterlife” (2021)からのキャストと背景/事情をそのままNYに持ってきた続編で、監督だったJason Reitmanは脚本のほうに、前作で脚本を書いていたGil Kenanが監督になっている。

舞台がNYに移ったというのに”Ghostbusters” (2016)が完全になかったことにされているのはまことに腹立たしい。このシリーズもこれを最後に消えてくれていい(というくらいこの件については頭に来ている – SONYに)。

Callie (Carrie Coon)、Gary (Paul Rudd)、Trevor (Finn Wolfhard)、Phoebe (Mckenna Grace)の半家族はオクラハマの田舎からNYに移ってきてWinston (Ernie Hudson)の所有するFirehouseを拠点にGhostbustersをやっていて、Janine (Annie Potts)もRay (Dan Aykroyd)もDr Venkman (Bill Murray)も出てくる(顔をだす口を挟む、という程度だけど)し、かつていじわるだったWalter Peck (William Atherton)は市長になってて、相変わらずいじわるで。

そこに怪しげなNadeem (Kumail Nanjiani)がやってきて、彼の持ちこんだ祖母の遺した丸い塊りからなんでも凍らせてしまうお化けがでてきてびっくり… というそれだけなの。

1984年の最初の”Ghostbusters”が大好きだったので、ついあれを基準にして見てしまうのだが、なんかやっぱり…  Ivan Reitmanに捧げる、って最後に出てきて、過去のシリーズの人たち(2016年版を除く)もみんなやってきて楽しいのだが、これ、基本であるべき幽霊退治のどたばたコメディ、ではなくなっているような。なんでも凍らせるモンスターが古代のなんかから解き放たれ蘇ってパニックを巻き起こす – それをやっつけろ! ってだけで、大切な人に幽霊 or お化けが取り憑いてどうしよう.. 助けにいくから待ってろ! のちょっと怖くてどうなるんだろう? の従来の路線のはどこかに行ってしまった。かわりにあるのが、幽霊退治の活動を禁じられ、家族から孤立してひとりぼっちのPhoebeが幽霊のMelody (Emily Alyn Lind)に儚い恋をするとこで、ここ、悪くはないけど全体の流れの中ではなんか浮いてしまっている。

あと、NYの街を氷まみれにしたってあそこの住民はそんなの慣れているので効かないと思うよ(だから町中が騒然となるようなシーンがそんなに描かれないし、囲われた狭いエリア内でバトルしているだけ、に見えてしまう)。

1984年版でマシュマロマンの頭がビルの隙間から見えた瞬間の鳥肌、というのが自分のなかにはまだはっきりと残っていて、あれと同じくらいでっかいのが現れて圧倒してくれないのはとってもつまんない。代わりにちっちゃいマシュマロマンがグレムリンみたいに大量に出てくるけど… (あれはずるいわ)

オリジナル版のRick Moranisに相当しそうなおとぼけキャラ、と言えそうなのが今回のKumail Nanjianiで、彼のまわりだけ変な風が起こるのだが、ここ以外の若いバスターズ – 特にぜんぜん活躍しないFinn Wolfhardとか - は極めて弱いと言わざるを得なくて、あれじゃ幽霊たちには勝てなさそうな。

この週末にやはりサブタイトルに”Empire”の付いたフランチャイズで、ポスター見ただけでろくでもなさそうな怪獣ものが公開されるのだが、あれ、だれも止める人がいなかったのだろうか?


自分のなかで文化とかアートとか、その周辺について見たり考えたりする時の基本線のようなものを教えてくれたのは、まずRaymond Williams、続いてTerry Eagletonで、いま英国にいるのも彼らの著作に触れたことが大きかったと思うのだが、今日ついに、Terry Eagletonのレクチャー(&歌)を聞くことができた。 なんとなく節目の季節にうれしいことでした。

3.27.2024

[theatre] The Hills of California

3月13日、水曜日の晩、Harold Pinter theatreで見ました。演劇を見ていこうシリーズ。

作はJez Butterworth、演出はSam Mendes。Sam MendesのとIvo van Hoveのは、なんとなく入りやすい気がするので見る。Sam Mendesの”Empire of Light” (2022)は、評判よくなかったけどわたしは結構好きで、この舞台にはあの世界にも似た失われてしまった過去から吹いてくる風を感じるような。

1976年、熱波に見舞われた海沿いのリゾート地、ブラックプールで宿屋をやっている木造の古い家屋がある。3階くらいまでの急な階段があって、部屋にはアメリカの州だか町の名前が付いていて、癖のある宿泊客がふうふう言いながら階段を昇っていったりする – そこの上の階だか袖の方だかにある見えない部屋に寝たきりになった病人がいるようで、それはここの主人だった母、その介護をしているのが真面目そうな末娘のJill (Helena Wilson)、その上の姉Ruby (Ophelia Lovibond)も、更にその上の姉Gloria (Leanne Best)も実家に戻ってきて、どちらも今の生活とかこれまでのことで疲れて愚痴と悪態を吹きまくりで大変そうで、Jillがひとり黙々と真面目にがんばっていて、一番上の姉のJoan (Laura Donnelly) – かつて姉妹の希望の星で、一番成功してカリフォルニアに渡っていて、いくら手紙を出しても返事が戻ってきたことがない – でも誰よりも一番待たれている伝説の、最強の長女 – だけが帰ってこない。彼女さえ戻ってきてくれたらー。

第二幕は同じ家で、まだ母(Laura Donnelly二役)が若くて、彼女を囲む四人姉妹がみんなで歌って楽しく夢を見ていた頃の思い出が浮かびあがる。姉妹の歌と振付はずっと練習しているのでみごとに決まっていて、これなら揃って芸能界デビューも、とか言っているとアメリカからそういうのを仕事にしているぽい男が泊まりにきて、彼の前で姉妹がレパートリーを披露すると、彼はJoanひとりを指さして、上の部屋で直接聞いてみたい、と不気味なことを言い、それがどういうことかなんとなくわかっていながら、誰も止められずに…

第三幕はRolling Stonesの”Gimme Shelter”にのって華々しく、というか彼女も別なふうに疲れてやつれて苦しんでいるようなJoanが登場して、家を出てからここまでの悲惨に見えなくもないあれこれを土産話のように語り、そんなのいいから母さんに会ってあげて、というJillとぶつかったりしつつ…

こないだNational Theatreで見た”Dear Octopus”も、数年ぶりに父母のいる実家に戻ってきた子供たちの話 – でもこちらが金婚式のおめでたい集いだったのに対し、こちらのは悲しく辛く、それぞれの目に見える重荷を背負って傷だらけの再会で、でもタコみたいに絡みついたら離れない「家族」的ななにか、はおそらく共通している。その吸盤の痣はこちらの方が深く痛々しいかも。

Joanが家を出てカリフォルニアに渡ってどさまわりのロックスターみたいなヒップで荒れたやりたい放題をしていたその反対側で、Jillは結婚もせずにひとり真面目に暮らして、真ん中のふたりの姉妹にもそれぞれいろいろあって… この劇でちょっと残念なところがあるとしたら、彼女たち(母も含めて)の家を出てからの、或いは残ったままの苦難の旅をひとつ屋根の下になんの縛りも拘りもなく寄せ集めて宙に浮かせてしまったこと、だろうか。それぞれの立場や似た境遇の誰かを思ったり思いだしたりしてしんみりすることはあるのかも知れないが、それだけだととっ散らかって弱いかも。 JoanとJill(or 他の姉妹)は正面からぶつかって大喧嘩すべきだったし、(無理だとわかっていても)母になにかを語らせるべきだったのでは、とか。

昭和くらいの昔の、都会と田舎の話、四姉妹の話、家族のどこかで止まってしまった時間、など日本の寂れた町を舞台にしたドラマに翻案しやすい要素もいっぱいあるか、な?

英国の西海岸とアメリカの西海岸と。ブラックプール、行ってみたくなったかも。

3.25.2024

[film] Sex is Comedy: la révolution des coordinatrices d'intimité (2024)

3月16日、土曜日の晩、BFI SouthbankのBFI Flareで見ました。
英語題は”Sex is Comedy: The Revolution of Intimacy Coordinators”。

映画やドラマ制作の現場でIntimacy Coordinators(以下IC)という仕事、職種が使われるようになった、というのを聞くようになったが、それってどういう要請に基づいてどういうことをやる仕事なのか、をフランスの現場と比較のために英国にも行ったりしながら説明していくドキュメンタリー。とても勉強になった。

フランスの映画制作の現場 - 監督も含めて女性スタッフが多く(映画の中では言及されないが撮影されているのはIris Brey監督による“Split” (2023))そこに主演するふたりは女性で、うちひとりはSavegesのJehnny Bethさんで、彼女が昔、初めて映画の撮影でセックスシーンを演じることになった際の戸惑いと恐怖を語り、雇われたからにはやらなければいけないと焦るし、悩んでいると進行に影響がでるので従わざるを得ないのですごいストレスだった、と。ここには単なる労使関係以上の明確な力関係があって、それがセックスというその人の存在の根幹に関わるものである以上、撮り方、その結果どう見えるか、どう見られたくないか、等については撮る側/撮られる側それぞれできちんと話し合って合意した上で進める必要があるよね – という事情と、だからそこでIC(的な存在)が必要とされるのだ、というのがわかる。

こうして現場で、ICと女優たちと監督を含むスタッフは都度話し合い、場合によってはダメだししたりしながら撮影を進めていく様子が描かれる - 割と楽しそうに笑ったりするとこもあったり。そうやってどれだけ注意深く撮ったものでもレーティングで12+をくらって悔しい… って監督は泣いちゃったり。

いやいや - 現場で監督は神のはずだし作品は彼/彼女のビジョンをアートとして具現化するものなのでそこに第三者との合意形成のようなものが挟まるのはおかしいのではないか - 実際にフランスでICはまだセンサーシップや検閲の文脈 - 表現の自由への介入としてとらえられることが多いそう – なのかも知れないが、このやり方が女優にとって苦痛でしかない演技を「体当たり」として賞賛する傾向とか、知らないなら教えてやるよ、という(つい最近もあった)性加害の土壌になりうるのであれば、正されないとだめよね。

Weinsteinのケースもそうだし、最近の日本の映画関係者の性加害のケースを知ると、これまで見てきた映画の見方やクラシックのありようも変わってくる気がして、でもそれでよいのだと思う。

この方向、日本だと、そういうのなんだか面倒だから俳優を使わないアニメやAIが加工したやつでいいや、の傾向に向かって加速する気がして、これはこれですごく嫌なんだけど…

あとこの役割って、映画撮影の現場だけじゃなくて、パワハラがまかり通りそうな過酷な大規模プロジェクト全般にあっていいもんよね。- こうしてプロジェクトの予算は更に膨らみ…


Hidden Master: The Legacy of George Platt Lynes (2023)

3月17日、日曜日の午後、BFI Flareで見ました。

アメリカの写真家George Platt Lynes (1907-1955)については、Jack WoodyのTwin Palms Publishersの写真集(必携)で知っていたぐらいだったが、存命中の関係者 – Bernard Perlinなど - にもインタビューして彼の写真を中心とした業績とその全容を明らかにする包括的なドキュメンタリー。思っていた以上にすごい広がりのあるお話しだった。

NJに生まれて1925年にパリに渡ってGertrude Steinのサークルに入り、戻ってからNJに書店を開いて周りの友人たちの写真を撮るようになり、またフランスに戻ってJean Cocteauや画商のJulien Levyらと親交を持つようになり、その友人たちを撮り始めたりしつついろんな裾野が広がったり開けたり。

Harper's Bazaarなどのファッション写真やGeorge BalanchineのNew York City Balletを撮った写真のコマーシャルかつソーシャルな成功だけではなく、友人たちのゲイ・サークル内で撮ったプライベートなものも(そっちの方が)おもしろい(... 当時としては相当すごいことをやっているのでは)のが多くて、Robert Mapplethorpeなど、彼なしには登場しえなかったのではないか。

今回の映画では(あの)Kinsey Instituteに残されていた膨大なアーカイブ資料(の発見)が元になったそうだが、映画の最後にChristopher Isherwoodと一緒にいる動いて笑っているGeorge Platt Lynesの映像(撮影はDon Bachardy) - 一瞬だけど - を見ることができて、おおーってなる(これを発見した際の興奮もすごかったって)。

上映後のQ&Aで、現在彼の大回顧展を企画中だがアメリカのメジャー美術館はスポンサーがつかない状態のまま止まっていて、パリの美術館(名前は絶対明かせない、って)と交渉中だそうな。ロンドンにも来てほしいなー。


Orlando, ma biographie politique (2023)

3月17日、↑のに続けて見ました。これもBFI Flareから。
英語題は”Orlando, My Political Biography”。これもドキュメンタリー。カラーをつけたフレンチブルのポスターがかわいい。

作・監督は哲学者/作家のPaul B. Preciado、昨年のベルリン映画祭でTeddy Award (ベストドキュメンタリー)を受賞している。

Virginia Woolfの小説”Orlando: A Biography” (1928)で、主人公のOrlandoは物語の途中で性別を変える(時間も超えたりする)。 現代フランスのいろんな年代(8歳から70歳まで)の26人のトランスジェンダーやノンバイナリーの人たちを集めて、彼らのこれまでの苦難の旅の物語を語ってもらい、自分はOrlandoである、と宣言することで解き放たれるものがある、と – やらせには見えない。本当に苦しんできた、大変だったんだねえ、というのと、文学は(音楽だって絵画だって映画だって)こういう形で人を救うこともあるのだよ → 「なんの役にたつの?」とか言っているバカども。 最後に判事役の人がひとりひとりに新しいパスポートを渡していくところはなんだか感動的なの。

短編の”Old Lesbians” (2023)を見た時(3/14)にも思ったけど、性差とか男女間の恋愛がいかに社会や制度・権力のありようと密に、都合よく結ばれて広められたもの - 生物としてのそれと関係ないものであったか、昔は無反省にどうでもよくて酷かったんだなあ、というのと、今は今で… というのもまだまだあるねえ。

[film] Merchant Ivory (2024)

3月16日、土曜日のごご、BFI Flareで見ました。内容からすれば、べつにFlareの枠にしなくても。

プロデューサーのIsmail Merchant (1936–2005)と監督のJames Ivory (1928- )と脚本のRuth Prawer Jhabvala (1927-2013)、他に音楽のRichard Robbins (1940-2012) 等からなる映画制作プロダクションで、いまや”Call Me by Your Name” (2017)の原作者としての名の方が先に来るかもしれないJames Ivoryが監督した”A Room with a View” (1985)〜 “Maurice” (1987)〜”Howards End” (1992)などについて、あれらって何だったのか、を振り返っておきたい季節に、このドキュメンタリーはちょうどよかったかも。

E.M. Forsterを原作とする文芸大作の雰囲気と格式を持ちながら、見てみると中身は空っぽのすかすかで、でも衣装と雰囲気だけはとてつもなくうっとりさせられて、あの土地に、あの世界に行きたい浸りたい! って強く思うけどほんとにただそれだけで、でも興行的には当たったりしたので映画マニアの人々からの評判はよくない(気がする)

他方で80年代中頃、カラスで真っ黒のゴス連とか頭悪そうなニューロマのだっさいファッションとか、周囲の「音楽好き」の傾向とセンスにしみじみうんざりしていた若者にとって、これらの映画で展開される表層を滑っていって後になんも残らないふうに構築されたドラマの、登場人物たちの纏うファッションの世界がどれだけ輝いて見えたことか。 これらとThe Style Council(2枚目まで)がいなかったらどうなっていたことか、ていうのはよく思う。 “Downton Abbey”のヒットだって、若い頃にMerchant Ivoryの世界に触れた人たちが動かした部分も小さくないのではないか。

映画は、当時のキャスト - Helena Bonham Carter、Emma Thompson、Hugh Grant - なぜ彼が話しだすと人は笑ってしまうのか? - やその中心にいて唯一の生き残りであるJames Ivoryへのインタヴューとスタッフの声を集めて繋いでいく証言集で、給料の未払いでプロダクションに訴訟を起こしたAnthony Hopkinsはやっぱりいないし、Maggie Smithは参加していない。Maggie Smithさんはお話ししてもいいけど憶えているのは毎日がカオスだったこととカレーのことくらいなのよ、だって(後の監督とのトークで)。

プロダクションの力学としては三権分立が機能していて、James Ivoryが大統領、Ismail Merchantが議会、Ruth Prawer Jhabvalaが最高裁判所だった、と。わかったようなわかんないような(なんとなくわかる)、でもIsmailが亡くなったりしてこのバランスが失われると自然消滅していった、と。

どのスタッフからもキャストからもくどいくらいに強調されていたのが、どの作品のプロダクションも財務的には破綻してて誰もどこからどうお金を調達できてまわせるのか、まわしてよいのか、まわっているのかがわからない - いわゆるふつうの謎と「カオス」にまみれた状態であった、と。そういう混沌と破滅状態のなかであの華麗っぽい貴族王朝ドラマが撮られていた、というのは痛快かも。

最初の方ではインドで”Shakespeare-Wallah” (1965) - これはおもしろいよ - などを監督として作ってそれなりに成功していたIsmail Merchantの姿や、彼とJames Ivoryの出会い、インドとの関わりなどが紹介されたりするのだが、そこから何がどうなってあの破綻まみれの自転車操業 - なのにゴージャスで素敵なドラマに繋がっていった/いけたのかはあんまわからなかったかも。これはこれでおもしろいのでよいけど。

階級とか階層とかしきたりとかモラルっぽい壁とか、もちろん恋とかいろいろ、殆どの人にもれなく纏わりついてきて悩ましいったらないけど、そんなのどんだけ泣いて悩んだってお金や身分で解決できるもんでもなし、どうすることもできない - そういうものもある - だから悩んでないで着飾って踊って恋して遊んじゃえばよいのだ主義(どうせ2000年になる前に世界は滅びるさ)というかスタンスというか、これって中長期的にはどろどろは見たくない聞きたくないの事勿れ保守とか「アートに政治を持ち込むな」派に向かいがちなものであったのかもしれない。

でもよく見てみればここには政治や権力や制度にまつわるあれこれが重層で押し込められていることがわかるし、これこそが文芸の、アートの力なのではないか、というのはコロナの頃に彼らの作品を見返して改めて思ったことだった。

あと、あれらのかっこいいコスチュームをどうやって作っていったのか - コスチューム担当のJenny Beavanさんのインタヴューもあって、上映が終わったら彼女が真後ろに座っていたのでありがとうございました、とお礼した。

当然のように見返したくなったので主要作品だけでもスクリーンで再び見れますようにー。


Maurizio Polliniが亡くなった。
90年代のカーネギーホール(ベートーヴェンソナタの全曲演奏、出張で2回逃したのがいまだに悔やまれる)をはじめ、いちばんコンサートに通ったクラシックの人でした。柔らかさと強靭さというのはひとつの楽曲のなかであんなふうに共存しうるものなのか、というのを返す波のように教えてくれた。ありがとうございました。

3.23.2024

[film] Robot Dreams (2023)

3月17日、日曜日の昼、Curzon Aldgateでみました。

正式公開は22日からなのだが、先行でやっていた。こないだのオスカーにもノミネートされていたアニメーションで、予告でEW&Fの”September”が流れてくるシーンだけであーこれはぜったい泣くやつだわ、と思って、こういうのは早めに見る。

原作はSara Varonのグラフィックノベル、脚本は彼女と監督Pablo Bergerの共同。

シンプルで素朴な線とぺったんこのカラーでできたアニメーションで、人間は出てこなくて、動物たちが服を着て都会で暮らしていて、表札とか広告はだいたい英語表示だが、彼らが英語で言葉を交わすシーンはなくて、「あー」とか「おぅ」とかそういうのを発するだけ。ナレーションもない。 いろんな動物がそこらじゅうにいる社会。「ペット」はいない。「君たちはどう生きるか」に出てきそうな謎な生き物もいなくてその欠片もない。地下鉄のホームで太鼓を叩くタコ、には笑う。

舞台は明らかにNYのイーストヴィレッジ(みたいな町) - 地下鉄も、アイスクリーム屋の音楽も立ち食いピザスタンドとか歩いて抜けていく町のかんじも - で、主人公は”Dog”で(表札にも”Dog”、ほかに”Chicken”などもいたり)、なにをして生計を立てているのか不明だがアパートに一匹で暮らしてて、初期のTVゲームをしたり、マカロニチーズをレンジで温めたり、ソファの後ろには”Yoyo” (1965)のでっかいポスターが貼ってあって、窓際にはマジンガーZらしきフィギュアなどが並んでいる。

設定は80年らしいが、後で借りてきた”The Wizard of Oz” (1939)のレンタルビデオにKim’s Videoのロゴがあったので、だとしたら95年くらいではないか ← うるさいよ。

Dogは毎晩退屈でつまんないので、通販で友達ロボットを購入して、自分で組み立てて起動してみたら動いて、一緒に公園とか町中とか浜辺に連れて歩いて友情を深めていくことになる。このシーンのバックに”September”が延々流れてたまんなくなるところ。喋りがないので手を繋いで並んで歩いて目で合図したり、それだけなのだがそれだけなのにほんとにまったく。

ふたりでビーチに行って、楽しく遊んで浜辺に寝転がって、帰ろうとしたらロボットが動けなくなっている – でも目は開いて頭は少し動く - 錆びついたのか燃料がなくなったのか、重くてDogいっぴきでは動かすこともできず、一旦もどって修理マニュアルを携え道具を揃えて浜辺に向かうのだが、その日がシーズン最終日で鍵がかかって入れて貰えず、無理やり入ろうとしたらゴリラの警察だか警備員だかがきて、何度突破を試みても追い出されて入れて貰えない。

春になってビーチがオープンしたら絶対に迎えにいくから、ってDogは決意するのだが、浜辺でずっと横になっているロボットは季節が変わるたび - 冬になると雪で埋もれる – いろんな楽しかったりはらはらしたりの夢を見て過ごす。これが”Robot Dreams”なの。

主がいなくなっても動き続けるロボットのお話、というと”Silent Running” (1972)とかラピュタとかが思いつくけど、そのロボットがお友達ロボットだったら、という辺りがちょっと切ない。

そしてつまらない日々に戻ってしまったDogのほうは…  ここから先は書かないほうがよいか。

これじゃ絶対に泣いちゃうぞ、と見る前に思っていた方にはいかない、ちょっと苦めの、どうすることもできない都会の、NYだったらいかにも、なラブストーリーのようになっていて、それをあのシンプルな線と動き、しかも会話のない動物とロボットの間の目線や切り返しのみで作りあげたのはたいしたもんかも、と思った。

これ、Dogを中心に置いておくだけだと寂しさ退屈さをどうにかしてほしいのね、という話になってしまっておわり、なのだが、彼に買われたRobotの目線や夢を持ちこんだところがおもしろくて、ちょっと考えてしまったりして、そこはよいかも。大人向けかなー、子供に見せたらちょっとどんよりしてしまうかも。